49章 エピローグ
神栖の風は、秋の終わりの気配を帯びて、
どこまでも突き抜けるような**蒼穹の空**だった。
かすかに潮の香りを運んできたその風は、すみれの頬をなで、
重かったはずの過去を遠くへ押し流していく。
すみれは波打ち際の砂浜を、
一歩ずつ、確かめるように淡々と歩いていった。
数歩遅れて、柿沼がついてくる。
その距離は、以前のような「医師と患者」のそれではなく、
かといって甘い「恋人」のそれでもない。
ただ、同じ風を受け、同じ砂を踏みしめる、
生活を共にする者たちの距離だった。
ふと見上げると、**息栖神社**の森から飛び立ったのか、
二羽の**コウノトリ**がゆったりと、
けれど力強く空を舞っていました。
秋の薄い光を透かす、巨大な白い翼。
それは、楽園を追われた人間たちがうごめく
「喧騒をあざ笑うかのように、静謐で、気高い。
「……先生、見て」
すみれが、鍵盤から手を離さずに窓の外を指しました。
彼女の横顔には、先ほどまでの「蛇」の冷徹さは消え、
どこか遠い聖域を渇望するような、悲しげな色が差しています。
「鳥は、死ぬまで連れ添うのよ」
その声は、独り言のようでありながら、
柿沼の首筋を冷たく撫でる鎖のようでもありました。
一度つがいになれば、どちらかが命を落とすまで離れない。
すみれがささやいたそ
の「純愛」という言葉の裏側には、決して逃がさないという、
底知れない執着の味が混じっています。
**「……北浦があるからですよ」**
情緒を排した、医師らしい冷ややかな現実の言葉だった。
豊かな水。
餌となる命。
そして翼を休める場所。
「豊かな水、餌となる命、そして翼を休める場所。
コウノトリがここに留まるのは、
愛や誓いなどという曖昧なものではなく、
北浦という広大な生態系が
彼らを縛り付けているからだよ」
「なるほどね」
「夢も、愛も、
生活という名の餌場がなければ死んでしまう。
この湿原は、草津の八ッ場ダムから流れ出た水が、
日光の鬼怒川や利根川の流れとつながりながら、
長い時間をかけてここまで運ばれてきている」
「ここにある水は、自然のままの水じゃない。
誰かが堤を築き、流れを変え、都市を守るために引かれた水だ」
「利根川流域の治水だって、
もともとは徳川家康の時代に川の流れを変えたことから
始まっている」
「江戸を守るために川を曲げ、
洪水を遠ざけ、
田畑と町を生かすために水を支配した」
「その延長線の上に、今の関東の生活がある。
この湿原も同じだ。自然に見えるけど、
本当は生活を支えるために残された場所だ」
「水が止まれば、ここはすぐに消える。葦も、魚も、鳥もいなくなる。
あのコウノトリだって、北浦が干上がれば、この空を捨てる」
「餌がなければ、生きられない。
人間も同じだよ。
夢だけじゃ生きられない。
愛だけでも生きられない。
生活があって、
初めて夢も愛も続く。
舞台も、恋も、才能も、
全部、水の上に浮かんでいるみたいなものだ」
「水が引いたら、
何も残らない。
だからみんな、
必死に餌場を探す。
仕事を選び、
人を選び、
場所を選ぶ。
それは弱さじゃない。
生きるための本能だ。
コウノトリが空を捨てるみたいに、
人間も、夢を捨てることがある。
愛を捨てることもある。
でもそれは裏切りじゃない。
ただ、生き延びるという選択だ。」
「先生、眠くなったら、もういいよ、長いよ
何言っているか、わけ分からないから
---いつも難しいことばかり言う」
「北浦が干上がっても、私はここにいるの?」
「ここは、すみれさんの家だし」
答えになっていない答えだった。
「……不器用ね。一羽で飛ぶより、
ずっと風の抵抗を受けてるみたい」
すみれは少しだけ笑った。
その言葉は、隣に立つ男への、
そして自分自身への、皮肉を込めた最大限の親愛だった。
「いいじゃないですか。一羽で風を切るより、
二羽で煽られながら飛ぶほうが、
風圧も調整できて、
どこへ辿り着くか分からない愉しみがあるしね、
北浦の風も、潮来の匂いも、二人で浴びれば生活になる」
「先生、怒るよ、
もう、いうなよ、よけい訳わからなくから--」
碧落の空の
白く巨大な風車が、二人の新しい未来をゆっくりと、
けれど止まることなく、視界の限り、つむぎ続けている。
背後に広がる工業地帯には、
ひとつ、またひとつと、宝石のような光が灯り始めていた。
「帰りましょう、先生。……私たちの、騒がしい家へ」
すみれが歩き出す。
砂浜に刻まれた二つの足跡を、神栖の潮風が優しく撫でていった。
**物語 完結**




