48章 メビウスの調べ
次の日の18時、メビウスに明かりがついた。
そのとき、奥から足音がした。
音はほとんどしない。
床を踏んでいるのに、空気だけが揺れる。
暖簾の向こうから現れたのは、マスターの奥さまだった。
年齢は分からない。
若いとも老いとも言えない。
ただ、この店が積み重ねてきた夜の数だけを、目の奥に沈めている。
黒のジャケット。
細いシルエット。
首元には何も飾らないのに、そこだけが異様に美しい。
そして彼女の左腕には、ケースがあった。
細長い。
軽い。
見慣れた形。
柿沼の胸が一瞬で冷える。
――バイオリン。
追放された楽園の秋
また合わせしたようにすみれた4は、トビラを開いた。
カウンターの一番奥に日本機工の常務、加藤が飲んでいた。
すみれたちをかるくエア乾杯をした。
奥様のバイオリンは、細く鋭かった。
甘みがない。逃げ道がない。音が美しいほど、冷たい。
店の空気は整いすぎて、息をすると壊れそうだった。
資本の権化である加藤でさえ、その冷徹な旋律に目を伏せている。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
ちりん、というあまりに軽い音。
入ってきたのは、夜の秋冷をまとった若い女だった。
秋の港の空気は乾いていて、肌を薄く刺す。
彼女が持ち込んだその乾いた冷気に、あおいが小さく息を吸った。
「……来た」
「雪の花」を歌った子。
「声。伸びるよ」
季節は秋なのに、その呼び名だけが冬の透明さを引きずっている。
彼女は店に入った瞬間、立ち尽くした。
ピアノを見、カウンターの端を見、
そして——バイオリンを弾き続ける奥様を見た。
音で測られている。
この若さが、この静謐な暴力にどこまで耐えられるか。
「こんばんは……」
震える声で挨拶し、席に座る彼女の手袋を外す指はぎこちない。
奥様の旋律が、秋の冷たい月光のように降り注ぐ。
ここは楽園ではない。
人間は追放されてから初めて、甘さと罪と生活を覚える。
そして兄弟のように並べられ、選ばれ、捨てられる。
「いくよ」
若い女が、祈るようにマイクを握りしめた。
秋の乾いた空気を震わせ、その澄んだ声が放たれる。
それは伴奏などという生易しいものではなかった。
少女が歌う「雪の花」の清廉さを、
すみれのピアノが背後から執拗に追い詰めていく。
奥さまのバイオリンが細く鋭く、空気を切り刻む中で、
すみれの低音は大地を這う地響きのように、
少女の透明な世界を侵食していった。
「雪の花」という冬の幻影が、すみれが奏でる
「追放された者の渇き」によって、
一滴の脂となって溶け出していく。
美しい歌声が汚され、歪められ、
すみれの独占欲という水槽の中に閉じ込められていく。
その残酷なまでの変貌に、柿沼の良心が、
理性が、音を立てて崩れていく。
「……うまい、です」
柿沼が漏らした言葉は、もはや絶望に近い吐息だった。
少女の声が、奥さまの弓が、そしてすみれの打鍵が。
すべてが絡まり合い、逃げ場のない「汚れ」が完成していく。
加藤は無言でその光景を視界に収め、
資本の冷徹さで、堕ちていく若さを計測していた。
そこへ重なるように、すみれの指がピアノの鍵盤へ落とされた。
放たれたのは**「エデンの東」**。
「マスターもなんか引いてよ。18番」
「マスター、何か弾いてよ。十八番の……」
あおいの無邪気な声が、張り詰めた硝子細工のような空気を叩き割った。
「『エデンの東』」
カウンターの奥で、マスターが静かに一挺のバイオリンを肩にのせる。彼が奏で始めたその音は、
奥さまの鋭利な「刃」とは対照的に、
**「乾いた大地」そのものの唸り**を湛えていた。
楽園を追われ、泥を噛み、
血を流して生きる人間の、重く逃げられない「生活」の音。
すみれのピアノは、あえて出過ぎない。うしろから音をそえた。
彼女は、マスターのバイオリンが描く荒野の旋律に、
底の知れない暗闇を敷いていく。
主張せず、しかし執拗に。低音の鍵盤が、
少女の逃げ道を一音ずつ塗りつぶしていく。
それは、主役を譲りながらも、
この場を支配する「影」の役割だった。
「いくよ」
マイクを握った少女の唇から、
『あとひとつ』、そして**『小さな恋のうた』**が放たれました。
それは、ただの純粋な歌声ではありませんでした。
低音から高音まで、縦横無尽に駆け巡る広大な音域。
フォルティシモ 、
時に秋の夕暮れのように低く、
時に冬の夜空を貫く星のように鋭く。
音域の広さを惜しみなく活かしたその表情豊かな歌唱は、
聴く者の心を強引に引き剥がし、
彼女の世界へと連れ去る力を持っていました。
「プロより、上手い」
成瀬の呟きが、重い湿り気を帯びて店内に落ちた直後、
あおいの無邪気な声がそれを跳ね飛ばすように響きました。
「ほんとうだよ、プロになれる! ねぇ、すごかったよ!」
それは、この「楽園を追われた後の場所」には到底そぐわない、
あまりに青く、無防備な調べ。
彼女の声は、秋の乾いた空気に一筋の亀裂を入れるほど透明で、
誰にも汚されていない冬の静寂そのものでした。
一点の曇りもない高音が、店の重苦しい天井へ向かって、
震えながらも真っ直ぐに伸びていく。
しかし、その「純粋」が響き渡るのを、こ
の空間は、そして奏者たちは許さない。
マイクを握った若い女の、
「あとひとつ」小さな恋のうた」が放たれている。
どこまでも透明で、汚れを知らない冬の調べ。
しかし、マスターのバイオリンが奏でる大地の咆哮と、
すみれの密やかな打鍵が、
その「純粋」を容赦なく削り取っていく。
奥さまのバイオリンが、高音で少女の呼吸を切り裂く。
すみれのピアノは、決して前面に出ることなく、
ただ少女の足元を「独占欲」という名の重油でベタつかせていく。
柿沼は、右側の奥歯で自分を支えるように食いしばった。
抜歯のあとの空洞に、
二挺のバイオリンと控えめなピアノが作る不協和音が、
秋の乾いた風となって吹き抜ける。
痛い。けれど、あまりに「完成」されている。
加藤は、この「資本」と「生活」と「罪」が混ざり合った調和を
、冷徹な満足感で見届けていた。
冬を待つはずの「雪の花」は、秋の乾いた土の色に染まり、
すみれのピアノという影の中にゆっくりと沈んでいく。
出過ぎないピアノの音が、
かえってこの場の「堕落」を決定的なものにしていた。
「……先生、これがこの土地の音楽よ」
「いくよ、小さな恋のメロディ/ビージーズ」
バイオリンを入れる。
Who is the girl at the window pane
窓辺のあの女の子は誰?
Watching the rain falling down?
雨が降るのを見ているあの娘
Melody, life isn't like the rain
メロディ 人生は雨のようじゃなくて
Its just like a merry go round
メリーゴーランドのようなものさ
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「みんな、どうしちゃったのよ……」
すみれは、手元のカクテルグラスをそっと置いた。
ピアノの鍵盤を叩くときのような繊細な指先が、
少しだけ震えている。
「やばい、だめ、泣く」
あおいは一度泣き始めると止まらない。
「だって、この曲、ずるいよ。
メリーゴーランドみたいに回るだけで、
どこにも行けない人生だって言われてるみたいで……」
あおいがハンカチで顔を覆う横で、
日本機工の男は「人生のゴミ」を洗い流すかのように、
琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「すみれさん」
不意に、成瀬が潤んだ瞳をこちらに向けた。
「君のピアノなら、この雨を止めて、
回るだけのメリーゴーランドを前に進めることができるのかな」
重い問いかけに、すみれは言葉に詰まる。
(私だって、自分の人生の行き先さえ分かっていないのに)
脳裏をよぎるのは、
神栖済生会病院で働く柿沼の顔だ。
年収1000万を稼ぎ、外科医として第一線でメスを握る彼。
そんな彼に対して、自分はまだ何一つ確かな言葉を返せていない。
「……音楽は、魔法じゃないわ」
すみれは自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、明日も音楽教室のレッスンがあるの。
子供たちに、人生はゴミだなんて教えられないでしょ?」
すみれは努めて明るく振る舞いながらも、
心のどこかで柿沼の気持ちを確かめるための勇気を、
じっと探し続けていた。
すみれが慌てる。
「ちょ、ちょっと……ハンカチ!」
加藤が紙袋を差し出す。
「羊羹の包装紙ならあります」
「いらない!」
店の空気が、笑いで少しだけ救われた。
音楽は人を泣かせる。
でも、生活はすぐにツッコミを入れる。
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曲の終わり、すみれの瞳が柿沼を射抜いた。
彼女はピアノを「弾く」のではなく、
その場にいる全員を、この乾いた大地へ
「飼い殺す」ための調律を、完璧に仕上げていた。
最後の音が消えたあと、店にはただ、
秋の夜の乾いた冷たさだけが残った。




