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47章 神栖のバーベキュー

あおいからのLINEは、神栖の静かなリビングに、

まるで爆撃予告のように届いた。


> **あおい:**

> 「今後の土曜日、空いてる?

>  あんたの新しい家の芝生で、バーベキュー大会やるわよ。

>  柿沼先生に、火おこしくらいさせなさい。

>  最高級の常陸牛、私が送り込んであげるから」


すみれはスマホの画面をタップし、窓の外に広がる新品の、

まだ毛足の揃った芝生を眺めた。


「……柿沼さん。あおいが来るって。

ここでバーベキューやるって言ってるわ」


ソファで医学書を広げていた柿沼が、目に見えて跳ね上がった。


「えっ! こ、ここ、僕たちの庭でですか!?

あの、あおいさんが……!?」


柿沼は、新築の床に傷をつけまいと、

常に爪先立ちで歩くような男だ。

そんな彼にとって、


あおいという嵐が、煤と煙を携えてやってくるのは、

もはや天災に近い。


「あ、あおいさんが来たら……僕、焼き加減一つで

『先生、オペの時もそんなに手際が悪いの?』

って、あの鋭い視線で串刺しにされますよ……!」


「いいじゃない。この芝生、

まだ誰の足跡もついてないんだから。


あおいに踏み荒らしてもらって、

ようやく私たちの『生活』が馴染むってものよ」


すみれが楽しそうに追い詰めると、

追い打ちをかけるようにスマホがまた震えた。


> **あおい:**

> 「言い忘れたけど、重たいタレはいらないわ。

>  塩レモン一択よ。

>  先生、まさか市販のパック詰めなんて出さないわよね?

>  瀬戸内産のレモン、私が手配しといたから」


画面を覗き込んだ柿沼は、

今度は真っ青になってキッチンへ駆け込んだ。


「し、塩レモン……! 煮干しの出汁なら計算できますけど、

レモンと塩の黄金比なんて……!

あおいさん、絶対ミリ単位で味の濃度を査定してきますよ!」


「……どんまい、先生。

レモン絞るくらい、外科医じゃなくてもできるでしょ」


「違いますよ、すみれさん! 塩の粒度、レモンの皮の削り方

……それによって、常陸牛の脂の溶け方が変わるんです。

これはもう、化学実験……いや、執刀ですよ!」


柿沼は、まだシールの付いたままの新品のボウルを取り出し、

目つきだけは「神の手」を持つ名医のように鋭くなった。


神栖の新しい家、冬の終わりの柔らかな日差し。

そこで繰り広げられるのは、


優雅なティーパーティーではなく、

あおいの舌を満足させるための、

不器用な内科医による「塩レモン執刀式」になりそうだった。


すみれは、ピアノの蓋をそっと開けた。

あおいの笑い声と、肉の焼ける匂いと、レモンの酸っぱい香り。

ようやく始まった「未来」は、

想像していたよりもずっと、騒がしくて、えぐみが強そうだ。





土曜日、神栖の静かな住宅街に、

およそ似つかわしくない重厚なエンジン音が響き渡った。


漆黒のベンツのEクラス。


その巨大なフロントグリルが、

柿沼が大切に手入れしている新築の門柱のすぐそばで、

ぬらりと光を反射して止まる。


「……来たわね」


すみれが窓越しに呟く。

助手席から降りてきたあおいは、


神栖の潮風などどこ吹く風といった装いで、

サングラスをずらして新居を値踏みするように眺めた。


「あら、意外とまともな家じゃない。

もっと煮干し小屋みたいなのを想像してたわ」


続いて運転席から、


長身で仕立てのいいジャケットを着こなした男が降りてきた。

あおいの旦那、成瀬だ。彼はトランクを開けると、


そこから「常陸牛」と金文字で刻まれた桐箱を、

まるで行うべき儀式の供物のように軽々と持ち上げた。


「やあ、柿沼先生。今日は無理を言ってすみませんね。

あおいがどうしても、

先生の火おこしの手際を見たいと言うもので」


成瀬が爽やかに、けれどどこか逃げ場のない笑みを浮かべる。


「あ、成瀬さん……! いらっしゃい、お、お入りください!」


キッチンで「塩レモン」の調合をミリ単位で

調整していた柿沼が、

エプロン姿のまま玄関へ飛び出した。

その手には、まだ絞りかけのレモンが握られている。


「先生、まさかそのレモンで私をもてなすつもり?

早くその最高級の芝生に、炭のコンロを用意しなさいよ」


あおいは成瀬の腕を借りて、

新品の芝生にピンヒールで最初の一歩を刻み込んだ。


「いい? 先生。今日のメインは肉じゃないわ。


成瀬を唸らせるほどの、あなたの『塩レモン』の出来よ。

もし口に合わなかったら、


この家、来週には私が買い取って、

私の靴専用の倉庫にしてあげるから」


「そんな……! 買い取りなんて、まだローンが……!」


柿沼は悲鳴を上げながら、

成瀬が持ってきた桐箱を恭しく受け取り、庭へと走り出した。


すみれはピアノの椅子から立ち上がり、窓を開ける。

ベンツの排気ガスの匂いが、神栖の磯の香りと混ざり合い、


ようやくこの家が「ただの箱」から、

騒がしい連中の溜まり場へと変貌していくのを感じていた。


「大げさなのよ、みんな」


すみれは少しだけ笑い、

庭で炭と格闘し始めた「魂の主治医」の後ろ姿を見守った。


-




あおいの放った一言が、静かな庭に響いた。


「あら、その瀬戸内レモン、

色が少しぼやけてない? 成瀬、トランクにある『あれ』を出して」


成瀬がベンツのトランクから恭しく取り出したのは、

大分から取り寄せたという、

瑞々しく深い緑色をした**最高級のカボス**だった。


「……レモンを、カボスに?」


柿沼が、まな板の前で呆然と立ち尽くす。


「そうよ。常陸牛の重厚な脂には、

レモンの単調な酸味じゃ力不足だわ。

カボスの持つ野性味のある香りと、

鋭い酸。……先生、今すぐレシピを書き換えなさい。

このカボスを使って、

成瀬を満足させる『塩カボス』を完成させるのよ」


あおいは、新築のテラスに置かれた椅子に深く腰掛け、

女王のように命じた。


「……わかりました。やります!」


柿沼の目に、悲壮な決意が宿った。

彼は手にしていたレモンを置き、

代わりに緑のカボスを執刀台(まな板)に載せた。


「すみれさん、カボスの皮を数ミリ、

おろして。香りの『芯』を作るんだ。


成瀬さんのような官僚を納得させるには、

表層の酸っぱさだけじゃ足りない……複雑な余韻が必要だ!」


「はいはい。先生、目がマジすぎて怖いわよ」


すみれは苦笑しながら、カボスの皮を丁寧に削り始めた。

炭火がパチパチと音を立て、網の上では、


成瀬が持参した常陸牛のサーロインが、

じわりと脂を浮かび上がらせている。


「さあ、先生。私の靴倉庫になるか、

この家を守り抜くか。

……すべてはその『塩カボス』にかかっているわよ」


あおいの冷徹なカウントダウンが始まった。

柿沼は、粗塩とカボスの果汁、そしてすみれが削った皮を、

まるで劇薬を調合する科学者のように混ぜ合わせていく。


神栖の庭に、肉の焼ける暴力的な香りと、

カボスの鮮烈な香気が交差した。



炭火の熱が、冬の終わりの空気を白く揺らしている。


成瀬がベンツのトランクから引き出したのは、

重厚な**ダイワ製のクーラーボックス**だった。


釣り具メーカーならではの圧倒的な保冷力を誇るその蓋を開けると、

詰め込まれた大量の砕氷がカチカチと硬質な音を立て、


そこにはギンギンに冷え切った

**キリン一番搾り**と**クラシックラガー**の缶が、

まるで獲物のように鎮座していた。


「柿沼先生、まずはこれを。準備を始める前に、

喉を潤しましょう。華やかな一番搾りと、ガ

ツンとくるラガー、どちらにしますか?」


「あ、あ、ありがとうございます……! じゃあ、ラガーを!」


成瀬がダイワの底から一本引き抜くと、

缶の表面は瞬時に白い霜をまとい、

指が張り付きそうなほど冷え切っている。


柿沼は、震える手でプルタブを引いた。

**プシュッ**という爽快な音が、

神栖の静かな住宅街に響き渡る。


「乾杯」


四人のグラスが重なり、澄んだ音が鳴る。


ダイワの保冷力で極限まで冷やされたラガーの苦みが、

塩カボスの調合で乾ききっていた柿沼の喉を、

そしてすみれの胸の奥を、一気に駆け抜けていった。


「……はぁ。やっぱりこれだ。このキンキン具合、

ダイワのクーラーじゃなきゃ出せませんね……!」


柿沼が思わず、医者としての仮面を脱ぎ捨てた声を漏らす。


「いい飲みっぷりね、先生。でも、

その冷たさで味覚を麻痺させないでよ?


その一杯で感覚を研ぎ澄ませて、

この常陸牛に最高の『塩カボス』を添えるのよ」


あおいは、自分の一番搾りを優雅に傾けながら、

網の上で絶妙な色に変わり始めた肉を指差した。

---


「さあ、焼き上がるわよ。先生、執刀(味付け)の時間よ」


あおいがフライパンを振る。


柿沼は白衣じゃなくエプロン姿で、塩を持ったまま固まっていた。


「……成瀬さん、あおいさん、美人ですね」


成瀬が即座に耳打ちする。


「あれ、最低の悪女です」

「えっ、そうなんですか? 全然そう見えませんけど」


「わたしのこと、なんて呼んでるか知ってます?」


「財務署のエリート、とかですか?」


「ところがです」


成瀬は深刻な顔で言った。


「走れ――」


柿沼が真顔で返す。


「メロスですか?」


「違います! 走れATMです!」


「成瀬さん、それは……ひどい過ぎですね」


「でしょ!?」


柿沼は少し考えてから言う。


「でも、増えるATMMなら…いいんじゃないですか?」


成瀬が膝から崩れた。


「先生!! そこ肯定しないでください!!」


あおいが振り返る。


「なに? 私の話?」


成瀬が秒速で笑顔になる。


「いえ! 天使の話です!」


柿沼が小声で言う。


「先生、命が惜しければ黙って味付けしてください」

すみれ


柿沼は真顔で塩を振りながら、


「……先生、乾杯しますか。こういうの、同病相憐れむって」


「先生、それ慰めになってません」


柿沼は、優雅に箸を進めるあおいの横顔を見ながら、

自分たちの破滅がまだ「冗談」で済んでいる幸運

を噛み締めた。


「じゃあ何て言うんです」


「せめて“同期の桜”です」あおいが笑う。


「えっ、それ特攻隊の歌だよ、

まじ、やばい、突っ込むということ?」



「いいえ、散り際が美しいという意味。お金が尽きたら、

未練なくパッと消えていただく。

まさにエリートの嗜みでしょう?」


あおいは、男の財布を空にした後の空虚な沈黙を、

桜吹雪のように愛でている。


「成瀬さん、逃げて。あおい、

男を『使い捨ての弾丸』だと思ってる」

すみれが震える声で囁く。


「大丈夫だよ。私の口座はもう、

昨日あおいにハッキングされて空っぽなんだから」


柿沼は、優雅に箸を進めるあおいの横顔を見ながら、

自分たちの破滅がまだ「冗談」

で済んでいる幸運を噛み締めた。


あおいは最後の一口を飲み込み、

ナプキンで唇を優雅に抑えた。


「ごちそうさま。……ああ、そんなに怯えないで。

残高のない男に、特攻させる価値なんてないわ」


彼女は風のようにビールを飲み込んだ。

「最高」


「……先生、今の聞いた? ぼくたち、

あおいさんに『使い捨てのゴミ』って言われたんだよ」


「最高のご褒美じゃないか」


「先生、クーリングオフ過ぎたからね」


柿沼は、残った肝吸いを啜り、

「なんなんだよ、これ」ようやく人心地ついた。


「残念でした。契約は昨夜のあの


『RAMの書き換え』で成立済み。

いまさら消費者センターに泣きついたって、

もう遅いから」すみれがいたずらっぽく笑った。


「なんなんだよ、これ」と再び零しながらも、


柿沼の口元には微かな笑みが浮かんでいた。


特攻する価値もないゴミになった自分たちが、

今はたまらなく自由で、誇らしかった。




---

「なに二人でこそこそしてんの。乾杯するなら早く!」


成瀬が即座にグラスを持つ。


「はい! お互いの命のために!」


柿沼が小さく言った。


「……僕は味付けのために」


---



「先生、命が惜しければ黙って味付けしてください」

「先生、乾杯しますか、同病相憐れむって」


いつも間にか、すみれが怒っていた。


---



柿沼はラガーを置き、再びカボスに向き直った。

クーラーボックスの氷のような冷たさと、

ラガーの重厚なコクが、

かえって彼の集中力を異常なまでに高めている。


「すみれさん、小皿を。

このラガーのホップの余韻に負けないくらい、

カボスの皮を強く削って。

……常陸牛の熱い脂を、

この冷たいソースで一瞬だけ引き締めるんだ」


「……先生、ビール飲んで変なスイッチ入ってない?」


すみれは呆れながらも、

言われた通りに小皿を差し出した。

網の上では、常陸牛の脂が炭に落ち、ジュウ、

と激しい音を立てて煙を上げている。


神栖の庭。

ベンツと、ダイワのクーラーボックスと、肉の焼ける匂い。

不器用な内科医の、

負けられない「塩カボス決戦」がいよいよ幕を閉じた。


いい。ここ最高です。

一気に「呪いの競演」から、現実の生活へ落ちる。

この軽さが逆に怖い。


---


「えぃ、すみれ。あしたピアノバーに連れて行ってよ」


あおいが笑いながら言う。

軽い声。

軽いまま、逃げ道を塞ぐ声。


「で、きょう、どうするの?」


あおいは続ける。


「銚子のホテル。明日、観光……成瀬、早く予約してよ」


成瀬が慌ててスマホを取り出す。

「あおいさん、人使いが荒すぎて、すいません」




あおいは、すっかり出来上がった様子で、

成瀬の肩にだらしなく寄りかかった。


「雪の華、歌う子も、呼んでよ。

いい声しているんでしよ


……胸の奥がキュンとして、お酒が進むんだよね」


すみれは、自分に預けられたあおいの重みを感じながら、

隅で静かに飲み込む柿沼に視線を走らせた。

る。


「雪の華、ね……」


すみれは、自嘲気味に口角を上げた。

「いいわよ。あの子の歌は、すべてを白く塗りつぶしてくれるから。……でも、あおい。あの子を呼ぶなら、

覚悟してね。私のピアノが、

その純白をどれだけ汚してしまうか、わからないけれど」


あおいは笑い飛ばすが、柿沼だけは気づいていた。

すみれの指先が、ピアノの鍵盤を叩くように、

トントンと威圧を刻んでいることに。

そのリズムは、あおいの陽気な声とは裏腹に、胸にささる。


それは、診察室で聞く規則正しい心音とは対極にある、

不穏なビートだった。


すみれは微笑みを崩さないまま、

缶ビールーを叩く指をふと止め、

その指先をじっと見つめた。まるで、そこに獲物の血がついているかのような、冷徹な眼差しで。




次の日の18時、メビウスに明かりがついた。



そのとき、奥から足音がした。


音はほとんどしない。

床を踏んでいるのに、空気だけが揺れる。


暖簾の向こうから現れたのは、マスターの奥さまだった。


年齢は分からない。

若いとも老いとも言えない。

ただ、この店が積み重ねてきた夜の数だけを、目の奥に沈めている。


黒のジャケット。

細いシルエット。

首元には何も飾らないのに、そこだけが異様に美しい。


そして彼女の左腕には、ケースがあった。


細長い。

軽い。

見慣れた形。


柿沼の胸が一瞬で冷える。


――バイオリン。


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