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46章 神栖の寿司 高級魚

神栖の夜は、すべてを飲み込むような深い闇を湛えていた。


海の匂いが残る道を、タクシーが静かに滑る。

ネオンは少ない。その代わり、自分の輪郭が際立つような、

本物の暗さがそこにはあった。


すみれは窓の外を見つめたまま、低く言った。




「もうラーメンは飽きたから」


助手席で柿沼が目に見えて狼狽し、背中を固くした。


「……飽きた、んですか?」


「飽きた。煮干しも契約書も、もう十分。今日は寿司」




柿沼は困ったように、けれどどこか降参したように笑った。


「神栖で寿司……僕、高い店しか知らないですよ」


「穏当なの、見え張っていない。いいよ。

今日は、高級でいい」


その言葉は贅沢への渇望ではなく、

この男がどこまで自分の「現実」

を背負う覚悟があるかという、

静かな試しだった。


タクシーが、漆塗りの重厚な門構えの前に止まる。

すみれは、柿沼がドアを開けるのを待たず、

自ら外へ踏み出した。


白木のけやきのカウンター。

細かく刻まれた年輪が、

この一枚板が重ねてきた気の遠くなるような時間を

物語っている。


店内は常連客で賑わい、活気がある。

それでいて「2万円以上は取らない」

という大将の心意気が、


この場所をただの高級店ではない、

血の通った「居場所」にしていた。


すみれは一番奥の席に、

吸い込まれるように腰を下ろした。


「大将。一番高いのを。

……お代は、この先生が持つから。

ね、柿沼さん」


不敵な笑みを浮かべ、隣の男を横目で射抜く。

欅のカウンターの上、

かやのまな板を叩く包丁の音が、

乾いたリズムを刻む。


大将が、神栖かみすの深海をそのまま切り出したような、

鮮やかな朱色の身を差し出した。


「まずは、**アカムツ**。のどぐろです。

それから、**メヌケ**に**オニカサゴ**。

どれもこのあたりの深い、深いところのものです」


「オニカサゴ、メヌケ……」


すみれはその名の価値を知らない。


けれど、目の前の切り身が放つ圧倒的な存在感だけで

理解した。

それは、

あの寂しいキッチンで嗅いだ煮干しのスープとは

対極にある、脂の乗った「本物の贅沢」だ。


すみれは箸を使わなかった。

かつて鍵盤の上で喝采を浴びたその指先で、


直接アカムツを摘み上げる。

そして、戸惑う柿沼に見せつけるようにして、

ゆっくりと口に運んだ。


「……甘い」


舌の上で溶けていく脂は、官能的なまでに甘く、

残酷なほどに美味かった。


---






体温で溶ける脂が、

喉の奥にこびりついていた煮干しのえぐみを

塗りつぶしていく。

すみれは目を細め、隣で固まっている男を横目で見た。


「どうしたの、柿沼さん。自分の財布が、

深海に沈んでいく音でも聴いてるの?」


柿沼は、差し出されたメヌケの一貫を前に、

指先を小さく震わせていた。


「いえ……。

昨日までは五〇〇円のスープの味しか共有

していなかったのに、

急にこんな、一貫数千円の現実を突きつけられると、

自分が何を食べているのか、一瞬分からなくなります」


「いいのよ。それが『生活』よ。安っぽい幻想の代わりに、

高い魚を喉に詰まらせて、苦しみながら味わいなさい」


すみれは次に、

棘だらけの姿からは想像もつかないほど澄んだ身をした

超高級オニカサゴを口にした。


「先生、これ。あなたの卑怯さと同じくらい、

噛み応えがあるわ」


柿沼は覚悟を決めたように、


超高級魚メヌケを口に放り込んだ。

噛みしめるほどに溢れる濃厚な旨味。


それは、彼が今まで守ってきた


「質素で誠実な医師とおなじくらい」という殻を、

内側から食い破っていくような味がした。


「……美味しいです。すみれさん、

僕、この味を一生忘れない気がします」


「忘れないで。この一貫が、

私の何分の一個の人生だってことを。

ねえ、大将。次はもっと脂の乗ったやつを。

この先生の顔が、もっと青くなるようなやつ」


大将が、活きのいい**車エビ**を氷水から引き揚げた。


「活き、行きます」


一瞬の早業で剥かれた身は、まだ微かに震えている。

すみれはその弾力を、前歯で容赦なく断ち切った。


「……残酷ね」


口の中に広がるのは、暴力的なまでの甘みと、生命の匂い。



「次、黒アワビ。それから勝浦かつうらのイセエビ、

イシダイです」


大将の差し出す至高の皿を、

すみれは片っ端から空にしていった。

咀嚼するたびに、

高級魚の脂が彼女の絶望を塗りつぶしていく。


柿沼は、自分の前に置かれた車エビを見つめ、

黒アワビを見つめ、ようやく静かに箸を取った。


「……うますぎるよ」


「先生も食べなさいよ。

あなたが私を神栖かみすに連れてきたのは、

こういうことがしたかったからでしょう?」


すみれは、まだ跳ねている車エビの殻を、

冷徹な手つきで剥いた。


「私の自由を剥いて、自分の生活の中に閉じ込める。

……この車エビと同じ。動けなくして、味わうのよ」


柿沼は、剥かれたエビの身をじっと見つめ、

小さく吐息をついた。


「……そうかもしれません。僕は、あなたの羽をもいで、

僕の手の届く水槽に入れたかった。

このエビの暴力的なまでの甘みは、僕の醜い独占欲の味です」


すみれは、冷めた目で彼を見やった。


「それ日本語? もういいよ、

相変わらず訳わかんないから」


彼女はそう言い捨てると、

また次の「贅沢」を口に放り込んだ。



柿沼がエビを噛みしめる。その音が、

静かな店内に小さく響いた。


続いて出されたのは、厚岸の**ホタテ**だ。

大将が飾り包丁を入れ、軽く炙ると、

磯の香りが一気に膨らむ。


「ホタテです。厚岸から。甘みと歯ごたえ、

両方あります」



「えぃ、マスター、能書きいいよ-----

食べれば分かることだから」


「失礼しました」と、後ろむいて、舌をだした。


すみれは、炙られたばかりの温かいホタテを、

大きな口で頬張った。

柔らかい。けれど、中心には確かな芯がある。


「これ、私に似てる。

……ねえ、柿沼さん。


あなたは私の柔らかいところだけを求めてるみたいだけど、

私の中には、あなたには一生噛み切れないような、

冷たくて硬い芯があるのよ。それを飲み込む覚悟、

本当にあるの?」


柿沼は、ホタテを飲み込むと、

お茶を一口含んでからすみれに向き直った。


「あります。その芯が僕の喉を傷つけても、

血を流しながら一緒に生きていく。


それが、僕が五十万円の契約書を書いて、

あなたに言った言葉の続きです」


「うるさいよ、理屈、多すぎ」



「……ふん。口だけは、大将の包丁より冴えてるわね」


大将が、静かにまな板を整えた。


奥から取り出されたのは、深く、重厚な赤。


「……**クロマグロ**。本マグロです。

大トロに近い、大切りの腹の身です」


包丁が吸い込まれるように入り、一握。

白木のカウンターの上に、神栖の闇を凝縮したような、

あるいは燃え残る夕陽のような一貫が置かれた。




すみれは、それを手に取らなかった。

ただ、じっと見つめる。


「綺麗ね……。でも、これ。

私たちがテリオスの中で吐き出した、

あの最低な言葉たちの色に似てない?」


すみれは指先で、マグロの脂をなぞった。


「先生。これを食べたら、もう『ただの医師』と

『ただのピアニスト』には戻れないわよ。


この脂は、あなたの生活を、

すみれの指を、永遠にベタつかせる。……それでも食べる?」


柿沼は、眼鏡の奥の瞳を微かに揺らした。

彼は無言で自分の分の一貫を摘み上げると、

それを一気に口に放り込んだ。



---


「……うまい、です」


「柿沼さん」


大将は包丁を置き、深く息をついた。


「こちらのお嬢さま、取扱が大変だよ」


すみれのほうをちらりと見て、肩をすくめる。


「脂の多い魚より厄介だ。

一度包丁を入れたら、途中でやめられない。

でもな、扱いを間違えると、店ごとダメになる」


すみれは笑わない。

カウンターの木目を指でなぞっている。


大将はさらに続けた。


「こういう客はな、腹じゃなくて人生で食べるんだよ。

だから値段が高い」


柿沼は、喉を鳴らして言った。


その声は、もはや謝罪でも、詩でもなかった。

自分の生活が、


この一瞬で「取り返しのつかない場所」

へ踏み出したことを確信した、

一人の男の沈み込むような声だった。


すみれも、ゆっくりとマグロを口に運んだ。


「……えぐい」


煮干しのスープとは違う、贅沢という名の、

残酷なまでのえぐみ。

ハマグリのお吸い物。


「うますぎだよ」


「お代、しっかり払いなさいよ。

……領収書なんて切らせないから」


すみれは席を立つ。


大将は、二人の背中を見ながら、小さく首を振った。


「まったく……医者もピアニストも、

魚の食い方だけは素人だな」


皿を重ねながら、ぼそりと言う。


「恋なんて、生ものだってのに」


カウンターに残された、空の皿。

そして、タクシーの座席に「放擲」

されたままの一万円の羊羹。


店の外には、神栖の、逃げ場のないほど深い夜が待っていた。


---


神栖の深い夜、寿司屋の重い扉を閉めた瞬間、

二人の間に漂っていた「契約」の匂いは完全に消え去る。


喉に残るクロマグロの脂と、煮干しのえぐみ。


一棹一万円の「万羊羹 常陸」。


あおいという光も、有明の虚飾も、


柿沼が縋った「主治医」という名の聖域も、

すべてはこの闇の中に溶けていった。


残ったのは、高価な寿司の代金を支払い、

隣を歩く不器用な男の体温と、

それを受け入れた一人の女の、剥き出しの現実だけ。


「……帰りましょう。私たちの、新しい家へ」


すみれが歩き出す。

その足取りは、もはや誰の「太陽」でも、

誰の「患者」でもない、


ただの早瀬すみれという一人の女の、

静かで確かなリズムを刻んでいた。





あおいからのLINEは、神栖の静かなリビングに、

まるで爆撃予告のように届いた。


> **あおい:**

> 「今後の土曜日、空いてる?

>  あんたの新しい家の芝生で、バーベキュー大会やるわよ。

>  柿沼先生に、火おこしくらいさせなさい。

>  最高級の常陸牛、私が送り込んであげるから」


すみれはスマホの画面をタップし、窓の外に広がる新品の、

まだ毛足の揃った芝生を眺めた。


「……柿沼さん。あおいが来るって。

ここでバーベキューやるって言ってるわ」


ソファで医学書を広げていた柿沼が、目に見えて跳ね上がった。


「えっ! こ、ここ、僕たちの庭でですか!?

あの、あおいさんが……!?」


柿沼は、新築の床に傷をつけまいと、

常に爪先立ちで歩くような男だ。

そんな彼にとって、


あおいという嵐が、煤と煙を携えてやってくるのは、

もはや天災に近い。



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