45章 メビウスの輪
神栖の港町にある、古いピアノバーだ。
工場の灯りとコンビナートの赤い点滅が、
夜の空に滲んでいる。
看板のネオンは半分切れていて、
それでもここだけは静かに呼吸している。
柿沼は先に立ってドアを押した。
「ここです」
すみれは一歩遅れて入る。
空気が変わった。
煙草の残り香。
グラスの氷が鳴る音。
低い照明。
奥にピアノがある。
黒いアップライト。
スタインウェイじゃないけど。
でも鍵盤はちゃんと白い。
客は多くない。
作業着の男が二人。
カウンターにひとりの若い女の子。
誰もこちらを見ない。
それが救いだった。
マスターが顔を上げる。
「先生、久しぶり」
柿沼は軽く手を上げた。
「今日は連れがいます」
すみれは小さく会釈する。
「すみれは会釈した」
「すみれさんなの。高橋悠人です、日本機工で」
「バイオリンおじさんです」
マスターはすぐ察したように言った。
「弾く?」
胸が詰まる。
柿沼は答えない。
すみれに任せる。
すみれはピアノを見つめた。
六畳にはなかった鍵盤。
工場の舞台とは違う鍵盤。
神栖の夜の隙間にある鍵盤。
すみれは小さく息を吸った。
「……一曲だけ」
柿沼が何も言わず頷く。
すみれは椅子に座った。
最初の音が、
メビウスの夜に落ちた。
「駅」が終わったあと、
店の空気がしばらく戻らなかった。
拍手もない。
ただ、余韻だけがグラスの間に残っている。
マスターが小さく息を吐いて言った。
「……やっぱり違うな」
すみれは鍵盤から手を離した。
柿沼が何か言いかけたとき、
カウンターの端にいた若い女の子が、控えめに手を挙げた。
「すみません」
声が今っぽい。
マスターが目を向ける。
「ん?」
女の子は少し照れて言った。
「あとひとつ…って弾けますか」
すみれが瞬きをする。
柿沼が小さく首を傾げた。
「それは…?」
女の子が笑った。
「FUNKY MONKEY BABYS」
マスターが苦笑する。
「俺は知らん」
女の子はすみれを見る。
「ピアノで聴いたら絶対きれいだと思って」
すみれは少しだけ笑った。
初恋のこたえ。
言葉が軽いのに、刺さる。
答えなんて、出たことがない。
でも。
すみれはスマホでコードを探すでもなく、
耳の記憶だけで鍵盤に触れた。
今の恋の歌。
今の女の子たちの歌。
柿沼が小声で言う。
「音、保証しませんよ」
すみれは囁く。
「保証なんて、いらないです」
最初の音が落ちる。
古い歌でもない。
式典の社歌でもない。
初恋のこたえ。
神栖の夜で、
すみれは初めて、未来のほうを弾いた。
「……エデンの東」
ママスターがぽつりと言った。
「この曲難しいよ、そして悲しいよ。
兄弟が愛を奪い合って、結局誰も幸せになれない、
そんな物語の曲だ」
すみれが鍵盤から指を離し、顔を上げた。
マスターはカウンターの下から、
埃を被った細長いケースを、
まるで秘蔵のヴィンテージワインでも出すような手つきで
引き出していた。
「でも、今のあんたの音には、
その『悲しみ』のあとに、変なもんが混じってるな」
ケースの留め金を外すと、中から現れたのは、
一本の古いフルートだった。
「これ、ずっと磨いてたんだ。
いつか、ピアニストが来たら、一緒に吹こうと思ってさ」
マスターはフルートを構え、軽く息を吹き込む。
スターがぽつりと言った。
「この曲難しよ、そして悲しいよ」
すみれが顔を上げると、
彼はカウンターの下から細長いケースを引き出していた。
まさか、と思う間もなく、
蓋が開く。
中にあったのはバイオリンだった。
古い木の艶。
使い込まれた弓。
マスターはそれを当たり前みたいに肩に乗せる。
「昔、ちょっとだけな」
ちょっとだけ、の持ち方じゃない。
柿沼が小さく笑う。
「マスター、何者なんですか」
マスターは答えず、顎でピアノを示した。
「弾けるだろ」
すみれは息を吸った。
エデンの東。
鍵盤に指を置く。
最初の和音が落ちた瞬間、
バイオリンが入った。そしてフルートもいれる。
細い音。
真っ直ぐで、泣きそうな音。
ピアノの旋律に絡みつき、
店の空気が一気に映画になる。ピアノの音は前に出さなかった。
神栖の港町の小さなバーが、
遠い砂漠のスクリーンみたいに広がる。
すみれは弾きながら思った。
音楽は、契約でも式典でもなく、
こういう瞬間のためにある。
柿沼は黙って聴いていた。
マスターのバイオリンが、
失われた楽園を細く照らしていた。
「エデンの東」が終わると、
店の中にしばらく音が残った。
マスターはバイオリンを膝に置き、
何も言わずグラスを拭き始める。
誰も拍手しない。
ただ、呼吸だけが戻ってくる。
そのときだった。
カウンターの端にいた若い女が、
小さな声で言った。
「……雪の華」
すみれが振り返る。
女は少し照れたように笑う。
「中島美嘉の」
その名前は、急に現実だった。
今の冬の歌。
恋の歌。
誰もが知っている。
マスターが鼻で笑う。
「季節外れだな。まだ11月だよ、寒くなのよ」
女は肩をすくめた。
「でも、好きなんです」
雪の華。
初夏の神栖で、
雪の歌を弾くのは妙だった。
でも妙だからこそ、胸に刺さる。
すみれは鍵盤を見つめた。
冷たい部屋。
失った生活。
白い封筒。
全部が雪みたいに積もっていた。
柿沼が小さく言う。
「弾けますか?」
すみれは頷いた。
「……たぶん」
最初のコードを置く。
柔らかい旋律が、
バーの低い照明に降りてくる。
雪の華。
神栖の夜に、
ありえない冬が静かに咲いた。
バイオリンの音が重なった瞬間、
店の空気が完全に変わった。
雪の華。
初夏の神栖に、冬が降りてくる。
すみれの指は止まらない。
マスターの弓も迷わない。
そのときだった。
カウンターの若い女が、
ぽつりと息を吸った。
そして歌った。
「のびた人影を〜」
声。
小さいのに芯がある。
夜の中で真っ直ぐ立つ声。
客が一斉に振り返る。
女は恥ずかしがらない。
酔ってもいない。
ただ歌が好きな人の顔で、
雪の華を歌う。
すみれは驚きながらも伴奏を続ける。
マスターのバイオリンが寄り添う。
三つの音が重なる。
ピアノ。
バイオリン。
歌声。
港町の小さなバーが、
一瞬だけコンサートホールになる。
女の声は美しかった。
プロじゃない。でも本物だ。
死ぬほど練習しなくても、でる声。天性のもの
すみれの胸が熱くなる。
すごい。
音楽は才能だけじゃない。
生活の中で、突然咲く。
歌い終わると、
店の中に静寂が落ちた。
そして遅れて、拍手が起きた。
小さなバーの拍手。
でもすみれには、
千五百人よりずっと温かかった。
曲が終わっても、
しばらく誰も動けなかった。
拍手は小さく、長く続いて、
やがて氷の音や笑い声が戻ってくる。
マスターは何事もなかったように
バイオリンをケースにしまった。
若い女は頬を赤くして、
カウンターに顔を伏せている。
すみれは鍵盤から手を離し、
静かに立ち上がった。
柿沼が横に来る。
「……すごかったですね」
すみれは小さく頷く。
「わたしじゃなくて」
「みんな」
夜は短い。
港町のバーの灯りも、
永遠には続かない。
帰るときが来る。
すみれはバッグを肩にかけた。
ドアの前で一度だけ振り返る。
メビウス。
低い照明。
鍵盤の白。
バイオリンの艶。
ここには、契約も番号札もない。
ただ音があった。
神栖の夜は、すべてを飲み込むような深い闇を湛えていた。
海の匂いが残る道を、タクシーが静かに滑る。
ネオンは少ない。その代わり、自分の輪郭が際立つような、
本物の暗さがそこにはあった。
すみれは窓の外を見つめたまま、低く言った。
「もうラーメンは飽きたから」
助手席で柿沼が目に見えて狼狽し、背中を固くした。
「……飽きた、んですか?」
「飽きた。煮干しも契約書も、もう十分。今日は寿司」
柿沼は困ったように、けれどどこか降参したように笑った。
「神栖で寿司……僕、高い店しか知らないですよ」
「穏当なの、見え張っていない。いいよ。
今日は、高級でいい」
その言葉は贅沢への渇望ではなく、
この男がどこまで自分の「現実」
を背負う覚悟があるかという、
静かな試しだった。
タクシーが、漆塗りの重厚な門構えの前に止まる。
すみれは、柿沼がドアを開けるのを待たず、
自ら外へ踏み出した。




