44章 次のステージ
「……建売の契約書も、書きますか?」
「うん」
すみれは頷く。
「摘要に、煮干しって書く」
生活が、現実の住所を持ちはじめた。
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すみれは缶を持ったまま、ぽつりと言った。
「……先生も、ラブコメなの」
柿沼が固まる。
「え?」
すみれは涙の跡を指で拭う。
「だってさ。建売買うとか、契約書書くとか、煮干しとか」
一拍。
「これ、恋愛っていうより……」
すみれは小さく笑った。
「**『煮干しと契約書と、私たちの居場所』**みたい」
柿沼が真顔で言う。
「長いですね」
「ラブコメはだいたい長いです。短かったら
売れないです、物語そのものより
「これからも続く感」 にお金を払っています」
「先生、ラブコメ読むの?」
「読みます、プロットも作っています」
「どんな」
「どうしたら殺されなか、そういうこと」
一拍。
「……それ、ラブコメ?」
「そうです」
「きいて、女性って、好きになって初めて分かる言葉---」
「なんですか?」
「定番のセリフ、先生、話してみて」
「思ひつつ
寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば
覚めざらましを」
沈黙。
すみれは、ゆっくり瞬きをした。
「……先生」
「はい」
「それ、平安時代の恋の夢だよ」
すみれは、呆れたように言った。
柿沼は少しだけ考え、首を傾げる。
「夢は、時代を選ばないと思います」
「選ぶよ」
「では……」
彼は言葉を探すように、口を閉じた。
さっきまで迷いなく古語を並べていたのに、
現代語になると、急に不器用になる。
「夜空の星を見る限り、
つのる思いぞ幾年ぞ……我、泣きぬれてカニとたわむる」
短い。
説明も、比喩もない。
すみれは驚いたように目を瞬かせたあと、
ふっと笑った。
「もういいよ、分かんないから」
一拍。
「今のが正解」
柿沼は、ほっとしたように息を吐く。
「覚えておきます」
「覚えなくていいよ」
「え?」
「その都度、考えて」
すみれは鍋を見た。
ラーメンは完全にのびている。
「……もう食べる?」
「はい。
のびても、食べられます」
「そこはラブコメ的にダメでしょ」
「現実的には、問題ありません」
柿沼は静かに言った。
診察室で説明するときの声に似ている。
すみれは少しだけ笑う。
「でもね、笑ってよ」
自分でも分かるほど、不自然な声だった。
「こんな顔してさ」
指で頬を軽く触る。
笑おうとしても、うまく笑えない。
「初めてなんだよ」
少し間を置く。
「好きになってもらったこと」
言葉が空気に溶ける。
柿沼は動かない。
何も言えないまま、すみれを見ている。
すみれは視線を外した。
「変だよね」
小さく言う。
「音楽はずっとやってきたのに、
恋は、こんなに下手なんだ」
笑おうとする。
でも声だけが少し震える。
「だからさ」
すみれは続ける。
「どうしたらいいのか、分からないんだよ」
「すみれさん、もういいよ、ぼくだって、
同類項なんだから、すみれさん、笑ってよ」
「そんなの、笑えないよ、約束して、
゛浮気しないこと」
部屋の空気が静かに止まる。
柿沼はゆっくり息を吸った。
それでも、すぐには言葉が出てこなかった。
すみれは肩をすくめた。
二人で、並んでラーメンを食べる。
味は、特別じゃない。
インスタントだ。
でも、静かだった。
悪くない静けさだった。
すみれは思う。
恋は、たぶん夢じゃない。
平安時代の歌みたいに、美しくもない。
柿沼は少し考えてから、真面目に言った。
「じゃあ、僕はその作品の主人公ですか」
すみれは即答する。
「違う。先生はサブキャラ」
「え」
「煮干し担当、兼務です」
柿沼は困ったように笑った。
「……最低です」
「ギリ合格にするよ」
二人の間に、やっと笑いが残った。
生活の中の恋だった。
三十日後の秋だった。
クーリングオフ期間は、長かった。11月を迎えていた。
最初の一週間は、すみれはスマホを何度も見た。
通知が鳴るたびに心臓が跳ねた。
深夜の電話が来るかもしれない。
「やっぱり太陽が必要だ」なんて詩的迷走が来るかもしれない。
でも、来なかった。
二週間目。
連絡は一度だけ。
> 「煮干し出汁、塩は控えめがいいですか」
事務的すぎて、笑えなかった。
三週間目。
沈黙。
すみれは逆に怖くなった。
沈黙は、終わりにも見える。
四週間目。
アパートの湿気が戻ってくる。
鳴らない電子ピアノの音が重くなる。
そして三十日目。
午後四時。
スマホが震えた。
> 「買いました」
添付された写真。
神栖の空の下。
白い建売住宅。
まだ誰も住んでいない窓。
新しい玄関。
その前に柿沼が立っていた。
スーツでも白衣でもない。ただの男の格好で。
手にはスーパーの袋。煮干しが透けている。
すみれは息を止めた。
次のメッセージ。
> 「クーリングオフ、終わりました」
一拍。
> 「摘要に書いたので。逃げません、殺されます」
> これ、漫画だよ。
すみれの喉が動く。
契約書は紙だった。
でも沈黙の三十日は、生活だった。
秋の光が、アパートの床に落ちる。
すみれは小さく呟いた。
「……じゃあ、始まるんだ」
終わりではなく。
生活のほうが。
すみれは画面に映る写真を見つめたまま、
言葉を選び、短く打った。
> 「……リモートですか?
> それとも、またバーチャルリアリティ?」
一拍。
> 「私、透明みたいに生きてるから。
> どこにでもいられるのに、どこにもいない」
送信した瞬間、胸の奥がちりと痛んだ。
返信はすぐだった。
> 「半分リモートです」
そして、続けて。
> 「でも、バーチャルじゃ無理です」
すみれの指が、止まる。
> 「透明のままじゃ、生活になりません。僕には見えません」
秋の柔らかな光が、スマートフォンの画面に反射する。
> 「会わないと、煮干しの匂いは届きませんから」
その一文だけが、ひどく生々しい「現実」として迫ってきた。
すみれは小さく、震える息を吐いた。
> 「透明じゃなくなるの、怖い」
即座に、返信。
> 「怖くても、住所はここです」
送られてきた写真の中の白い家が、もはや単なる背景ではなく、体温を持つ場所へと変貌していく。
すみれは、こわばる指先で文字を打った。
> 「……じゃあ、行くよ」
送信。
透明だった彼女の世界に、ゆっくりと、
確かな輪郭がつきはじめた。
「卑怯でした。
……君をここに閉じ込めるのが怖くて、
君の才能を僕が独占してしまうのが怖くて、
そう言えば自分が傷つかずに済むと思っていました」
柿沼はゆっくりと、震える手で、
鍵を回した。 カチリ、という乾いた音が、静かな神栖の住宅街に響
「帰れなんて、言えるわけがないよ」
彼はドアを押し開け、
開かれた闇のような玄関を背にして、すみれを真っ直ぐに見た。
「……入ってください。ここが、あなたの家です」
沈黙。
芝生の上に風が通る。
新しい家は黙っている。
すみれは言い切った。
「帰れって言うなら帰るよ、すぐに帰るよ」
一拍。
「でも、私に言わせないで」
柿沼の喉が動く。
彼は深く頭を下げた。
「……申し訳ございません、殺されます」
顔を上げる。
「殺されたら明日はないです、この家も全部パァー」
短く息を吸う。
「ここにいて、ほしいんです」
その言葉は弱かった。
優しさのふりをした逃げ道にも聞こえた。
すみれは眉を寄せた。
「……はっきり言って」
一拍。
「……子どもでも分かる言葉で言って」
声が、わずかに震える。
「もじもじしないでよ」
柿沼は一度視線を彷徨わせ、震える唇を開いた。
「——妻をめとらば才たけて、顔うるはしくなさけある」
すみれは、強く唇を噛んだ。
「……なんなの、これ」
「……」
「私に恥をかかせたいの? 意味を教えてよ、分かるように」
柿沼は、逃げるように視線を落とした。
「……才色兼備。賢くて、美しくて、情け深い。
そういう意味です」
「もういいよ。……全然わかんない」
すみれは背を向けた。 彼が差し出したのは、
愛の言葉ではなく、古びた辞書のような一節だった。
声が震える。
「私に『来週でどう』とか言わせるつもりだったでしょう」
涙が頬を伝う。
「先生が決めるべきことを、私に言わせるの」
柿沼の指が震える。
すみれは続けた。
「置き去りにされるのが怖いって言ったのに」
声が掠れる。
「優しい顔して、最後に一番痛いところを残す」
沈黙。
風が芝を揺らす音だけがする。
柿沼はもう一度、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません、ではあの世で」
すみれは、馬鹿らしく泣いてしまった。
「住所の話は置いていく。
今夜は音の場所で、少しだけ酔う」
「す、すみません! ティッシュ、ティッシュ……あ、
これ、領収書だ。いや、こっちは聴診器……」
「……バカじゃないの」
すみれが涙声で吐き捨てると、
柿沼はようやく見つけたシワだらけのハンカチを、
まるでお供え物のように両手で差し出した。
「すみれさん、泣かないでください。僕、医者のくせに、
女性の涙への処置だけは医学部で習ってないんです。
あ、いや、泣かせたのは僕なんですけど!」
「当たり前でしょ。……もう、台無しだよ」
すみれはハンカチをひったくると、
真っ赤になった鼻を「チーン!」と勢いよくかんだ。
新築の静かな芝生に、ひどく間の抜けた音が響く。
「……あの、すみれさん。さっきの、
一緒に住んでくださいっていうの、返事は……」
柿沼が、おずおずと顔を上げる。
その表情は、
重大な手術の結果を待つ研修医のように強張っている。
「……ラーメンだよ」
「え?」
「お腹空いたって言ってるの!
世界一えぐい煮干し鹿嶋港でラーメンを食べさせてくれたら、
今日からここに住んであげなくもないわよ。
……あ、荷物は先生が全部運ぶこと。テリオスで何往復でもしてよね」
「あ……はい! 喜んで! むしろ全速力で運びます!」
柿沼は、弾かれたようにテリオスの助手席のドアを開けた。
「さあ、どうぞ! 煮干しでも、替え玉でも、なんでも奢りますから!」
すみれは、まだ少し震える肩をすくめると、
ハンカチを柿沼の胸元に投げ返した。
「洗濯しておいて。……それと、先生」
「はい!」
「……もう二度と、『いつから住む?』なんて聞かないで」
「肝に銘じます。カレンダー、全部、捨ててきます!」
「鹿島港のラーメン、いつがいいですか?」
「そんなの、あとでいいよ」
「すいません」
「ピアノバー、連れてって」
二人を乗せたテリオスが、
少しだけマヌケなエンジン音を響かせて走り出す。
重苦しい「契約」も「詩」も、煮干しの湯気の向こう側へ、
笑い飛ばすように消えていった。
神栖の港町にある、古いピアノバーだ。
工場の灯りとコンビナートの赤い点滅が、
夜の空に滲んでいる。
看板のネオンは半分切れていて、
それでもここだけは静かに呼吸している。
柿沼は先に立ってドアを押した。
「ここです」
すみれは一歩遅れて入る。
空気が変わった。
煙草の残り香。
グラスの氷が鳴る音。
低い照明。
奥にピアノがある。
黒いアップライト。
スタインウェイじゃないけど。
でも鍵盤はちゃんと白い。
客は多くない。
作業着の男が二人。
カウンターにひとりの若い女の子。
誰もこちらを見ない。
それが救いだった。
マスターが顔を上げる。
「先生、久しぶり」
柿沼は軽く手を上げた。
「今日は連れがいます」
すみれは小さく会釈する。
「すみれは会釈した」
「すみれさんなの。高橋悠人です、日本機工で」
「バイオリンおじさんです」
マスターはすぐ察したように言った。
「弾く?」
胸が詰まる。
柿沼は答えない。
すみれに任せる。
すみれはピアノを見つめた。
六畳にはなかった鍵盤。
工場の舞台とは違う鍵盤。
神栖の夜の隙間にある鍵盤。
すみれは小さく息を吸った。
「……一曲だけ」
柿沼が何も言わず頷く。
すみれは椅子に座った。
最初の音が、
メビウスの夜に落ちた。




