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43章 恋愛契約書

生活の言葉だけが、重く、

沈殿するように部屋に残った。



逃げ場を失った二人の間に漂うのは、

甘い恋の囁きではなく、

互いの人生を担保に差し出すような、

剥き出しの取引の気配だった。


すみれは涙の跡を残した声で言う。


「若い看護師はどうするの?」


すみれの問いは、短く、鋭い。

相手の逃げ道を塞ぐための、容赦のない刃だ。


「彼女には話をしました。別れました」


柿沼の返答もまた、短い。そこには言い訳も、

装飾的な比喩も、何一つ混じっていなかった。

その潔さが、

かえってすみれの胸をざわつかせ、不信の火を煽る。


「それ、簡単に言わないで」


すみれの喉が、熱い塊を飲み込むように動く。

何年もかけて積み上げてきたかもしれない他者との時間を、


こうもあっさりと切り捨てたという冷酷さが、

次は自分の番ではないかという恐怖に変わる。


柿沼は、

彼女の怯えを正面から受け止めるように、深く頷いた。


「簡単じゃないです」


一拍。彼の低い声が、狭いワンルームの壁に反響する。


「でも、曖昧にしたまま、

あなたの部屋に入るほうが最低です。

それは、僕が僕自身に許せなかった」


すみれはテーブルの上に置かれた、

何の意味も持たないはずの真っ白な紙を見つめた。


この男は外科医だ。人の命を繋ぎ、

あるいは切り離すことに

慣れている。

その指先が、今はただのペンを握ろうとしている。


「先生は嘘つきだから……。

いま、ここで契約書、書いてください」


それは、愛を信じられない女の、

最後の防衛本能だった。


心なんて形のないものは明日には消えてしまうかもしれない。

だから、実体のある文字で、

逃れられない呪縛を刻んでほしかった。


電子版、送ります。




恋愛契約書


甲および乙は、令和8年1月29日をもって、

両者の間に存在した「救済者と被救済者」

という幻想的な関係を解消し、以下の通り合意する。

その証として、乙は、金員10万円を支払う。

甲は、リーリング期間中に破棄する場合、乙に対して、

金員10万円は返却する。


本件は、甲乙直筆の署名をもって効力を発生するものとする。


なお、結婚は、お互いに90日をもって自然成立する。



### 第1条(選択の確定)


乙は、甲に対し「早瀬すみれ」

との実生活を選択することを明言した。

甲はこれを異議なく受け入れ、

乙が「命の恩人」という仮面を脱ぎ、

一人の不誠実な男として存在することを容認する。



### 第2条(詩的表現の禁止)


乙は甲に対し、「太陽」「魂」「支配」

等の比喩的表現を用いた告白を今後一切行わないものとする。


### 第3条(特約:クーリングオフ期間)→


1. 本合意の締結日(煮干しラーメン完食時)

より30日間をクーリングオフ期間とする。

2. 当該期間内において、

乙が「やはりあなたの太陽が必要だ」

等の詩的迷走に陥った場合、

または甲が「50万円では足りない」


等の経済的困窮により乙を誘惑した場合であっても、

本合意の効力は失われない。

3. 30日が経過した時点で、

乙の感情的債権債務は完全に消滅し、

以降の接触は「医師と元患者」


または「無関係な他人」としてのみ行われるものとする。


### 第4条(沈黙の義務)


クーリングオフ期間中の30日間、


乙は甲に対し、深夜の電話、

SNSの監視、および「魂の主治医」

を自称する一切の行為を禁止する。


万が一接触が必要な場合は、

事務的な内容(煮干し出汁の配合の共有等)

に限定するものとする。


### 第5条(最終清算)


本条項の合意と引き換えに、乙は甲に対し、

最高濃度の煮干しラーメンを給付し、甲は乙に対し、

一万円の羊羹(万羊羹 常陸)を乙のパートナーへの供物と

して引き渡すものとする。


---


令和8年1月29日


甲(署名):早瀬すみれ

乙(署名):柿沼信也


「すみれさん、この内容でどうすか?」

柿沼は紙を見下ろしたまま、動かなかった。







「先生、これ……何ですか?」


差し出された紙を指さし、すみれは微かに声を震わせた。

そこには、事務的な筆致で、


けれど執拗なまでの力感で、あるタイトルが記されていた。


柿沼は視線を落としたまま、自分を断罪するような口調で答える。


「……恋愛契約書、兼、結婚証明書です」


すみれは一拍置いて、思わず笑いそうになった。

こみ上げてきたのは、滑稽さと、それ以上の畏怖だった。


恋愛という、世界で最も不確実で感情的な営みを、

彼は医学論文のような厳密さで律しようとしている。


「先生、頭いいですね。顔は悪いけど」


柿沼は少しだけ目を瞬かせる。


「……ありがとうございます」


真面目に受け取ってしまう。


すみれが小さく笑う。


「褒めてないよ」


柿沼は困ったように視線を落とす。


「努力します」



すみれが皮肉混じりに言うと、柿沼がようやく顔を上げた。

その瞳には、救急外来で死の淵にいた


彼女を見つめていた時と同じ、

冷徹なまでの誠実さが宿っていた。


いいですね。

少し可笑しさと真剣さが同時に出るように整えてみます。


---


「普通、こんなこと……書けませんよ」


すみれは紙を持ったまま言う。


「なお、結婚は、お互いに九十日をもって

自然成立する」


読み上げてから、顔を上げた。


「なんですか、これ」


柿沼は少しだけ姿勢を正す。


「書いてある通りです」


「通りって何」


すみれは紙をひらひらさせる。


「九十日って、保険の免責期間みたいじゃない」


柿沼は真剣に答える。


「三か月あれば、生活の相性が分かると思って」


すみれは呆れたように笑う。


「恋愛に試用期間つける人、初めて見た」


柿沼は少し考える。


「不具合があれば修正可能です」


「製品じゃないの」


すみれは紙を見つめる。


そこに書かれた文字は、

不器用なほど真面目だった。


「……ほんと、ばかだね」


その言葉は、もう拒絶ではなかった。


---




それは褒め言葉の形をしていたが、

同時に、彼女の必死さの裏返しでもあった。


形にしなければ、証明しなければ、

一分先、一秒先の自分たちの関係すら崩れてしまうという、

絶望的なまでの脆さを、その紙切れが代弁していた。


柿沼はペンを走らせる。


一、嘘をつかないこと。

一、明日も、明後日も、ここへ来ること。

一、すみれを、一生救い続けること。


「これで、いいですか」


インクの匂いが、冷めかけたラーメンの湯気と混ざり合う。

100キロの覚悟が、ただの紙切れを、

鉄よりも重い拘束具へと変えていった。


すみれは、その紙を奪い取るようにして胸に抱きしめた。

それは明日を生きるための、たった一枚の通行証。


窓の外、19時の光は完全に消え去り、

夜の深い闇が、逃げ場のない二人の姿を等しく塗りつぶしていった。



すみれは第三条を指で叩いた。


「何。クーリングオフ期間って。

わたし、家電とか品物じゃないよ。人間なんだよ?」


柿沼は小さく首を振った。


「はい、ぼくが作りました……これは、

僕が逃げないということです」


一拍。


「破棄するなら、すみれさん次第です。

三十日以内なら解約できます」


すみれの指が止まる。


柿沼は低く続けた。


「僕には、解約の権利はありません」


「逃げ道の権利を持つのは、

僕じゃなくてすみれさん、

あなたです」



「わかんないから、あおいに見てもらう」


ラインに添付されたPDFだった。

すみれはあおいに転送した。

---



柿沼は小さく首を振った。


「怖いんです」


すみれの指が止まる。


柿沼は紙に視線を落としたまま続けた。


「僕は、言葉が上手いほうだから」


一拍。


「上手い言葉で、あなたを傷つけるのが一番簡単なんです」


すみれの喉が動く。


柿沼は契約書の端を指で押さえた。


「太陽とか魂とか言って、あなたを物語にして」


声が低くなる。


「責任を曖昧にするのが、一番ずるい」


沈黙。


すみれの涙がまた滲む。


柿沼は短く言った。


「だから、書きました」


すみれは小さく笑った。泣きながら。


「……バカみたい、変態よ」


柿沼は頷いた。


「はい。バカです」


一拍。


「でも、逃げないためのバカです」


生活の言葉だけが、部屋に残った。




柿沼はペンを差し出した。


「……すみれさんも書いてください、摘要の欄」


すみれが瞬きをする。


「私も?」


「はい」


柿沼は契約書の下の空白を指で示した。


「摘要」


事務的な欄だった。

だからこそ、逃げ道がなかった。


すみれは震える手でペンを取る。


何を書くべきか分からない。


沈黙の中で、インクだけが進む。


---


摘要:

1.煮干しの匂いを、嘘にしないこと。

2.逃げないこと。

3.すみれの言うことは。ちゃんと聞くこと。

4.浮気したら、殺す


---


書き終えて、すみれは息を吐いた。


あおいからLINEが震える。


《いま、成瀬、読んでる》


《なんなのクーリングオフって》


《知らないよ》


間髪入れずに、次。


《分かった。 すみれは、洗濯機》


すみれは画面を見つめた。


《洗濯機? 》《ぐるぐる回る洗濯機 》


《冷蔵庫? 》


《成瀬読んだよ? 》

《バカバカしくして、笑っている? 》



《ラブコメより最低? 》


《ド変態 》





柿沼はそれを見て、小さく頷いた。


「分かんないから、名前、書くよ」


生活の言葉だけが、部屋に残った。

すみれさんも書いて下さい。


---


すみれはペンを置いて、目を伏せた。


「……先生」


柿沼が顔を上げる。


すみれは笑おうとして、声が震えた。


---


「先生、わたしのお腹に赤ちゃんがいるの」


「……えっ」


柿沼は一秒止まり、

次の一秒で、声が裏返った。


「エィ。本当ですか?」


すみれは真顔のまま、三秒考えてから言う。


「……ううん、ほんとうだよ」


「え」

「----日本の人口、プラス1ですか」

すみれはその先は言わなかった。



少しだけ声を落として。


「飲もうよ」


一拍。


「嬉しくて、泣いちゃうよ」


柿沼は黙って頷いた。


「……分かりました」


彼は玄関に向かい、靴を履く。


すみれが不安そうに見る。


柿沼は振り返って言った。


「コンビニで買ってきます」


その一言が、約束だった。


逃げない、の一番簡単な証明。


ドアが閉まる。


すみれは息を止める。


数分後。


また鍵の音がして、柿沼が戻ってくる。


チュハイとビール、安いつまみと、

それから、温かい煮干しの匂い。


すみれは泣きながら笑った。


生活が、ちゃんと帰ってきた。



柿沼は一瞬だけ目を瞬かせた。






「……神栖に、建売を買います」


すみれの声は静かだった。

冗談ではない。逃げでもない。


柿沼は言葉を失う。


すみれは続けた。


「そこに住んでください、って言われたら、怖いけど」

「怖いなら、やめましょか」

「なんでなの。わ



一拍。


「でも、もうアパートの湿気に戻るのも怖い」


夜の光が、缶ビールの縁で揺れている。


柿沼はゆっくり息を吐いた。


「買うのは……あなたのためですからね」


「はい」


すみれは頷く。


「私は、音のために生きてきたけど」


声が少し震える。


「生活のために、場所が必要です」


柿沼は小さく頷いた。


「神栖なら、海が近いですね」


詩ではなく、地図の言葉だった。


すみれは泣きながら笑った。


「先生、そういうところが好き、

大好きだよ」


柿沼は困ったように笑った。

「先生、言葉で告白してよ」


柿沼は、持っていたペンを置き、

困ったように眉を下げて笑った。


その笑顔は、

これまでの外科医としての硬い仮面が剥がれ落ちた、

ひどく無防備なものだった。


「先生、言葉で告白してよ」


すみれの声は、契約書を書かせた時とは違う、

震えるような甘さを帯びていた。


紙の上の文字ではなく、今、

この狭い部屋の空気を震わせる、生身の言葉を求めていた。


柿沼は一度視線を落とし、深く、重い息を吸い込んだ。

部屋には、もうラーメンの湯気も、バーナーの唸り声もない。

ただ、十九時の光が消え去った後の、濃密な沈黙だけがある。


「……すみれさん」


彼は、もう一度彼女の名を呼んだ。


それは、海から引き揚げた救急患者の名前ではなく、

ひとりの女の名前として。


「僕は、あなたを救うことで、

自分を許そうとしていたのかもしれない。


でも、今は違う。君が泣いても、狂っても、嘘をついても

……僕は、君の隣にいたい。

君の人生の一部になりたいんだ」


柿沼は、ゆっくりと手を伸ばし、

すみれの冷えた指先を包み込んだ。

外科医の、熱く、確かな指の感触。


「好きだよ、すみれさん」


短い言葉だった。

比喩も、契約も、医学的な根拠もない。

ただ、一人の男が、一人の女に降伏した証の言葉。


「明日も、明後日も。

……一生、君の責任を取らせてほしい。

これが、僕の本当の気持ちだ」


すみれは、もう笑わなかった。

ただ、彼の温もりに導かれるように、その胸に顔を埋めた。


契約書の紙が、二人の間でくしゃりと音を立てる。

それは、もう文字に頼らなくてもいい、ふたりの新しい生活の始まりを告げる音だった。



「……建売の契約書も、書きますか?」


「うん」


すみれは頷く。


「摘要に、煮干しって書く」


生活が、現実の住所を持ちはじめた。



---


すみれは缶を持ったまま、ぽつりと言った。


「……先生も、ラブコメなの」


柿沼が固まる。


「え?」


すみれは涙の跡を指で拭う。


「だってさ。建売買うとか、契約書書くとか、煮干しとか」


一拍。


「これ、恋愛っていうより……」


すみれは小さく笑った。


「**『煮干しと契約書と、私たちの居場所』**みたい」


柿沼が真顔で言う。


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