42章 踏み入れた6畳
---
男を入れたことがない部屋。
すみれは小さく息を吸って言った。
「汚いところだけど……あなたが、
私の部屋に入る初めての男だよ」
柿沼の指が止まる。
「聞いて。だから、軽い気持ちで入らないで」
沈黙。
柿沼は深く頷いた。
「重いって、どのくらい?」
「100キロくらいある」
柿沼は真面目な顔のまま、
冗談とも本気ともつかないトーンでそう言った。
「100キロ……。重すぎるわよ。床が抜けちゃう」
すみれ少しだけ笑って、
けれど鍵を握る指先は震えていた。
外科医である彼の100キロは、単なる数字ではない。
彼が背負ってきた患者の命や、
私を救い上げたあの夜の拒絶、
そして潮来で捨てたはずのプライド。
そのすべてを詰め込んだ重さなのだと、直感で分かった。
「抜けないよ。僕が支えるから」
柿沼の一歩は、宣言通り重かった。
初めて男の靴が踏み入れた、私の孤独な聖域。
フローリングが小さく軋み、
部屋の空気が一瞬で書き換えられていく。
「……本当に、いいんだな」
柿沼が私の肩に手を置く。
100キロの覚悟を宿したその手のひらは、
驚くほど熱かった。
私は、彼が脱ぎ捨てた白衣の代わりに、
私一人のための「日常」を彼に背負わせることに決めた。
この部屋で、私たちは初めて、救う側と救われる側ではない、
ただの男と女として、重い沈黙を分け合った。
「うん、いいよ」
その声には逃げ道がなかった。
彼は靴を揃え、
息を整え、
まるで手術室に入るみたいに一歩を置いた。
境界は、ドアの敷居ではなく、
女の、悲しい部屋そのものだった。
柿沼は、
重い足取りでそれを越えた。
---
部屋の空気は、彼が入り込んだ瞬間に密度を変えた。
ワンルームの狭い空間に、男の体温と、
微かな消毒液の匂いが混ざり合う。
すみれは、彼の背中越しに閉まったドアの音を聞いた。
それは、自分を守っていた孤独が死んだ音だった。
「……本当に、重いわね」
すみれが自嘲気味に呟くと、柿沼は振り返らずに、
部屋の真ん中で立ち止まった。
そこには、華やかなステージでリストを弾く
ピアニストの姿はなく、
ただ、生活の匂いにまみれた
一人の女の現実が横たわっている。
柿沼の背中は、100キロの覚悟を背負って、
わずかに強張っていた。
彼は、すみれを海から救い上げたときと同じ、
あの「逃げない目」をして、彼女の人生の深部へと、
深く、静かにメスを入れようとしていた。
ふたりの足元には、
もう引き返すための余白はどこにも残されていなかった。
-
「約束の……ラーメン、作ってもいいですか」
「ラーメン?」
すみれは目を瞬かせた。
「インスタントラーメン。だけど」
告白ではなく、汁物。
すみれは小さく頷く。
「……うん」
柿沼は靴を揃えて上がった。
小さな台所に立ち、SOTOのバーナーを置いた。
袋を開ける。
煮干しが皿に落ちる、乾いた音。
鍋に水を張る音。
火が点く音。
-
すみれは鍋の湯気を見つめていた。
ラーメンの匂いが、狭い部屋に満ちていく。
生活の匂い。逃げられない匂い。
柿沼は黙って麺をほぐしている。
その背中が、妙に遠い。
すみれは笑おうとした。
でも笑えなかった。
喉の奥が震えた。
「……じゃあも、これで失礼します」
声が掠れる。
柿沼の手が止まる。
すみれは泣いた。
そこに斟酌はなかった。
理由も飾りもなく、ただ涙だけが落ちた。
涙は静かじゃなかった。
堰が切れたみたいに落ちた。
「柿沼先生……責任、取ってよ、赤ちゃんいるんだから」
泣きながら言う。
声はかすれている。
柿沼の体が、わずかに強張った。
「……え」
思考が追いつかない顔だった。
すみれは首を振る。
「ほんとうだよ」
涙を拭いながら、小さく笑う。
「そんなわけないでしょ」
笑っているのに、目は赤い。
何かを言おうとして、言えない。
すみれは涙を拭かずに続けた。
「……一人で生きるって言ったけど、シングルマザーに
なっちゃうよ」
声が途切れる。
「本当に、わたしを置き去りにするの」
午後19時の光が、窓の端で揺れている。
すみれはしばらく動かなかった。
涙が止まる。
「……先生」
小さく言う。
「それ、たとえ話だよ」
柿沼は首を振る。
「分かっています」
一歩だけ近づく。
「でも、あなたが一人になるなら、
同じ覚悟で隣に立ちます」
すみれは目を伏せた。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
台所から、煮干しの匂いがする。
生活の匂いだった。
すみれは笑った。
少しだけ、力の抜けた笑いだった。
「……ほんと、ばかだね」
その言葉は、拒絶ではなかった。
小学生でも分かるように言ってよ」
柿沼は黙った。
そして、ゆっくり息を吸って言った。
「……すみれさん」
少し、間があった。
「明日も、
ここに来ます」
「逃げません」
「一緒に、
ラーメンを食べます」
それだけだった。
難しい言葉は、なかった。
すみれは、
もう一度だけ、頷いた。
「うん」
「僕は、あなたと一緒にいたい」
それだけだった。
太陽もない。
比喩もない。
「明日も、明後日も」
一拍。
生活の言葉だけが、部屋に残った。
「若い看護師はどうするの?」
「彼女には話しをしました。別れました」
短い。
言い訳も比喩もない。
すみれの喉が動く。
「それ、簡単に言わないで」柿沼は頷いた。
「簡単じゃないです」
一拍。
「でも、曖昧にしたまま、あなたの部屋に
入るほうが最低です」
すみれは紙を見つめた。
「先生は嘘つきだから、
いま、ここで契約書、書いて下さい」
「契約書ですか?」
柿沼が目を瞬く。
すみれは頷いた。
「言葉は消える。
でも紙は残る」
それは、
縛るための契約じゃなかった。
逃げ道を、
ひとつだけ塞ぐための紙だった。
「……書きます。いま」
柿沼は迷わなかった。
ペンを取って、紙の上に置く。
丸っこい文字だった。
医師のカルテとは違う、生活の丸い細かい文字。
震えも飾りもない。
ただ、約束だけが形になっていく。
すみれはその筆圧を見ていた。
言葉より先に、手が嘘をつけないことを知っていた。




