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41章 ひとりの赤ワイン

やったわかった恋の現実、アパートの一人での生活。

もらった赤ワインを飲んだ。


安いグラスに注ぐと、液体は思ったより濃く見えた。

部屋の蛍光灯の下では、深い色もただの暗い赤になる。


一人生きる女の現実だけだった。


静かな部屋。

隣の生活音。

窓の外を通る電車の振動。


それだけで夜は過ぎていく。


すみれは床に座り、壁に背を預けた。

ワインを少し飲む。


苦い。

少しだけ酸っぱい。


音楽の話をする相手もいない。

恋の話をする相手もいない。


生活だけがある。


それでも、生きている。


その事実が、少しだけ重かった。


グラスを床に置いたとき、

ドアの向こうで音がした。




足音。


すみれは動かない。

誰かの部屋だと思った。


しかし、ノックが鳴る。


小さく、遠慮がちな音。


すみれはゆっくり立ち上がる。

心臓が少し早くなる。


ドアを開ける。


そこに立っていたのは、柿沼だった。


白い袋を持って、ただ立っている。


何も言わない。

風に少し髪が揺れている。


「……遅くなりました」


すみれは言葉を返せない。

一週間、何もなかった時間が、そのまま二人の間に立っている。


廊下の蛍光灯が、柿沼の肩を白く照らす。

隣の部屋でテレビの笑い声がする。


現実の音が、やけに近い。


袋の口から、煮干しの匂いがかすかに漏れていた。


港で食べたラーメンの湯気が、ふと蘇る。


「……何しに来たの」


すみれの声は低かった。


責めているわけではない。

ただ、本当に分からなかった。


柿沼はすぐに答えない。

袋を持つ手に、少し力が入る。


「約束を……守れなかったので」


小さな声だった。


「もう一度、作ろうと思って」


すみれは目を閉じる。


胸の奥が、ゆっくり痛む。


「……遅いよ」


それだけ言う。


柿沼は何も言えない。


一週間という時間が、

取り返せないものとして、そこにあった。


すみれはドアを閉めない。


けれど、開けたままでもなかった。


二人は玄関の前で、

立ったまま動けなかった。





柿沼は動かない。

すみれも動かない。


時間だけが流れる。


「……帰っていいですか」


柿沼が小さく言う。


その声に、すみれの胸が揺れた。




低い声だった。


袋の中から、煮干しの匂いがかすかに漏れていた。


すみれは言葉が出ない。


驚きでも、怒りでもない。

ただ、現実が少しだけずれた感覚。


柿沼は続ける。


「ラーメン、作ろうと思って」


白い袋を少し持ち上げる。


乾麺。

出汁。

小さな鍋。


港で見た道具と同じだった。


六畳のアパートの前で、

その袋だけが場違いに見える。


すみれはドアの枠を握る。

指先が少し冷たい。


「……どうして」


やっと出た声だった。


柿沼は少し困った顔をする。


「来たかったから、合いたかったから」


廊下の蛍光灯が二人を照らしている。

隣の部屋でテレビの音がする。


生活の音が、二人の間にある。


すみれはしばらく動かなかった。


ワインの苦さがまだ口に残っている。

胸の奥に溜まっていた静けさが、少しだけ揺れる。


そして、唇を開いた。


「先生、入らないで。もう先生とは、

先生は雲の上の人、かかわりたくないの」


言葉は思ったより静かに出た。

怒っている声ではない。

泣いている声でもない。


ただ、疲れている声だった。


柿沼は動かない。

白い袋を持ったまま、廊下に立っている。


「……そうですか、分かりました」


小さく答える。


それ以上、何も言わない。


煮干しの匂いが、少しだけ強くなる。


すみれはドアの枠を握ったまま、続けた。


「待ってたの」


柿沼の肩がわずかに動く。


「一週間」


廊下の空気が冷たい。


「来ないなら、来ないって思おうとしてた」


声が少し震える。


「でも、今さら来られると……困る

なんだか、分からなくなるから」


柿沼は視線を落とした。


白い袋の口が、かすかに揺れている。


「すみません、いつもこうなんで」


それは謝罪というより、

自分に言っているような声だった。


すみれは首を振る。


「謝らなくていい」


そして小さく言う。


「もう、大丈夫だから」


嘘だと、自分でも分かっている。


柿沼はしばらく黙っていた。


廊下の蛍光灯が微かに唸る。

テレビの笑い声が壁越しに響く。


やがて、柿沼は袋を持ち直した。


「……分かりました。では、これで失礼します」


柿沼は白い袋を持ち直し、一歩だけ後ろに下がる。

その動きが、思ったより重く見えた。


すみれはドアを閉める。


鍵をかける音が、部屋の中に響く。


ドアの向こうに、まだ気配が残っている。

立ち去ったはずなのに、そこに誰かがいるような感覚。


すみれはその場に立ったまま、動けない。


やがて足音が遠ざかる。

階段を降りる音。

外の空気に溶けていく気配。


完全に消えたあと、

すみれはゆっくり床に座り込んだ。


力が抜ける。

背中が壁に触れる。


部屋は静かだった。


さっきまで廊下にあった温度だけが消えている。


ワインの苦さが、また戻ってくる。

舌の奥に残る、少し渋い味。


胸の奥が静かに痛んだ。


泣くほどではない。

叫ぶほどでもない。


重い石が沈んでいるみたいな痛みだった。


すみれは目を閉じる。


もしドアを開けていたら、

もし名前を呼んでいたら、

何かが変わったのかもしれない。


でも、もう遅い。


部屋には、自分の呼吸だけが残っていた。





一時間後。


すみれは部屋を出た。


秋の夜は、薄く冷えていた。

六畳の部屋に残っていたワインの匂いが、

まだ喉の奥に残っている。

飲んでも、何も変わらなかった。


廊下の蛍光灯が白く滲む。

階段を降りるたびに、足音が空洞のように響く。


このアパートは、

生きている人間の重さをそのまま返してくる。


外に出ると、乾いた風が吹いた。

どこかで枯葉が擦れる音がする。


コンビニの灯りが、遠くに浮かんでいる。


すみれは歩く。

考えないように歩く。


一人で生きるということは、

特別な悲劇ではない。


ただ、誰もいないだけだ。


それだけの現実が、

胸にゆっくり沈んでいく。


コンビニの前まで来たとき、

人影があった。


柿沼だった。


街灯の下に立っている。

コートのポケットに手を入れ、

動かない。


まるで、そこに置かれたもののようだった。


すみれは立ち止まる。


逃げることもできた。

見なかったことにもできた。


それでも、足が動かなかった。


秋の空気が冷たい。


「……帰ってなかったんですね」


声が出る。


柿沼は少し笑った。


「帰れなくて」


短い言葉。

説明はない。


すみれは視線を落とす。


「さっきは、ごめんなさい」


「いえ」


沈黙。


コンビニの自動ドアが開く音がする。

温かい空気が一瞬だけ流れる。


それが消えると、また冷える。


柿沼が言う。


「帰ろうと思ったんですけど」


少し間を置く。


「帰れませんでした」


その言葉は重かった。

責任でも、言い訳でもない。


ただの事実だった。


すみれの胸の奥が痛む。


一週間、連絡はなかった。

待っていた時間は、確かに存在した。


その時間は消えない。


それでも、

目の前にいる。


それが現実だった。


すみれは息を吐く。


白い息は出ない。

まだ冬ではない。


「……寒いですね、エンディングには、

最高のロケーションです」


柿沼は頷く。


「寒いですね、プロローグにも、

最高にいいロケーション

です」


「ラーメンにも最高のロケーションです」



すみれはコンビニの灯りを見る。

そして柿沼を見る。


「ラーメン、あるんですか?」


柿沼は少し驚いた顔をした。


「あります」


すみれは少しだけ目を閉じる。


拒む力が残っていない。

許す理由も見つからない。


ただ、ここにいる二人がいる。


それだけだった。


「……食べましょう」


小さな声。


柿沼は頷く。


二人は並んで歩き出す。


足元で落ち葉が潰れる。

乾いた音がする。


アパートの階段が見える。


すみれは思う。


恋は終わっているのかもしれない。

始まっているのかもしれない。


分からない。


ただ、一人ではない夜が、そこにあった。



男を入れたことがない部屋。

すみれは小さく息を吸って言った。


「汚いところだけど……あなたが、

私の部屋に入る初めての男だよ」


柿沼の指が止まる。


「聞いて。だから、軽い気持ちで入らないで」


沈黙。


柿沼は深く頷いた。

「重いって、どのくらい?」


「100キロくらいある」


柿沼は真面目な顔のまま、

冗談とも本気ともつかないトーンでそう言った。


「100キロ……。重すぎるわよ。床が抜けちゃう」


すみれ少しだけ笑って、

けれど鍵を握る指先は震えていた。


外科医である彼の100キロは、単なる数字ではない。

彼が背負ってきた患者の命や、

私を救い上げたあの夜の拒絶、


そして潮来で捨てたはずのプライド。

そのすべてを詰め込んだ重さなのだと、直感で分かった。


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