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40章 音楽教室の孤独

翌日、音楽教室の扉を開けると、


いつものように湿った木の匂いと、

調律の狂ったピアノの音が私を迎えた。


「すみれ先生、こんにちは!」


子供たちの屈託のない声が、静かな教室に響きます。

昨日、鹿嶋港の冷たい風の中で感じた、

あの「生」の震え。柿沼のいない世界で、


私はただのピアノ教師として、鍵盤の前に座った。


「さあ、始めましょうか」


私が最初の音を鳴らすと、小さな指がそれに続きます。

昨夜、港で啜ったあのしょっぱいラーメンの味も、


SOTOのバーナーの青い炎も、

すべては遠い夢の中の出来事のようだった。


教えるのは、バイエルの練習曲。

ドラマチックなリストでも、

怒りに満ちたショパンでもない、単調で、

けれど確かな日常の繰り返し。


(生きている。それだけのことが、こんなに静かな音になる)


窓の外には、昨日と変わらない空が広がっている。


柿沼はいない。責任を取るべき相手も、

嘘をぶつける相手もいない。


ただ、子供たちが叩く不揃いな音が、

私の胸の奥に空いた穴を、少しずつ、

穏やかに埋めていくようだった。


「先生、今の音、きれいに聞こえたよ」


生徒が誇らしげに笑います。

私はその小さな頭を撫で、自分に言い聞かせるように、

もう一度鍵盤を叩いた。


波が静かに揺れるように。

明日は、また明日の音が鳴る。

それでいいのだと、はっきりと。今は思えた。




夜になると、アパートは急に静かになる。


昼間は隣の生活音が聞こえていたのに、

夜だけは、音が引いていく。


すみれは六畳の部屋の中央に座っていた。

段ボールはまだ開ききっていない。

白いドレッサーだけが、


この部屋に似合わない光を持っている。


スマホを手に取る。

何も表示されていない画面。


柿沼からの連絡は、ない。





一週間。


たった一週間なのに、無情に過ぎていた。

誰からの連絡もなかった。


もっと長い時間が過ぎた気がする。


さよならじゃない。


ただの「また明日」だったはずなのに、

その「明日」は結局、一度も来なかった。


すみれはスマホを机に置く。

画面は暗いまま。


通知も、着信も、

何もない。


期待することにも疲れて、

それでも完全には諦めきれないまま、

時間だけが過ぎていく。


恋が終わるときは、

大きな出来事ではなく、

こうして連絡が来ない日が積み重なるだけなのかもしれない。

友人はみんな結婚して、とうとう一人になった。


友人はみんな結婚して、とうとう一人になった。

結婚式の写真や、赤ん坊を抱く笑顔が、

タイムラインに静かに並んでいる。


医師という柿沼には、嫌というほど女が近づいてくる。

努力しなくても、自然に選択肢が集まる世界がある。


すみれはスマホで婚活アプリを開いた。


指先で画面を滑らせる。

年収、年齢、職業、居住地。


条件を一つずつ見直す。


年収の最低ラインを下げる。

年齢の幅を広げる。

職業のこだわりを消す。


画面の中の候補が、急に増えた。


それを見て、少しだけ胸が痛む。


理想を下げることは、

諦めることに似ている。


それでも、生活は続く。


すみれはプロフィールの自己紹介欄を開く。


しばらく何も書けなかった。


それから、短く入力する。


「ピアノを弾きます」


それだけだった。


画面を閉じる。


部屋は静かだった。


ハードルを下げたのに、

心は少しだけ高い場所に取り残されたままだった。






すみれは窓を開けた。


外の空気が入る。

どこかで子どもの声がする。

電車が通る音がする。


世界は普通に続いている。


あの日の港も、

潮来の風も、

ラーメンの湯気も、

全部、少しずつ遠ざかっていく。


「……終わったんだ」


声に出してみる。


胸の奥が少し痛む。


それでも、涙は出なかった。


さよならじゃない。

そう思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。


風がカーテンを揺らす。


すみれは窓枠に手を置いたまま、

しばらく外を見ていた。


忘れたいわけではない。

忘れられるとも思っていない。


ただ、時間がそれを

「思い出」に変えていくのを待つしかない。


部屋の中には、

まだ誰の匂いもない。


それが、現実だった。


すみれは窓を閉める。


小さな音がして、

部屋が元の静けさに戻る。


生活は、もう始まっていた。



港で食べたラーメンの湯気。

潮の匂い。

あのときの沈黙。


思い出そうとすると、胸が少し痛む。


恋は、始まるときは静かで、

終わるときはもっと静かだった。


期待が消える音はしない。

ただ、少しずつ現実に置き換わっていく。


すみれは立ち上がり、小さな流しにコップを置く。

水道をひねる。


水の音が部屋に広がる。


それだけで、

この部屋にいるのが自分一人だと分かる。


有明の三十階では、音は消えていた。

ここでは、音が近すぎる。


どちらも孤独だった。

形が違うだけで。


すみれは手を拭き、床に座る。


指を見る。


ピアノを弾いていた指。

マホガニーを鳴らしていた指。

港でラーメンを持った指。


今は、何もしていない。


弾く場所がない。

会いたい人もいない。


それでも時間だけは進む。


窓の外で電車の音がする。

誰かが帰宅する足音。

遠くでテレビの笑い声。


世界は普通に続いている。


すみれだけが、少し遅れている。


スマホをもう一度見る。

何も変わっていない。


「……ばかみたい」


小さく呟く。


返事を待つ自分が、


まだどこかで期待している自分が、

情けなかった。


恋は終わったのかもしれない。


でも、

終わったと認める言葉が見つからない。


六畳の部屋の空気は冷えていた。


すみれは布団に横になる。

天井を見つめる。


目を閉じても、

港の風だけが思い出された。


あのとき、確かに生きていた。


それだけが、

少しだけ悲しかった。


やったわかった恋の現実、アパートの一人での生活。

もらった赤ワインを飲んだ。


安いグラスに注ぐと、液体は思ったより濃く見えた。

部屋の蛍光灯の下では、深い色もただの暗い赤になる。


一人生きる女の現実だけだった。


静かな部屋。

隣の生活音。

窓の外を通る電車の振動。


それだけで夜は過ぎていく。


すみれは床に座り、壁に背を預けた。

ワインを少し飲む。


苦い。

少しだけ酸っぱい。


音楽の話をする相手もいない。

恋の話をする相手もいない。


生活だけがある。


それでも、生きている。


その事実が、少しだけ重かった。


グラスを床に置いたとき、

ドアの向こうで音がした。


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