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4章 遠い道のり

鹿島駅への道のりは、

人が歩くことを想定していないかのように無機的で、

茫洋として広大だった。


道の両側を埋め尽くすのは、

巨大な胃袋のように夜通し火を吹き続ける製鉄所の高炉や、

血管のように複雑に絡み合ったパイプラインだ。


街灯の光はまばらで、代わりに工場の照明が、

夜空を不気味なほど赤白く染め上げている。


時折、大型トラックが地響きを立てて横を通り過ぎるたび、

強烈なディーゼルの排気音とアスファルトの震えが、

すみれの細い身体を容赦なく揺さぶった。


港から離れるほどに潮騒の音は遠ざかり、

代わりに「経済」という名の巨大な唸りが支配的になっていく。


そこにあるのは、情緒や感傷を一切排除した、

剥き出しの鉄と熱量の町だった。


ふと見上げれば、この街の至る所から見える巨大な煙突の群れが、

神殿の柱のようにそそり立っている。


その頂で明滅する赤い航空障害灯は、

暗闇の中で規則正しく鼓動を打つ、

この巨大な人工の生き物の「脈拍」のようだった。


「……冷たいのに、熱い」


すみれは呟き、名刺の入ったポケットを強く握りしめた。


ここは、誰かのため息や、ピアニストの挫折など、

瞬時に蒸発させてしまうような圧倒的な現実が、

呼吸している場所だ。


その風景は、死を選ぼうとしたあの黒い海よりも、

もっと残酷な孤独を突きつけてくるような気がした。


だが、ポケットの中には名刺がある。

この無機質な鋼鉄の町の中で、たった一枚の白い紙片だけが、

彼女にとって唯一の柔らかな「余白」となっていた。




「……わたし、馬鹿な女だよね」


二時間も歩くつもりなのか――?


気づけば、もう半分くらいは、ひたすら歩いていた。

自分に向けた言葉は、誰に聞かせるでもなく、

湿った空気の中に落ちていく。


夜のとばりが、完全に空を覆っている。

月明かりが無情に照らしているだけだった。


それも時間の問題だ。

やがて黒い雲に流され、

このまま光が失われるのと、

足元の感覚が消えるのと、

どちらが早いだろうか。


自分がこの場所に置き去りにされていく。

そんな感覚と同じ速さで、

世界が闇に塗りつぶされていく。


声に出しても、返ってくるものはない。

港の灯りも、人の気配も、もう遠い。

背後には、

あの一匹の魚もかからなかった男の背中さえ、

もう、とっくに見えなかった。


足音だけが、遅れてついてきた。

アスファルトを叩く硬い音だけが、

自分という存在を確かめるための、

たった一つの規則正しいメトロノームだった。


鹿嶋の町は、夜になるとその輪郭を変える。


巨大な工場のシルエットが、

まるで眠らない野獣のように闇の底で蠢き、

時折放たれる蒸気の音が、

誰かの溜め息のように空気を震わせた。


すみれは、再びポケットの名刺に指を滑り込ませた。

エタノールの香りはもう、

鼻腔の奥で記憶の断片に変わろうとしている。


「馬鹿だ、本当に」


そう呟きながら、彼女はまた一歩、地面を蹴った。

立ち止まれば、そのまま夜のひだに飲み込まれてしまいそうで。


自分を「透明」にするはずだったあの日から、

彼女は今、自分という「異物」を

この重厚な町に刻みつけるようにして、

歩き続けていた。



昨夜の未眠は、重力のように身体にまとわりついていた。


頭蓋の奥が鈍く痛み、視界の端が、

ワンテンポ遅れてついてくる。

それは、昨日まで自分が奏でていた音楽の残響なのか、

あるいは現実という不協和音に脳が悲鳴を上げているのか、

自分でも分からなかった。


足どりが重い。


脇をかすめる大型トラック。

疾風のような風に、身体が飛ばされそうになる。


危ない。倒れ込めば、ひかれる。

吐き出された排気ガスが、喉の奥にざらりとした苦味を残した。


その苦味さえも、生を実感させる残酷なスパイスに思えるほど、

今のすみれは感覚が研ぎ澄まされ、同時に摩耗していた。


港沿いの道に、カフェなどという気の利いたものはない。

あるのは、寂寞として広がる街路灯に照らされた港湾の景色だけだ。


オレンジ色に染まったコンクリート。

ひび割れたアスファルトから、雑草が力強く突き出ている。

わずかな段差に足を取られる。


それらは、かつて彼女が求めた「完璧な美」とは程遠い、

剥き出しの生存の形だった。


自販機の前に辿り着くと、

そこだけが夜の闇にぽっかりと開いた光の避難所のようだった。


ようやく見つけた自販機。

その横の、わずかなスペースに目を走らせる。


突如として卑近で、しかし抗いようのない

「生理現象」が侵入してきた。


トイレが、ない。


-


---

あるのは、寂寞として広がるLEDの街路灯に照らされた

港湾の景色だけだ。、



不意に海風が吹き抜ける。砂塵を含んだ乾いた風に、

体温が、はっきりと奪われていく。


自販機の灯りすら、残酷なほど間隔が遠い。


休める場所などなく、ただ、歩くしかなかった。




すみれは、震える手で小銭を投入口へ滑り込ませる。


選んだのは、なんの変哲もない、

ただ温かさだけを約束してくれる缶コーヒーだった。


「熱い……」


掌に伝わる熱が、感覚を失いかけていた指先に、

強引なまでの「現在」を突きつけてくる。


プルタブを開けると、安っぽい香料の匂いが立ち上り、

それは一瞬だけ、

ポケットの中にある名刺のエタノールの香りを塗りつぶした。


彼女は、自販機の光の届く範囲から出られずにいた。

そこから一歩でも踏み出せば、

再びあの無機質な鉄の迷宮と、

大型トラックが吐き出す排気ガスの荒野に

戻らなければならない。


けれど、名刺の角がまた、チクリと指先に触れる。


――行ってください。


あの男が放った、突き放すようでいて背中を押すような、

不器用な言葉が耳の奥で蘇る。


彼もまた、この寂寞とした町の一部として、

絶望や死と対峙しながら、

明日もまたエタノールの臭いをまとって生きるのだろう。


再び、歩き出す。

駅までの距離はまだある。


身体は重く、視界はさらに狭まっている。

それでも、一番高い煙突の光が、

彼女の行く末を見守る守護者のように、

夜空の頂で静かに明滅し続けていた。


不協和音ばかりのこの町で、

彼女の足音だけが、

新しい旋律の始まりのように響いていた。


---

冷ややかな焦燥が、腹の底からせり上がった。


どうしよう。


「トイレ」


絶望や孤独といった高尚な苦悩は、

剥き出しの身体の欲求によって、無惨にも隅へと追いやられた。


生理的にも、もう限界に近い。身体が先に、

悲鳴に近い訴えを上げてくる。


遠くに見える「高松緑地多目的球技場」の暗い輪郭に、


LEDの灯りがともっている。


あそこまで行けば----トイレがあるはず。

そう思った瞬間、そこまでの距離が、


果てしない絶望のように長く感じられた。


足は重い。下腹部を突き上げるような不快感が、


思考を白く塗りつぶしていく。

高尚なピアニストでも、死を夢見た女でもなく、


ただ一人の、限界を迎えた「生物」として、


すみれはその場に立ち尽くした。


「……こんなところで」


情けなさに涙が出そうになる。


だが、涙を流す余裕すら、今の身体には残されていない。

もしここで崩れ落ちれば、誰にも見つからないまま、


ただの「異物」として夜に溶けてしまう。


名刺。

ポケットの中で、あの角がまた指先に触れた。


二十四時間、繋がります。


柿沼の声が、風の音に混じって再生される。


「困ったことがあったら」と言った彼の顔が浮かぶ。


けれど、まさか「トイレに行きたい」なんて理由で、


あの清潔なエタノールの男を呼び出すのか。


プライドが、最後の抵抗を見せる。

けれど、次に吹き抜けた鋭い海風が、


彼女のそんな贅沢な迷いを一瞬で吹き飛ばした。



それはにじんで、まるで蜃気楼のように、霧がかかっていて、

ぼんやりと揺らめいている。


ここまで来て、ようやく気づく。


これは、気合や根性で、どうにかなる距離じゃない。

見えない道路が、果てしなく続いている。


すみれは、鉛のように重くなった足を止めた。

冷え切った指先を、コートのポケットに沈める。


そこにある、一枚の紙切れの感触。

名刺の角が、指の腹に鋭く食い込む。


まだ、電話はしていない。


プライドか。それとも最後の意地か。

すがってはいけないと、自分を戒めていたはずなのに。


けれど、その理由も、もう薄れていた。


切迫した身体の要求は、美学を蹂躙し、

高潔な絶望をただの「不自由」へと引きずり下ろす。


暗くなる空の下で、意地だけが、いちばん頼りなく見えた。

そして名刺だけが、暗闇に穿たれた小さな出口のように、

そこにあった。




震える指が、ポケットの中でスマートフォンを探り当てる。

液晶の冷たい光が、青ざめた彼女の顔を照らし出した。


登録もしていない数字を、名刺の印字をなぞるように、

ひとつずつ慎重に打ち込んでいく。


一文字打つごとに、自分の内側にある何かが、

音を立てて崩れていくのが分かった。

けれどその崩壊は、不思議と心地よい解放感さえ伴っていた。


最後の一桁を打ち終え、通話ボタンの上に指を置く。

押せば戻れない。押さなければ死ぬ。


耳元に届く、規則的な呼び出し音。

それは、彼女がかつて正確に刻もうとした

メトロノームの音よりも、

ずっと不器用で、ずっと切実な、生への拍動だった。


不意に、音が止まる。


「……柿沼さん、ラーメン……」


「助けて」とは言えなかった。


「……はい、柿沼です」


低く、無機質で、けれど微かに眠気の混じった声。

その「エタノールの温度」を感じさせる響きが届いた瞬間、

すみれの目から、こらえていた熱いものが一気に溢れ出した。


「――いま、どこですか?」


「高松緑地多目的球技場……」


公園の夜露に濡れた芝生に、うずくまる。

もう限界だった。


もう、一歩も、

一秒も。


---


我慢できないほどの尿意が、鋭い刃物のように下

腹部を突き上げている。

高潔なピアニストとしてのふライドも、


海に消えようとした悲劇のヒロインの面影も、


その圧倒的な「生理」の前では、

泥のついた靴底ほどの色も持たなかった。


身体を小さく丸め、膝を固く閉じる。

それでも、漏れ出しそうな圧迫感に、

喉の奥からひりついた声が漏れる。


夜露がスカートを浸し、冷たさが焦燥をさらに煽った。


(どうしよう……間に合わない)


呼吸が浅くなる。意識のすべてが下腹部に吸い寄せられ、

世界がそこだけでできている。


(ここで?  こんなところで?  いまここで

森のリスみたいに可愛くなんて)


笑えない。

惨めで、滑稽で、どうしようもなく生き物だった。


(わたしはいま、音楽じゃない。ただ――壊れそうな膀胱だ)



---


五分か、二十分か、もはや時間の感覚は失われていた。

夜露に濡れた芝生の冷たさが、

限界を迎えた身体の震えと混ざり合い、

思考を細切れにしていく。


そのときだった。


不意に、暗闇の向こうから光の帯が滑り込んできた。

低く唸るエンジン音。

ヘッドライトが球技場のフェンスを白く浮き立たせ、

うずくまるすみれの影を、惨めなほど長く芝生の上に伸ばした。


光の中に、人影が浮かぶ。

急ぎ足でこちらへ向かってくる足音。

それはコンクリートを叩く硬い音ではなく、

湿った土を力強く踏みしめる音だった。


「……早瀬さん!」


「柿沼、さん……」


震える声でその名を呼んだ瞬間、

信也は彼女の横に膝をついていた。


「トイレ……っ、トイレ、どこ……」


恥じらいよりも先に、生存本能が言葉を絞り出した。

信也は一瞬、彼女の顔色の悪さと、

その異常なこわばりの理由を察した。


「すぐ近くにコンビニがあります。立てますか?」


「むり、動けない……」


---


信也は返事を聞く前に、彼女の細い身体を横抱きに抱え上げた。

泥で汚れたスカートも、夜露の冷たさも、

彼は一切気に留めない。


「……失礼します。しっかり掴まって」

そのまま、テリオスの後部座席に滑り込ませる。


車内に染みついた消毒用エタノールの匂いが、


揺れる視界を強引に現実へ繋ぎ止めた。


医師の生活の匂いだった。

信也は迷いのない足取りで、暗い管理棟の影へとひた走った。


歩いたあの長い夜道よりも、今、

この男の腕の中で限界を耐え忍んでいる数秒の方が、


彼女にとっては遥かに永い永遠のように感じられた。







**ローソン 鹿嶋平井店**。


青い看板が、工業地帯の闇の中で不自然なほど明るかった。

無機質な鉄と煙突の風景に慣れきった眼には、


その光が、まるで異世界への入り口のように眩しい。


信也は迷いなくテリオスを駐車場に滑り込ませ、車を止めた。


エンジンを切る音さえ待たず、

彼は助手席のドアを外から開けた。

すみれは、もう言葉にする力さえ残っていなかった。



ただ、彼の手を借りる恥じらいを捨て、

すがるように車を降りた。

冷たいアスファルトを踏みしめる感覚。



自動ドアが開く電子音。

店内に満ちた明るすぎるほどの光と、


どこか場違いに明るい入店チャイム。


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