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39章 打ち砕かれ思い

駅に着くと、構内は驚くほど静かだった。


昼下がりで、人影もまばらで、時刻表の電子音だけが、

遠くで鳴っている。


すみれはシートベルトを外し、ドアノブに手をかけた。


少しだけ、動きが遅れる。

それでも、振り返らなかった。


「……さよなら」


声は小さく、やわらかい。

けれど、迷いはなかった。


ドアが閉まる。

その音は短く、はっきりしていた。


車はそのまま動き出す。


すみれは駅のホームへ向かい、柿沼はハンドルを握ったまま、

前を見ている。

ふたりの時間は、そこで静かに分かれた。


誰も責めず、

誰も取り戻そうとせず、

ただ、それぞれの場所へ戻っていった。



すみれは駅の中へと歩き出した。


ホームに立つ。

秋の風が、髪を揺らす。


柿沼は改札の外に立ったまま、動かなかった。


列車の接近音。


すみれは前を向いた。


そのとき。


「すみれさん」


声がした。


振り返ると、柿沼が小さく手を挙げている。

走ってこない。

引き留めない。


---


ただ、届く距離で言った。


「……ラーメン、作ります。鹿嶋港で」


すみれは目を瞬かせた。


「煮干し、山ほど用意してあります」


相変わらず、詩はない。


すみれの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「駅まで送って、終わりじゃないの?」


柿沼は首を振る。


「終わりにしたいなら、そうします」


一拍。


「でも、僕は……また明日、作ります」


すみれは、ゆっくり息を吐いた。

冬の白い息が、ホームに溶けていく。


「……じゃあ」


小さな声で、言う。


「明日、食べに行く」


柿沼の目が、ほどけた。


電車の到着を告げる音が鳴る。


すみれは振り向かずに、ホームの端へ歩いていく。


柿沼は、その背中を見送る。


今度は、引き留めなかった。


ただ、明日のために立っていた。


電車が滑り込む。

風が吹く。


扉が開く。


すみれは乗り込む前に、ほんの一瞬だけ立ち止まった。


振り向かないまま、言う。


「先生」


柿沼が顔を上げる。


「煮干し、多めで」


扉が閉まる。


電車が動き出す。



すみれは一歩だけ中へ進み、

それから振り返って手を振った。



それでも――。


これは、初期化だ。


失われたものを消すためではなく、

もう一度、自分の名前で生きるための。


電車の振動が足元から伝わる。


窓の外の風景が、ゆっくりと動き始める。


鹿嶋の港が遠ざかっていく。


あの青い炎も、

煮干しの匂いも、

ラーメンの湯気も、

後ろに置いていく。


胸の奥はまだ痛い。

けれど、それは確かに自分の痛みだった。


すみれは窓に映る自分の顔を見る。


少し疲れていて、

少しだけ強く見えた。


指先を膝の上で握る。


何も持っていない。

けれど、空っぽではない。


呼吸をする。


それだけで、十分だった。


電車は次の駅へ向かう。


すみれの生活も、同じように進んでいく。


まだ何も始まっていない場所へ。



過去には戻れない。

もう、戻れない。


また、金欠で、金がなくて、孤独でも。


それでも、

音だけは嘘をつかない。


初期化とは、終わりじゃない。

ただ、最初からやり直すということだ。


柿沼との世界は、いつも

AND(論理積)ではなく、XOR(排他的論理和)だった。


同時には、成り立たない。

どちらかを選べば、もう片方は消える。


車窓に映った自分の顔を、

すみれは、しみじみと見つめた。


かつて

「可愛い」と言われた顔は、

もう、そこにはなかった。


窓の外を流れる闇が、

容赦なく、現在を運んでいく。


すみれは唇を噛んだ。


そして、

ほんの少しだけ、泣いた。


声は出なかった。


涙はすぐに止まった。


電車は止まらない。

生活も止まらない。


すみれは目を拭き、

背筋を伸ばした。


まだ終わっていない。


ただ、ここから始まるだけだった。




アパートの前で、気丈なすみれは、声を上げて泣き崩れた。




午後五時だった。


空はまだ明るい。

子どもの声が遠くでして、洗濯物が揺れている。

世界は普通に生活を続けている。


その普通さが、胸に刺さった。

駅で別れたことも、海の闇も、


ラーメンの約束も、

若い看護師の存在も、

自分の中でしか起きていない出来事のようだった。


その普通さが、胸に刺さった。


すみれは膝を抱えた。


生活は残酷だ。

優しくも残酷だ。


彼女は声を押し殺さずに泣いた。


築三十年の階段は湿っている。


部屋の明かりはまだ点けなくても見える。

生活は、いつも一人分しかない。


泣きながら、

自分が本当に失ったものを、

ゆっくり理解していく。


恋そのものではない。


あの港で、

誰かと同じ湯気を見ていた時間。


同じ匂いを吸っていた時間。


同じ沈黙を共有していた時間。


それが、もう戻らない。


涙が止まらない。


胸の奥にぽっかり空いた場所に、

風が吹き込むようだった。


すみれは顔を覆う。


「……ばか」


誰に向けた言葉か、分からなかった。




翌日、音楽教室の扉を開けると、


いつものように湿った木の匂いと、

調律の狂ったピアノの音が私を迎えた。


「すみれ先生、こんにちは!」


子供たちの屈託のない声が、静かな教室に響きます。

昨日、鹿嶋港の冷たい風の中で感じた、

あの「生」の震え。柿沼のいない世界で、


私はただのピアノ教師として、鍵盤の前に座った。


「さあ、始めましょうか」


私が最初の音を鳴らすと、小さな指がそれに続きます。

昨夜、港で啜ったあのしょっぱいラーメンの味も、


SOTOのバーナーの青い炎も、

すべては遠い夢の中の出来事のようだった。


教えるのは、バイエルの練習曲。

ドラマチックなリストでも、

怒りに満ちたショパンでもない、単調で、

けれど確かな日常の繰り返し。


(生きている。それだけのことが、こんなに静かな音になる)


窓の外には、昨日と変わらない空が広がっている。


柿沼はいない。責任を取るべき相手も、

嘘をぶつける相手もいない。


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