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38章 鹿嶋港のラーメン

駅に着くと、構内は驚くほど静かだった。


昼下がりで、人影もまばらで、時刻表の電子音だけが、

遠くで鳴っている。


すみれはシートベルトを外し、ドアノブに手をかけた。


少しだけ、動きが遅れる。

それでも、振り返らなかった。


「……さよなら」


声は小さく、やわらかい。

けれど、迷いはなかった。


ドアが閉まる。

その音は短く、はっきりしていた。


車はそのまま動き出す。


すみれは駅のホームへ向かい、柿沼はハンドルを握ったまま、

前を見ている。

ふたりの時間は、そこで静かに分かれた。


誰も責めず、

誰も取り戻そうとせず、

ただ、それぞれの場所へ戻っていった。



すみれは駅の中へと歩き出した。


「あなたが消えてしまう気がして」

すみれは目を細める。


「詩にしないで。分かりやすく」


柿沼は小さく頷いた。


「……生きててほしいと思いました」


その一言だけが、比喩じゃなかった。


すみれはようやく視線を上げ、柿沼の顔を正面から見た。

昨日から彼が積み上げてきた、


太陽だの支配だのといった装飾がすべて剥げ落ち、

その奥にある、ただの切実な体温だけが残っていた。



「それ……合格より」


すみれは短くそう言うと、

手にした一万円の羊羹の袋を助手席の足元に置いた。


柿沼は何も言わず、テリオスのエンジンを回した。

無骨な振動がシートを通じて伝わってくる。



テリオスが朝の光を切り裂き、海沿いの道へと走り出した。

バックミラーには、もう誰も映っていなかった。



広い鹿嶋港の余白に、テリオスが停まった。

エンジンが静かに止まり、

車内に残っていた振動がゆっくりと消えていく。




海は穏やかだった。

冬でも夏でもない、曖昧な季節の光が水面に広がっている。


遠くに停泊している船の影が、微かに揺れていた。


周りには家族連れも多かった。


鹿嶋港の堤防のそばでは、

家族連れが小さなカセットコンロを囲んで。

ラーメンを作っていた。


父親が湯気の立つ鍋から麺をすくい上げ、


母親が紙どんぶりに煮干しのスープを注ぐ。


子どもは割り箸を握りしめ、


早く食べたくて足踏みをしている。

潮風に乗ってスープの匂いが広がり、

波の音と混ざって、

どこか懐かしい夕方の空気をつくっていた。



少し離れた芝地では、

若い人たちがいくつもバーベキューコンロを並べている。


炭が赤く光り、肉の焼ける音が弾けるたびに


歓声が上がる。


紙皿を持って笑い合う恋人たち、

トングを奪い合う友人同士、

肩を寄せて写真を撮る二人の姿。


ビールの缶が開く軽い音と、

潮騒が重なって、

港は小さな祝祭のように賑やかだった。


空はゆっくりと群青に変わり、

防波堤の向こうで波が白く砕ける。

誰かが「そろそろ麺、のびるよ」

と声をかけ、家族が笑いながらどんぶりを手に取る。


バーベキューの煙とラーメンの湯気が夕暮れに溶け、

鹿嶋港には、人が誰かと食べて生きているという、


ごく当たり前の温もりが静かに満ちていた。



釣りに飽きてコンクリートを蹴っている子ども、

折り畳み椅子に深く腰掛ける祖父母、


クーラーボックスを囲んで笑い合う人々。

そこには、ありふれた休日の港の空気が流れていた。




柿沼がハンドルから手を離す。

指の力が抜けるのが、すみれにも分かった。


「いまから、ラーメン作ります、約束ですから、

もう何日も練習し来ました」


何気ない声だった。


「ここで?」

すみれは思わず聞き返す。柿沼は小さく笑い、

ドアを開けた。



柿沼は青い炎を見ながら言った。


「……これ、昨日買ったばかりなんです」


少し照れた声。


「前のが壊れてしまって。

どうせなら、ちゃんとしたのを買おうと思って」


バーナーを軽く指で叩く。

 

「SOTOの シングルバーナー

火が安定していて、風に強いって聞いて。

港で使うなら、これがいいかなって」


「コンパクトなんだね」



---


「SOTOのシングルバーナー。

火が安定していて、風に強いって聞いて。

港で使うなら、これがいいかなって」


「コンパクトなんだね」


すみれはしゃがみ込み、

青い炎を少し離れたところから覗き込む。


「ええ。ザックにも入るんです」


柿沼は少し嬉しそうに答えた。


「ガス缶も小さいので済みますし、

すぐお湯が沸くんですよ」


鍋の底に細かな泡が生まれ始める。


「へえ」


すみれは炎に手をかざした。

港の風より、少しだけ温かい。


「先生、こういうの詳しいんだ」


柿沼は少しだけ首を振る。

いいですね、その一言で空気が少し軽くなります。

流れを自然に続けてみます。


---


「詳しいというほどでは……

何度か失敗しただけです」


「先生、乗り鉄にも使えそうだね」


すみれは炎を見ながら言った。


柿沼は一瞬だけ考える。


「駅の端でお湯を沸かしたら、怒られますね」


真面目に答える。


すみれが小さく笑う。


「そういう意味じゃないよ」


港の風が少し強くなり、炎が揺れる。

それでも火は消えない。


柿沼はバーナーの様子を確かめながら言う。


「でも、電車で遠くに行って、

その土地でラーメンを作るのは楽しそうです」


少しだけ夢を見る声だった。


すみれは炎から目を離し、海のほうを見る。


「先生、ほんと生活の想像しかしないね」


鍋の中で、小さく泡が弾けた。



一拍。


「……ラーメン、失敗したくなかったので」


「これ、昨日わざわざ買いに行ったんです」


柿沼は少しだけ笑う。


「店員さんに三十分くらい説明を聞いて、

一番安定してるのを選びました」


炎を見つめながら言う。


「火がきれいでしょう」



「外で食べると、うまいから」

すみれは何も言わず、ただ鍋の水を見つめた。

底に小さな泡が生まれ、やがてそれは音を立てて増えていく。


遠くでクレーンが動く。

鉄の軋む音が風に乗り、誰かの笑い声が混ざる。


港はいつも通りに動いている。

水が沸騰し、白い湯気が上がった。


柿沼はインスタントラーメンの袋を開け、

固い麺をそのまま鍋に入れる。麺は湯の中で一度跳ね、

すぐに沈んだ。箸で軽くほぐしていく。


「三分」

時計を見ずに、彼は言った。

すみれは鍋の中を見つめていた。


ほぐれていく麺が、ゆっくりと形を変えていく。

湯気が頬に当たり、温かい。それだけで、

胸の奥の強張りが少しだけ解けるのを感じた。


粉末スープを入れると、

醤油の匂いが立ち上り、潮の香りと混ざり合った。


柿沼は火を止め、紙カップに麺を移す。

少しこぼれたのを気にすることもなく、


彼はそれをすみれに差し出した。


「はい」


すみれは両手で受け取る。指先に直接、熱が伝わった。

「……ありがとう」


箸で麺をすくう。湯気の向こうに港が見える。

家族連れの笑い声が遠くにある。


一口、すする。

熱い。少ししょっぱい。

どこにでもあるインスタントラーメンの味。


それなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

空腹だったわけではない。特別な味でもない。


ただ、ここで食べているという事実が、

重かった現実を少しだけ軽くしていた。


「うまいですか」

柿沼が聞く。すみれは頷く。

「……うん」

それ以上の言葉は出なかった。


柿沼も自分のカップを持ち、立ったまま麺を啜る。

二人の間に会話はない。けれど、

その沈黙は決して重くはなかった。


港の風が吹き、湯気が横に流れる。


テリオスの影が、コンクリートの上に長く伸びていた。

すみれはラーメンを食べながら思う。

生きている。


ただそれだけのことが、

これほど確かに感じられる瞬間があるのだと。


波は、どこまでも静かに揺れていた。



テトラポットが陸に並べられていた。

その横に、ロナミンシーの椅子が置かれていた。


二人は、腰を下ろした。


「柿沼さん。6月10日、鹿島神宮に――いましたよね」


「……いました。見られていたんですね」


「そう。私、一人でお礼参りに行ったの。

そしたら参道を歩くあなたが見えた。


……隣に、綺麗な若い女性を連れて。

あんなに親しげに。彼女は誰なの?」


問いは静かだったが、逃げ場はなかった。


柿沼は、すぐには答えなかった。


一度、喉が鳴る。

呼吸が浅くなるのが、はっきり分かる。


「……見られていたんですね」


同じ言葉を、今度は確認のように繰り返す。



少し間を置いて、

言葉を選ぶというより、削ぎ落とすように続けた。


「彼女は、僕の病院の年下の看護師です」


すみれの胸が、きゅっと縮む。


「……あの日、あの参道で」


柿沼は視線を上げない。


「僕は、彼女から告白されました」


空気が張りつめる。


「『先生のことが、ずっと好きでした』と」


その一言が落ちた瞬間、すみれは理解した。


これは説明ではない。

言い訳でもない。


切迫しているのは、

感情ではなく、現実だった。


彼は誰も傷つけないつもりで、

誰も選ばなかった。


そして、その態度が、一番深く、すみれを切った。


優しさは、終止符になる。しかも音もなく。


すみれは静かに立ち上がった。


「……分かったわ」


それ以上、聞く必要はなかった。

しかし、曖昧にすれば、禍根を引きずることになる。


すみれはそのとき初めて、

自分が“選ばれなかった側”に立っていることを、

はっきりと理解した。



けれど、ダイレクトに聞くしかない。


「それで、その看護師を選ぶということ?」


すみれは繋留されている釣り船を見つめた。


「そう。決めなさいよ。今、この鹿嶋の海で。

あの釣り船の前で」


すみれは視線を動かさなかった。

一歩も引かない。


柿沼は答えられずにいた。


「でも、すみれさんとは、あの日以来会っていない。

ここで何をどう言えばいいんです」


「柿沼さん、わたしの気持ちは分かっていますよね」


沈黙。


波の音だけが聞こえる。


「ぼくは、考えていました。

すみれさんと付き合うのは……正直、苦しいです。


ピアノを極めた人です。

ぼくみたいな下衆とは、合わない」


すみれは何も言わない。


柿沼は、目を閉じるようにして言った。


「ですから……あの看護師を選びます」


柿沼の声は、ひどく掠れていた。


けれど、そこにはもう、

昨夜の電話のような甘い幻想は微塵もなかった。


すみれは、ゆっくりとうなずいた。


「そう」


それだけだった。


港の風が強く吹き、

釣り船のロープが軋む音を立てる。


ラーメンの鍋の湯気は、もう消えていた。



「彼女は、

僕がどんな医師でも、隣で笑う人です」


一拍。


「……あなたの才能を支える器じゃない」


「だから、

彼女と生きます」



「わかりました。

では、これで最後です、いい思い出でした。

感謝しています」




「……やっぱり、私って悲劇のヒロインね。

エピローグ、かな」


すみれは小さく笑った。

冗談の形をしているのに、声は少しだけ乾いていた。


ここまで失ってきたものを数えれば、

そう言いたくもなる。


舞台。

スポンサー。

ピアノのある部屋。

未来の形。


そして、名前さえ。


柿沼は首を振った。


「違います」


すみれは視線を上げる。


「これは、プロローグです」


静かな声だった。


慰めではない。

励ましでもない。


ただ、そう思っている人間の声だった。


すみれは少し黙る。


プロローグ。


物語の始まり。

何も持っていないところから始まる場所。


すみれは笑った。

今度は、少しだけ本当に笑った。


「……残酷ね」


目を伏せる。


「プロローグって、何も持ってない人の言葉だよ」

「違います」


港の風が、二人の間を通り抜ける。


「これから、何でも持てる人の言葉です」


波が防波堤に当たる音がした。


すみれは顔を上げない。


けれど、その言葉を追い払おうとはしなかった。



風が静かに通り過ぎる。


「全部失ったあとに、

まだ始まりって言われるの、

ちょっとつらい」


柿沼は何も言わない。


すみれは続ける。


「でもね」


声が少しだけ柔らかくなる。


「エピローグって言ったら、

ここで終わりになるから----」


柿沼が小さく頷く。


すみれは空を見る。


空は、何も変わっていない。


「……じゃあ、プロローグでいいよ」


少しだけ息を吐く。


「悲劇のヒロインの、プロローグ」


その言葉は、

まだ痛みを抱えたままの、


かすかな受け入れだった。

港の匂いが、ゆっくりと肺に入る。


波の音は変わらない。

空も変わらない。


変わったのは、

自分がここに立っているという事実だけだった。


すみれは一歩だけ前に出る。


それが、始まりだった。


---


すみれは息を吐いた。


「……ここで、お別れね。

短くも美しく燃えて、たった四日の恋か」


港の釣り船が揺れていた。


「でも、すみれさんのこと忘れない」


柿沼はすぐに頷かなかった。

喉が動く。言葉が出てこない。


やっと、掠れた声が落ちる。


「……忘れなくていいです」


すみれはもう一度、静かに息を吐く。


「……ここで、お別れね」


港の釣り船が、ゆっくりと揺れている。

ロープが軋む音だけが聞こえる。


「でも、先生のこと忘れない。命の恩人だし」


すみれは海を見たまま言う。


柿沼はすぐに頷かなかった。


風が吹き、バーナーの冷えた金属が小さく鳴る。


「……それだけで、十分です」


柿沼は、ようやくそう言った。


すみれは振り向かない。


「うん」


それだけ答える。


二人の間に、もう言葉はなかった。



---


すみれは息を吐いた。


「……ここで、お別れね。

短くも美しく燃えて、たった四日の恋か」


港の釣り船が揺れていた。


「でも、すみれさんのこと忘れない」


柿沼はすぐに頷かなかった。

喉が動く。言葉が出てこない。


やっと、掠れた声が落ちる。


「……忘れなくていいです」


すみれは海を見たまま言う。


「先生のこと忘れない。命の恩人だし」


風が二人の間を通り抜ける。


すみれは小さく頷いた。


「じゃあ、本当にお別れね」


そう言って、歩き出す。


数歩進んでから、立ち止まった。


振り向かないまま、言う。


「……十日くらい経ったら、

少しは平気になるかな」


独り言のような声だった。


柿沼は答えない。


ただ、その背中を見ている。


港の空は変わらず、

波の音も変わらない。


けれど、時間だけが静かに流れていく。


すみれはもう一度歩き出した。


ロープの軋む音と、

遠くのエンジン音だけが残る。


それは終わりの音ではなく、


ただ、少しずつ現実に戻っていくだけだった。



すみれが振り向いた。


その瞳には、

すでに「過去」へと踏み出そうとしていた決意の影があった。

けれど、そこに立っている柿沼は笑っていなかった。


「でも、

それで終わりにしないでください」


必死だった。


医師としての冷静さも、大人としての分別も、

すべてを投げ出した声。


引き留める資格もないのに、引き留めてしまう声。


それは、高松緑地公園の芝生の上で

彼女を抱き上げた時よりも、

ずっともろく、そして力強い執着だった。


すみれの胸の奥が、痛む。


優しさは終止符になる。

けれど、


その終止符が相手の喉元を突き刺すような残酷さを

孕むことを、すみれは知らなかった。



---


太陽はまだ上にあった。

おだやかな秋の陽ざしが差していた。



「……鹿島神宮駅まで、送って」


柿沼の指が、ハンドルの上で一瞬止まる。

それから、ゆっくりと頷く。


「分かりました」


それだけ言って、車は走り出した。

エンジンの音が、会話の代わりに流れる。

沈黙は重くもなく、軽くもなく、ただそこにあった。


色の抜けた風景の中を、車は静かに走っていた。

窓の外に流れる鹿嶋の町は、秋の光に晒されて、

輪郭だけを残している。


言葉はなかった。


ふたりとも、もう話すべき言葉を持っていなかった。


信号で車が止まる。


遠くで電車の警笛が鳴る。


すみれは、窓に映る自分の顔を見ていた。


その顔は、少しだけ大人に見えた。


柿沼は前を向いたまま、ハンドルを握っている。


何も言わない。

何も言えない。


それでも、同じ時間を共有している。


それだけが、最後に残った現実だった。





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