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37章 乾坤(けんこん)の再会

すみれは、スマホを握りしめたままベッドに倒れ込んだ。


今の彼女にとっては、

家賃一ヶ月分はきつい金額、これで行きついた。


次の数週間の食い繋ぎを約束する、震えるほど大きな金額だ。


しかも「会長と常務の折半」。

それは、日本機工という巨大組織の予算ではなく、


日本機工の加藤たちが


「一人のピアニスト」としてのすみれに惚れ込み、

自腹を切ってまで彼女の指先を求めているという証だった。



深夜の電話と、煮干しの約束



思い切って、すみれは柿沼に電話した。

コール音は二回で止まった。




受話器の向こうで、柿沼が「ええ」と短く答えた。

その声には、懐かしさと、少しの照れが混じっている。


「うな重ですね」


「あれ、最高でしたよね?」


少しの沈黙。

あおいの冷徹な現実主義も、

加藤が用意した血の通ったセットリストも、今は遠い。


そして内気な柿沼が、小さく、しかし確かな声で笑った。


「正直に言うと、味はあまり覚えていません」


すみれは目を瞬かせた。


「え?」


「あなたが、

ちゃんと歩けるようになったことばかり見ていました。


箸を持つ手が震えていないか、そればかり気にしていて」


窓の外の夜が、少しだけ柔らかくなる。


「……医者だね」


すみれの声は、笑っているのに、どこか湿っていた。


柿沼は少し黙ってから言う。


「違います」


静かな否定だった。


「あなたが消えてしまいそうだったからです」


すみれは、スマホを握る手に少し力を込めた。


あの夕暮れの港の匂いが、

不意に胸の奥でよみがえる。


潮の匂いと、血の匂いと、

見知らぬ男の体温。


「……ねえ、柿沼さん」


今度は、すみれが言葉を選ぶ番だった。


いい選択ですね。

この場面では「会いたい」と言わずに、**生活や身体の言葉で距離を縮める**のが自然です。

今の流れにそのまま繋げて書きます。


---


「……ねえ、柿沼さん」


すみれは、少し迷ってから言った。


「明日、煮干し、ある?」


電話の向こうで、柿沼が一瞬だけ黙る。

それから、小さく息を吐いた。


「あります。

今日、少しだけ仕込みました」


「そっか」


それだけで十分だった。


すみれは枕に顔を埋める。

シーツの冷たさが、少し気持ちいい。


「熱いもの、食べたいな」


独り言のような声だった。


「……分かりました」


柿沼の返事は、静かで、揺れがない。


「明日は、少し早く帰ります」


通話の向こうで、何かが決まった気配がした。


すみれは目を閉じる。


トスティの旋律ではなく、

煮干しの匂いを想像しながら。


「じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい」


通話が切れたあとも、

しばらくスマホを耳に当てたままだった。


部屋は静かだった。


けれど、透明ではなかった。


「……うん」


すみれは息を吐いて、すぐに言う。


「先生の約束、忘れてません」


「約束?」


「ラーメン作ること」


柿沼は目を瞬いて、


「……覚えてます」


その答えが、なぜか一番安心だった。


誰も知らない曲に魂を込めた「シンドローム」のような演奏を終え、

家賃一ヶ月分の報酬という「現実」を手にしたすみれ。


けれど、今彼女の心を本当の意味で満たしているのは、

一人の男としての柿沼と共有した、


あの泥臭くて、温かな記憶の続きだった。


窓を叩く夜風は生ぬるい。けれど、すみれの胸には、

あの日食べたうな重の熱さのような、確かな灯がともっていた。


「今日の演奏を聴いて分かりました。

あなたは僕が救うべき患者なんかじゃなく、

僕の乾いた世界を支配してしまう、太陽のような人だったんだって」


すみれは一拍置いた。


「あ。そう」


受話器の向こうで、


彼が必死に積み上げた感動と比喩が、

乾いた音を立てて崩れていく。


「あ……いや……その、ただ、あなたの力になりたいと……」


「で?」


すみれの声は低かった。

「何が言いたいの。結論だけ言って」


沈黙。


柿沼の息が止まったのが分かった。


「太陽とか、支配とか、いらない」

すみれは淡々と言う。


「私は今、先生に何をされるんですか?」



「明日、ラーメン作ってよ。鹿嶋港で。約束だもの」


すみれの声は淡々としていた。


「でも、そこに『太陽』なんて連れて行かない。

ただ、お腹を空かせた一人の女が行くだけよ」


一拍。


「それでいい?」


電話の向こうで、柿沼が息を吸う。


「……はい」


掠れた声。


「……わかりました」


すみれは電話を切ると、

手元の万羊羹の包装紙を丁寧に剥がした。


一棹一万円。 その重みと、指先に残る冷たい紙の感触。

男の熱を帯びた


告白よりも、この圧倒的な「物質」

としての価値のほうが、


今の彼女にはよほど信頼できた。


あおいの言う通りだった。


感情で世界を見るのをやめたとき、

景色は驚くほど平坦で、そして自由になった。


彼女は羊羹を厚く切り分け、一口、口に運んだ。

甘さが喉を焼く。


「うますぎる」

「何がですか?」

「独り言」




「今の私には、あの煮干しのラーメンスープが必要」

「-----」


「迎えに来てくれる? 来られないなら、もういい」


「朝、ホテルに行きます。八時」


一拍。


「……行きます」


柿沼の声が掠れる。


「朝、ホテルに。八時」


「八時……」


すみれは小さく息を吐いた。


「わかりました」


少しだけ声が柔らかくなる。


「フロントで待っています」


そして、間を置いて、囁くように。


「……遅れたら、帰っちゃうかもしれません」


柿沼が息を止める。


「遅れません」


すみれは笑った。


「先生、真面目」


もう一歩だけ。


「ちゃんと私を見つけてくださいね」


「……はい」


「迷子になったら」


すみれの声が甘くなる。


「手、引いてあげますから」


沈黙。


電話の向こうで、柿沼が言葉を探している。


すみれは最後に、軽く刺した。


「……お腹、空かせて待ってます」


---


柿沼の声は、もはや「太陽」や「支配」

といった壮大な言葉を失い、

ただ実直な医師の、

あるいは一人の従順な男の響きに戻っていた。


すみれは電話を切ると、スマホをベッドに投げ出した。


朝の8時。一万円の羊羹を贅沢に朝食代わりにし、


高級ホテルのチェックアウトを済ませて、

煮干しの匂いのする軽自動車に乗り込む。

その滑稽なまでの落差が、今のすみれには心地よかった。


あおいはきっと、そんな自分を見て


「どこまで行っても安っぽい女ね」と鼻で笑うだろう。

けれど、その安っぽさこそが、

今の自分をこの世界に繋ぎ止めている唯一の重りなのだ。


「来られないなら、もういい」


そう突き放したときの、柿沼の怯えたような沈黙。


それは、かつて自分が佐藤の顔色を窺っていたときの、

あの卑屈な沈黙の鏡合わせだった。


立場が入れ替わったわけではない。

ただ、すみれはもう、誰かに「守られる」

ことで自分の価値を証明する必要がなくなっただけだ。


すみれはもう一度、羊羹の箱を撫でた。


一棹一万円の重み。

十五万円の現金の厚み。

そして、明日の朝、喉を焼くであろう煮干しスープのえぐみ。


それらすべてを飲み込んで、彼女は眠りにつく。


夢は見ない。

明日の朝、八時に、現実が迎えに来ることを知っているから。





あさから10月の陽ざしが差していた。


ホテルの車寄せに、少し車高の高い、

懐かしいエンジンの唸りが響いた。


柿沼の愛車、ダイハツ・**テリオス**だ。


最新の高級車が並ぶホテルのエントランスで、

そのコンパクトで無骨な四駆の姿は、ひどく浮いている。


けれど、すみれにはその場違いな鉄の塊が、

今の自分を現実へと引き戻す唯一の

シェルターのように見えた。


柿沼は運転席から降りると、

昨夜の「拒絶」を消化しきれないままの、

こわばった顔で立っていた。


「おはようございます。……すみれさん」


「おはよう、柿沼さん。テリオス、今日も元気そうね」


「ええ、これじゃないと鹿嶋の漁港の裏道や、

あのラーメン屋の砂利道は走れませんから」




柿沼が助手席のドアを開ける。すみれは、


一棹一万円の「万羊羹」


ずっしりと詰まった紙袋を抱えたまま、

テリオスの高いシートに体を滑り込ませた。


車内には、ホテルのスイートルームの洗練された

香料とは無縁の、

消毒液の匂いと、微かな煮干しの残り香が漂っている。


「……あの、すみれさん。昨夜は、その、

大きな言葉を使いすぎて……すみませんでした」


柿沼がハンドルを握り、独り言のように呟く。


「いいの。それより、早く出して」


すみれがそう言うと、柿沼は少しだけ口角を緩め、

テリオスのシフトレバーを動かした。


四駆特有の振動を伴って、車が動き出す。

バックミラーの中で、煌びやかなホテルが小さくなっていく。


あおいが「宣言しろ」と命じた檻が、

加藤が「市場価値」を値踏みした舞台が、遠ざかる。




テリオスは朝の光を弾きながら、海沿いの、

あの泥臭い湯気の立つ場所へと加速していった。






テリオスが鹿嶋のバイパスを走り出した。

ごつごつとした振動が、

かえってすみれを現実へと引き戻す。


「……ねえ、柿沼さん」


すみれは、

フロントガラス越しに広がる


広大な鹿嶋の工業地帯を見つめたまま、

切り出した。


「はっきり聞かせて。あなたは、

私のことをどう思っているの?

鹿嶋港で拾った『可哀想な患者』? 見下されている


『落ちぶれたピアニスト』?

……それとも、ただの金欠女?」


信号待ちでテリオスが止まった。アイドリングの振動が、

すみれの背中に伝わる。



柿沼はハンドルを握る手に力を込め、

前を見つめたまま、搾り出すように答えた。


「……どれも違います」


内気な彼にしては、驚くほど強い口調だった。


彼は眼鏡のブリッジを一度押し上げると、

意を決したようにすみれの瞳を真っ直ぐに見た。


「そんなんじゃ、分からないよ」


「僕は、あなたに『絶望』してほしいんです」


「え……?」


「僕に対してじゃない。昨日のあなたの演奏は、

1500人を圧倒したけれど、

僕にはあなたが泣いているように聞こえた。


あなたは、


こんな地方のホールで羊羹のために弾くような人じゃない。

……すみれさん、


あなたは、僕の人生で初めて出会った『本物の光』なんです」


柿沼の声が、少しだけ震えた。



「僕はただの医師で、ピアノのことなんて詳しくない。

でも、あの日、

「高松公園」あなたの脈を診たときから

……いや、昨日あの音を聴いたときから、

僕は決めたんです。あなたの才能が、


誰の慈悲も受けずに独りで羽ばたけるまで、

僕はあなたの足場になりたい。


僕にとって、あなたは守るべき患者なんかじゃない


……一生かけても追いつけない、

僕の『魂の主治医』なんです」


「そうなの」



「でも、その瞬間に頭に浮かんだのは、

神宮の静寂ではなく、

あの鹿嶋港の荒々しい波の音と――


……ローソンで倒れるところを抱きかかえた、

すみれさんの身体の感触だったんです」


すみれは一拍置いて言った。


「先生、それHだよ」


柿沼が固まる。


電話の向こうで、何かが完全に停止した気配がした。


「え、あ、いや、違います、違うんです、

そういう意味ではなくて」


急に早口になる。


「医学的に、というか、人が倒れる瞬間というのは体温

や筋緊張が――」


「うん、もっとHになってる」


すみれは天井を見ながら言う。


柿沼が言葉を失う。


しばらくして、小さく咳払いをした。


「……すみません」


その声があまりに真面目で、

すみれは思わず吹き出した。


「先生さ」


笑いをこらえながら言う。


「そういうところ、嫌いじゃないよ」



「……すみません」


その声があまりに真面目で、

すみれは一瞬だけ黙った。


それから、堪えきれずに笑った。


最初は小さく。

次第に肩が揺れるほどに。


久しぶりだった。

こんなふうに、理由もなく笑うのは。


柿沼は何も言わない。

ただ、その笑いが収まるのを待っている。


それが、少しおかしかった。


「先生さ……」


笑いの余韻を残した声で言う。


「医者なのに、免疫ないんだ」


柿沼は、少し間を置いてから答えた。


「あなたに関しては、抗体ができません」


すみれはまた吹き出した。


夜の部屋に、笑い声がやわらかく広がる。


窓の外では、風が静かに吹いている。


さっきまでの重たい言葉や、

羊羹の甘さや、

演奏の熱狂が、

少しずつ遠くなっていく。


ただ、笑っている。


それだけで、十分だった。



「あなたが消えてしまう気がして」

すみれは目を細める。


「詩にしないで。分かりやすく」


柿沼は小さく頷いた。


「……生きててほしいと思いました」


その一言だけが、比喩じゃなかった。


すみれはようやく視線を上げ、柿沼の顔を正面から見た。

昨日から彼が積み上げてきた、


太陽だの支配だのといった装飾がすべて剥げ落ち、

その奥にある、ただの切実な体温だけが残っていた。



「それ……合格より」


すみれは短くそう言うと、

手にした一万円の羊羹の袋を助手席の足元に置いた。


柿沼は何も言わず、テリオスのエンジンを回した。

無骨な振動がシートを通じて伝わってくる。



テリオスが朝の光を切り裂き、海沿いの道へと走り出した。

バックミラーには、もう誰も映っていなかった。



広い鹿嶋港の余白に、テリオスが停まった。

エンジンが静かに止まり、

車内に残っていた振動がゆっくりと消えていく。



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