36章:1,500人の熱狂
かつての創立記念日を遥かに上回る熱気が、そこにはあった。
カシマサッカースタジアムの喧騒を遠くに臨む巨大ホール。
1500人の観客。
その視線は100万ボルトの電圧となって、
ステージ中央のピアノを焼く。
客席最後列には、あおいが、高級スーツに身を包んだ成瀬を従え、
審判のように座していた。そのすぐ傍ら。
場違いなほど背を丸め、膝の上に置いた拳を震わせている男がいた。
医師、**柿沼医師**だ。
柿沼は、派手な場を嫌う真面目で内気な男だった。
彼とすみれの出会いは、暗い**鹿嶋港**だった。
有明のタワーマンションから叩き出され、
ソリストの座を下ろされて絶望し、
妹のあざみに嫉妬して、
「高松公園」あずくまっていたすみれ。
すべてを失い、泥のようにうずくまり倒れ込んだ彼女に、
最初に駆けつけたのが柿沼だった。
震える手で脈を取り、自分の上着をかけ、
病院まで搬送してくれた命の恩人。その柿沼医師は今、加
藤常務からの招待に困惑し、
サイズの合わないジャケットの裾をいじりながら、
猫のように座っている。
すみれは、ステージの袖からその光景を、
温度のない瞳で確認した。
---
柿沼の回想 ―― シドニー・ポワチエの教え
柿沼には、すみれが知らない秘密があった。
彼は学生時代、
不遇な環境にいた自分を支えてくれた一本の映画、
**『いつも心に太陽を』**を人生のバイブルにしていた。
名優シドニー・ポワチエ演じるサッカレー先生。
劣悪なロンドンのイーストエンドに赴任し、
荒んだ生徒たちから蔑まれ、
泥を投げつけられても、彼は決して自分を汚さなかった。
彼はただ、生徒たちを「レディ」「ジェントルマン」と呼び続け、
自分を安売りしない「誇り」を説き続けたのだ。
柿沼は、鹿嶋港で震えていたすみれの中に、
あの映画の生徒たちの絶望と、
そしてサッカレー先生が守り抜こうとした
「気高さ」の種火を見た。
(すみれさん。あなたは、自分がどれだけボロボロでも、
音楽を捨てなかった。その姿は、
あの映画の太陽そのものだったんだ)
彼が加藤常務にこの曲をリクエストしたのは、
単なる懐メロの趣味ではない。
すみれに
「あなたは、この絶望の中でもレディ(貴婦人)であれ」という、
彼なりの不器用な祈りだった。
一五万円の絶唱と「誇り」の顕現
【Roland E-X50】ドクターTのE-X50 が入る
一曲目、**『花は咲く』**。
五〇歳のバイオリニストが高橋悠人
奏でる深く渋みのある旋律に、神栖の母娘、
良子と結衣の瑞々しいソプラノが重なる。
すみれのピアノは、それを優しく包むふりをして、
絶望の底から這い上がる者の「執念」を音に込めた。
二曲目、トスティの**『Sogno -夢-』**。
良子の円熟した声と結衣の透明な響き。
それに呼応するように、
すみれは築三〇年のアパートで蓄積された孤独と乾きを、
一気に吐き出した。
(……何よ、あの音。前よりもずっと「高く」響いてるじゃない)
あおいは成瀬の腕を無意識に強く掴んだ。
一,五〇〇円のラテでは決して届かない、
一五万円とプライドを懸けた「本物の飢え」が、
一,五〇〇人のホールを支配した。
三曲目、運命の**『いつも心に太陽を』**。
誰もが知る「名曲」を弾くよりも、
誰も知らない「真実」を弾く方が、時に残酷で、時に美しい。
イントロが流れた瞬間、会場を支配したのは静寂ではなく
「困惑」だった。
神栖の母娘、良子と結衣の瑞々しいソプラノが重なる。
相当な練習の日々だったろう。
その歌声は、地方都市の閉塞感を打ち破るような、
濁りのない力強さに満ちていた。
隣の席の老人がプログラムをめくる微かな音が響く。
誰も知らない。
若者も、年配者も、
誰もこの旋律に記憶を重ねることができない。
客席の柿沼だけが、
その孤独な音の正体に、
肺を直接掴まれたような衝撃を受けていた。
すみれの指先は、
ポワチエが体現した「静かなる怒り」と「深い慈愛」
を完璧にトレースしていた。
誰も知らないからこそ、その曲は誰の思い出にも汚されていない、
純粋なすみれ自身の魂として響く。
「金欠」という、日々の生活を擦り切らせる惨めな事実。
通帳の残高、明日の食事、そんな卑近な不安を、
彼女は「誇り」
という名の太陽で焼き尽くしていく。
観客は、自分が何を聴いているのかさえ分からぬまま、
ただ圧倒されていた。
覚えのあるフレーズに安心することもできず、
ただ、ステージ上で燃え上がる「無名の太陽」の熱に焼かれる。
誰も知らない曲。
けれど、その場にいた全員が、自分たちの心の中に、
名付けようのない「欠落」と「渇望」
があることを突きつけられていた。
すみれの打鍵が、最後の一音を空間に刻みつける。
それは、誰も知らないままでいい、
私だけが知っている私の誇りだという、
激しい宣言のようだった。
会場が総立ちとなった。『アンコール』『アンコール』
「どうしよう」
円台まで進んだピアノの掃除のおばちゃん、マイクを握った。
ソプラノ。佐々木良子さんと、その娘さんの由衣、
マイクを握っている。
由衣が言った。
「行くよ」
その声は軽いのに、逃げ道がなかった。
【Roland E-X50】
ドクターTのE-X50のイントロが、ふっと空気に滑り込む。
『いつでも夢を』
電子のリズムが淡々と刻まれる。
そこへ、バイオリニスト――高橋悠人が弓を乗せた。
弦が一筋、薄い光のように震えた。
機械の音と、生身の音。
重なっていくのに、すみれだけが置いていかれる。
(……分からない)
夢。未来。
綺麗な言葉は、まだ胸に入ってこない。
そのとき。
加藤が無言で近づき、譜面台に一枚の楽譜を差し入れた。
紙の擦れる音が、妙に大きい。
タイトル。
『いつでも夢を』
加藤は目も合わせずに言った。
「いいよ。適当で」
その声は優しいわけでも、突き放すわけでもない。
ただ、業務連絡みたいに平らだった。
すみれの指先が震える。
鍵盤に触れる前から、身体が怖さを覚えている。
由衣が隣で、小さく言う。
「行くよ」
励ましというより合図だった。
立ち止まらせないための短い言葉。
すみれはふと思う。
母の声はいつも止める声だった。
「危ないから」「現実を見なさい」
守るために言っているのに、音を閉じる声。
由衣は違う。
軽い。雑なくらい軽い。
でもその軽さが、今の自分には必要だった。
そして加藤は、その間にいる。
冷たいようで、突き放さない。
優しいようで、逃がさない。
工場長の肩書きを持ったまま、
羊羹の話をして、
スタインウェイを湿度五十%で管理して、
「適当でいい」と言う。
矛盾しているのに妙に現実的だ。
すみれは鍵盤を見る。
世界三位だった指。
神山に切られて、
アパートに押し込まれて、
もう何も残っていないと思っていた指。
でも指はまだここにある。
震えながら、生きている。
由衣がもう一度だけ囁く。
「行くよ」
すみれは小さく頷いた。
最初の音は、思ったより弱かった。
でも音は出た。
それだけで胸の奥が少しほどける。
加藤は何も言わない。
拍手もしない。
ただ、そこにいる。
それが不思議だった。
誰かに褒められるためじゃない。
誰かに救われるためでもない。
ただ、自分が音を出す。
それだけのことが、
今夜は途方もなく難しくて、
途方もなく大事だった。
すみれはもう一度息を吸った。
適当でいい。
でも、適当では終われない。
世界は相変わらずでたらめで、
生活は狭くて、
未来はまだ見えない。
それでも音だけが、
ほんの少し先へ進んでいく。
由衣の「行くよ」が背中に残り、
加藤の無表情が逃げ道を塞ぎ、
すみれは鍵盤の上で、
もう一度だけ生きる側に戻ろうとしていた。
終わった。
最後の音が消える。
一拍。
そして――拍手が爆発した。
総立ちだった。
すみれは鍵盤の前で固まったまま、息ができない。
最前列で、神栖市長がゆっくり立ち上がる。
票を背負う男の立ち方だった。
隣で加藤も立つ。
工場長。常務。
この街の現実そのもの。
さらに奥、来賓席。
日本機工の会長が、静かに立った。
そして――
会長は、拍手をした。
一度。二度。
ゆっくりと、確実に。
その拍手は熱狂ではない。
承認だった。
「価値がある」
そう言っているみたいに。
会長の手が鳴るたび、
会場の拍手がさらに揃っていく。
音楽の喝采が、
資本の合図に変わっていく。
すみれは眩暈がした。
祝福なのに、契約書みたいだった。
加藤は拍手をしない。
ただ真顔で立っている。
それがいちばん怖くて、いちばん救いだった。
万羊羹の重み
終演後。控え室には、一本1万円、
常陸限定の**『万羊羹 常陸』**が山積みになっていた。
「すみれさん、最高の演奏。
った
これが約束の10万円、そして市長からの5万円。
それと、この羊羹百棹です」
加藤が深々と頭を下げる。そこへ、あおいが現れた。
「相変わらず、無駄にプライドの高い音ね、すみれ。
鹿嶋港で命を救った程度のことで、
あんたのこの音を分かったつもりでいる内気な男には、
一生かかっても届かない音よ」
あおいは成瀬を顎で使い、ベンツのドアを開けさせた。
去り際、振り返ったその瞳には、
隠しきれない敬意が宿っていた。
すみれは、ずっしりと重い万羊羹の袋を抱え直し、
鹿嶋の冷たい海風を吸い込んだ。
彼の顔から血の気が引いていくのが分かった。
その瞳の奥に、つい3か月前の、
あの鹿島の海が蘇っているのが見えた。
---
あの夜、すみれはすべてを終わらせるつもりで、
蒼海の桟橋の先端に足を踏み入れた。
冷たさすら感じないほど麻痺した心。
死を待つすみれ腕を、
暴力的なまでの力で掴み、引き上げたのが柿沼だった。
「死なせねえよ」
高松緑地公園でトイレの限界、
芝生にリスのようにうずくまった
女、コンビニで倒れて、救急搬送した柿沼。
無機質なライトの下で、
震えが止まらない私を、彼は叱咤するように処置した。
退院後、潮来の古いホテルで過ごした一夜。
窓の外には利根川の湿った風が吹き、
部屋の中は沈黙だけが支配していた。
「ぼくは患者とは、できない。プライドが許さない」
しかし、すみれは、彼が拒めないことを知っていて縋りついた。
救急医としての使命感と、
男としての情欲が混ざり合う、歪な抱擁。ゴムもつけず、
互いの体温だけを貪り合ったあの時間は、
私にとって唯一の「生」の証明だった。
それ以来の再会だ。
しかも2度目の再会、日は熟していない。
すみれは、鍵盤の上で激しくのたうち回る。
(ねえ、先生。あの日、あなたは私に『生きろ』と言った。
だから私は生きているわ。あなたの嘘と、私の執着を育てるために)
15万円の現金と、1万円の羊羹。
それは、あおいの檻を拒絶し、
自分の足で再び「ソロ」を歩み始めたすみれへの、
最高の戦勝品だった。
あおいと成瀬が運転するベンツの灯りが、
鹿嶋の夜闇に溶けて消えた。
すみれは、
加藤常務が手配してくれた老舗ホテルの
スイートルームに戻った。
テーブルには、1棹1万円の**「万羊羹 常陸」
**が静かに鎮座している。
**【柿沼にLINEE】**
すれれは、柿沼にLINEを入れた。
> **「柿沼さん、起きてる」
> **「死んでは、いません」
> **「柿沼さん。明日、あのラーメン屋で。
一棹一万円の羊羹、
デザートに切り分けましょう」**
返信はすぐだった。
> **「はい。煮干しの出汁を、最高に効かせて待っています。
サッカレー先生に、乾杯しましょう」**
**【あおいからのLINE】**
> 「日本機工加藤、合格。
> 特に3番。シドニー・ポワチエを引っ張ってくるあたり、
あんたの『金欠』を哀れみじゃなく『気高さ』
に変換しようとしてるわね。
> 4番で、あんたに群がってくる
ハイエナたちの頭を空っぽにさせてやりなさい。
> 3,500円の女が、1,000万の男たちを躍らせるのよ。
> 最高の皮肉じゃない。
> ――泥水の味を、シャンパンに変えてきなさい」
>なんなんたよ、この皮肉?
>あおい、たすけて、柿沼のこと
すみれはあおいに電話した。
「柿沼の口説き方が分からない」
あおいの返事は冷静だった。
「口説くな。弱ってるときの告白は“責任”になる」
「じゃあどうするの?」
「頼め。“恋人になって”じゃなくて、
“明日も会っていい?”」
「それだけ?」
「それだけが一番強い。救われたいじゃなく、
一緒にいたいにする」
さらにあおいは言う。
「質問するな。宣言しろ。“行きます”
って先生の世界に乗り込め
最後に」
「すみれ。あんたは値札じゃない。生きてる顔を見せろ」
すみれはスマホを握りしめた。
明日も会っていい?
それなら言える気がした。
スマホを閉じたすみれの指先は、もう震えていなかった。
あおいの冷徹な激励と、加藤紘一が
用意した血の通ったセットリスト。
二人の「現実主義者」に支えられ、
すみれは今、本当の意味で独り立ちしようとした。
すみれは、スマホを握りしめたままベッドに倒れ込んだ。
今の彼女にとっては、
家賃一ヶ月分はきつい金額、これで行きついた。
次の数週間の食い繋ぎを約束する、震えるほど大きな金額だ。
しかも「会長と常務の折半」。
それは、日本機工という巨大組織の予算ではなく、
日本機工の加藤たちが
「一人のピアニスト」としてのすみれに惚れ込み、
自腹を切ってまで彼女の指先を求めているという証だった。
深夜の電話と、煮干しの約束




