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34章:既読、そして破格の「個人契約」

送信ボタンを押した直後だった。


画面の隅に**「既読」**の二文字が灯る。


大企業の常務という多忙な身でありながら、

加藤はすみれからの返信を待っていたかのような即応ぶりだった。


数秒後、画面が震える。

加藤からの返信は、ビジネスライクでありながら、


どこか「ひいきのソリスト」への熱い想いが滲んでいた。


【LINEE:日本機工常務・加藤】


「即答ありがとうございますけ

その潔さ、やはりあなたは私が認めたソリストです。


条件を提示させていただきます。


演奏料:10万円


交通費:全額別途支給


宿泊:ホテルをご用意します(前日入り可)


実は今回の謝礼、会社の経費ではなく、


弊社の**会長と私で折半(個人負担)**して用意しました。

子供たちに『本物の音』を聴かせるための、

私たちからの個人的な投資です。


すみれさん。あなたの音には、

それだけの価値がある。当日、楽しみにしています」




作戦会議:湿った6畳一間で



あおいが電話してきた。


「いま浅草、これからアパート行くよ」

あおいはすぐにやってきた。



「 ここ、人間の住むところなの?」


あおいは狭い玄関でサンダルを脱ぎ捨てると、

部屋を見渡して顔をしかめた。


6畳の空間には、場所を占領する古い電子ピアノと、

寝るためだけの布団。床には楽譜が散乱し、

コンビニの袋が力なく転がっている。


「……悪い?」

スミレは窓を開けた。


湿った夜風が入り込み、吊るされた洗濯物が幽霊のように揺れる。


「悪くはないけど、あんたがここにいるってだけで、

なんか……安っぽい悲劇のヒロインに見えるわよ。


柿沼先生がここを見たら、それこそ腰を抜かすわね。

あの人、鹿島の立派な家に住んでるんでしょう?」


「あのひと、病院の寮なの」


あおいは唯一の椅子であるピアノの丸椅子に座り、脚を組んだ。


「だからこそよ。先生をここに呼ぶの」

スミレは台所の狭いシンクで、マグカップを洗った。


「あの人は完璧なものが嫌いなの。


手術室みたいに清潔な場所で生きてるから、こういう、ボロボロで、

救いようのない場所に惹かれるんだと思う」


「なるほどね……『ボロボロにされたい』んじゃなくて、

『ボロボロの私を見せて、彼を泥沼に引きずり込む』わけか。

あんた、意外と策士ね」


あおいは満足げに目を細め、バックから真っ赤な口紅を取り出した。


「いい、スミレ。作戦名は『聖母のふりをした生贄』よ。


柿沼には、

自分がこの惨めな部屋からあんたを救い出せる

ヒーローだと思い込ませなさい。

男はね、女を救ってるつもりで、

自分のプライドを満たしたいだけなんだから。

でも、本当の鍵はこれよ」



あおいは鏡を見ずに唇を塗りつぶした。


「あんたが彼を口説くんじゃない。

彼に『俺がいないと、この女は明日には死んでしまう』

と確信させるの。


スミレはピアノの鍵盤にそっと触れた。音は出さない。


この狭い部屋に、あの冷徹な外科医が入り込む瞬間を想像すると、

背筋に冷たい震えが走った。



ラインの通知音がした。


【LINE:日本機工常務・加藤】

「すみれさん、追記です。


当日の来賓・関係者へのお土産として、虎屋の**『夜の梅(万羊羹)』**を10さお用意しました。

もちろん、あなたの分も別に確保してあります。

鹿嶋の潮風に、最高級の小豆の甘みは格別ですよ。


また、例の神栖市長ですが、挨拶代の5万円に加え、

『地元の名士として手ぶらでは行けない』と、

最高級の地酒と地元銘菓の詰め合わせをお土産付きで持参します。


10万円(会長・私折半)+5万円(市長挨拶代)+万羊羹。

これが、今の我々があなたというソリストに用意できる最大限の

『舞台』です」


「あおい、これ見て」

「日本機工の加藤さんからなの」

「羊羹おじさん」


あおいは、スミレの差し出したスマートフォンの画面を覗き込むと、

鼻で笑うように吐息を漏らした。


「羊羹おじさん、ね……。でもスミレ、

笑い事じゃないわよ。

これ、相当な重圧プレッシャーじゃない」


あおいは、狭い6畳間の壁に立てかけられた、

ひび割れた姿見の前で髪を整えながら続けた。


「日本機工の加藤。あの人、古いタイプのタニマチ気取りだけど、

やることは計算高いわ。

神栖市長まで担ぎ出して、地元の名士を集めて……。


お土産に虎屋の『夜の梅』を選ぶあたりが、

いかにも年配者へのウケを狙ってる感じ。


でも、ソリストのあんたにわざわざその内訳

——誰がいくら出したかまで

伝えてくるのは、

『これだけの舞台を整えてやったんだから、相応の働きをしろ』

っていう無言の脅しよ」


あおいは振り返り、スミレの顔をじっと見つめた。


「最高級の小豆の甘みが格別? 潮風に当たる前に、

その甘みで窒息しそう。あんたの分まで確保してあるなんて、

逃げ道を塞いでるだけじゃない。で、

この『舞台』に、柿沼先生も招待されてるの?」


スミレは、加藤からのメールを表示したままの画面を握りしめた。


「分からない」


6畳のアパートに漂う湿った空気と、

メールから透けて見える豪華な「お土産」や

「寄付金」の生々しい数字。そのギャップが、

スミレをさらに追い詰めていく。


「……先生は、来ると思う。

加藤さんが、鹿島の医療関係者にも声をかけてるって言ってたから」


「ふん……。じゃあ、ちょうどいいじゃない。

最高の舞台が整ったわ」


あおいはスミレの肩を強く叩いた。


「市長も、羊羹おじさんも、

加藤のメンツも、全部利用しなさい。

その豪華な『舞台』の上で、

あんたが一番ボロボロで、危うい演奏をしてみせるのよ。


客席に座る柿沼先生の心臓を、虎屋の羊羹よりも深く、

重く、抉り取ってやりなさい」


「あおいも来て」

「成瀬のベンツで行くよ」



この内容をあおいに送ると、しばらくの沈黙のあと、

短いメッセージが返ってきた。


加藤がすみれの「再起」のために選んだ5曲には、

婚活市場の冷徹な数字を打ち砕く、

泥臭くも切実な意図が込められている。


---

加藤りLINE 以下の通り、よろしくお願いします。


1. 花は咲く


**【意味:再生と執念】**

震災復興のシンボルであるこの曲を、「綺麗事」としてではなく、**「瓦礫(絶望)の中から芽吹く力」**としてリクエストしました。

過去に全てを破壊されたすみれさんが、

泥の中から再び立ち上がるためのもの。


2. Sogno ー夢ー(トスティ)


**【意味:絶望との決別】**

イタリア歌曲の傑作であり、去った恋人への未練と、


それでも消えない残酷なまでの愛の記憶を歌った曲です。

今の剥き出しの現実」**を直視させるための、

激しい感情の浄化を促す一曲です。


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