33章:アパートの切ない現実
最高級ホテルのスタインウェイで、
数百人のエリートを沈黙させた「ソリスト」
としての残響は、駅から徒歩15分、30年の
アパートの階段を上る音にかき消された。
すみれがドアを開けると、
そこには冷え切った生活の臭いが充満していた。
六畳一間の狭い部屋。
リッツ・カールトン、4ヘクタールもある緑地や美術館併設、
プール付きの有明のマンションで味わった贅の限りが、
いまさら身に染みる。
あれは生活ではなく、展示だった。
家庭の居場所にはならない。
そこには欠乏がなかった。
だから救いもなかった。
一方で。
柿沼の部屋には納豆しかないと言った。
笑い話みたいに、猫になりたいといった馬鹿な女。
情けない現実みたいに。
でも、あの夜。
エタノールの匂いと、
救急の蛍光灯の下で。
残念でした。契約は昨夜のあの『RAMの書き換え』で成立済み。
いまさら消費者センターに泣きついたって、もう遅いから」
すみれがいたずらっぽく笑って店員を呼ぶ。
パブロフの条件のこと、潮来のうな重、抱かれた余韻、
中央には、生活スペースを侵食するように電子ピアノが鎮座している。
その鍵盤の上には、佐藤から届いた
**「今日は本当にお疲れ様。式には出られなかったけど、
明日のバスツアーの予約はバッチリだよ!」**という、
無邪気で残酷なメッセージが光るスマホが置かれていた。
すみれは、あおいに買い与えられた
最高級のパーティードレスを脱ぎ捨て、
毛玉のついたスウェットに着替えた。
鏡に映るのは、
数時間前にスポットライトを浴びていた高潔な芸術家ではなく、
家賃6万円に追われる「しがないピアノ講師」の姿だった。
部屋の隅にある電子ピアノの鍵盤に触れる。
プラスチックが立てる「カチカチ」という無機質な打鍵音。
あおいの結婚式で触れた、
あの魂が震えるようなスタインウェイの振動はここにはない。
「……あおいの言う通りだわ」
『あおいの冷酷な言葉が、薄い壁に反響する。
すみれのプライドは、佐藤みたいな男には重すぎる。
あんたのソリストとしての女が、
そんな生活に耐えられるはずがない』*
佐藤は優しい。
450万の年収をやりくりし、自分を大切にしてくれる。
この450万かどうかもわからない。
税金をひかれたとしても30万の手取りだと思える。
賃を8万〜9万円程度に抑えれば、
趣味や貯金に月5万円以上回せるゆとりある生活だと思えた。
あの佐藤のことだから、貯金に回しているのだ思う。
けれど、彼が一生をかけて差し出す
「4,980円のバスツアー」という幸せは、
すみれがステージで一音を放つために切り捨ててきた孤独や、
研ぎ澄まされたプライドとは、決して交わることがない。
佐藤からのLINEが再び震える。
*『すみれさん、僕、決めたんだ。明日の旅行で、
ちゃんと言いたいことがあるんだ』**
プロポーズの前触れ。
それは本来、幸せの絶頂であるはずの言葉だった。
しかし、今のすみれには、自分の才能を「安らぎ」
という名の墓場へ埋めるための宣告にしか聞こえなかった。
すみれは、
佐藤から贈られた安物のヘアアクセサリーを鏡の前で手に取り、
静かに机に置いた。
「ごめんなさい、
佐藤さん。私は、あなたの優しさで自分の音を殺すことはできない」
佐藤はここにはいない。
彼は明日、プロポーズを断られることも知らずに、
安物の指輪を握りしめて眠っているだろう。
**『あおい。私、プロポーズは受けない。
この部屋には、私の音楽を置く場所がないわ』**
数秒後、あおいから既読がついた。
**『正解よ。
でも、あんたはそのボロアパートに留まりなさい。
そこから這い上がるための屈辱を、毎日噛み締めなさい。』**
一行、空く。
**『臥薪嘗胆』**
さらに数秒。
**『あんたのプライドは、私が監視し続けてあげる。
佐藤のぬるま湯に浸かるくらいなら、その冷たい部屋で、
また一から牙を研ぐのよ』**
『鹿島の残響』
「あおい、お願いだから、助けて。柿沼を忘れられないの」
湿り気を帯びた声が、アパートの静寂をかき乱す。
受話器を握る指先は、あの日、
鹿島の冷たい海風の中で掴まれた時と同じように震えていた。
「……鹿島の外科医のこと?」
電話の向こうで、あおいが低く、呆れたような声を出す。
その温度の低さに、私は心臓を素手で触られたような気がした。
「自殺を救ってくれた先生だよ。あの人がいなかったら、
私は今、あそこの海で行方不明になってた」
「救ってくれた、ね」
あおいの鼻で笑う気配が伝わってくる。次の瞬間、
彼女は私の逃げ場を塞ぐように、その一線を踏み越えてきた。
「そのお礼に、生でやった男だろ」
心臓が跳ねた。視界がちりちりと燃える。
あの日、消毒液の匂いが染み付いた診察室の奥で、
あるいは彼が借りていた波音だけが聞こえるアパートの一室で、
死の縁から引き戻された高揚感と、絶望的な孤独が混ざり合い、
私たちは互いの皮膚を貪り合った。
「……そう、好きだから忘れなれない、あおいも助けてよ」
「情けないすみれ、よし、作戦開始するか」
私は否定できなかった。否定すれば、彼との繋がりが本当に
「ただの医療行為」に成り下がってしまう気がしたから。
「先生は、私のなかに何かを置いていったの。
それは精子とか、そんな単純なものじゃない。
私が生きているっていう、呪いみたいなものだよ」
「それを世間じゃ、執着って呼ぶんだよ」
「何でもいいよ」
「すみれ、乾坤一擲
運命……まさにその通りね。でも、すみれ。
嘘で塗り固めた勝負に勝ったとして、
その後に手に入るのは、
愛じゃなくて『義務』という名の檻だよ。
彼は外科医として、あんたを守るんじゃなく、
自分の過ちを隠そうとするだけかもしれない」「す
勝負だよ」
「それでもいい! 無関心より、軽蔑される方がマシ。
彼の中に私の存在を、消えない傷跡みたいに刻み込んでやるの」
私は鏡に向き直り、紅を引いた。
「鹿島に行くわ。あの日、
先生が私を拾い上げたあの場所で、今度は私が先生を捕まえる。
運命を賭けた勝負、受けて立つのは柿沼の方よ」
あおいの冷酷なまでの正論が、私の耳を刺す。
結末:3千円の先の「選択」
翌朝、すみれは加藤から送られてきたソプラノ伴奏用の譜面を開た。
六畳一間の切ない現実。誰もいない、静まり返った部屋。
しかし、プラスチックの電子ピアノを叩くすみれの指先には、
かつてないほどの熱が宿っていた。
大学自体の友達は、あおいを含めて、伴侶を得ていた。
とうとう最後の独身者となってしまった。
そのときだった。
通知音
【LINE:日本機工常務・加藤】
「すみれさん、加藤です。ご無沙汰しております。
あの鹿嶋工場の創立記念日で、あなたが『ピアノと向き合う時間は、自分を研ぎ澄ます儀式だ』
と仰った言葉が、今も。私の支えになっています。
来月、弊社『株式会社日本機工』の子供音楽会を執り行うのですが、そこで演奏をお願いできないでしょうか。
ソプラノ歌手の親子とバイオリニストは確保したのですが、
ピアノだけは、どうしても本物の『ソリスト』
であるあなたに頼みたいと思い、連絡しました。
誠にながら、参加のほど、よろしくお願いします」
佐藤との別れを選び、
築30年のアパートで独りピアノに向かうすみれのもとに、
一通のLINEだった。
送り主は、かつてすみれがソリストとしての地歩を固め始めた頃、
彼女の才能をいち早く見抜き、
コンサートのS席に座る男、羊羹おじさん。
**鹿嶋工場の創立記念式典**での演奏を依頼した男、加藤だった。
彼の正体は物流システム(マテハン)
で世界シェア首位を誇る巨大企業、
**「株式会社日本機工」の常務取締役**という、真の実力者だった。
すみれは、冷え切った部屋でスマホの画面を凝視した。
指先が震える。あおいに教え込まれた「ソリストのプライド」が、
反射的に言葉を選ばせる。
すみれは打ち込んだ。
---
> **「加藤様、お久しぶりです。大変光栄なお誘いですが、
現在リサイタルの準備等で立て込んでおりまして……」**
書きかけて、止めた。
部屋を見渡す。誰もいない空虚な空間。
鳴らない電子ピアノ。
湿った壁。
見栄を張る相手もいない。
守るべき「偽りのスケジュール」もない。
彼女はそれをすべて、消去した。
次に、弱気が指を動かす。
> **「今の私には、
子供たちの前で弾くような明るい心境になれず、
ご期待に沿うことができません……」**
打ち終えて、また溜息をつく。
これでは逃げだ。
加藤が求めているのは、状況ではない。
感情でもない。
彼が買いたいのは、音だ。
これもすべて、消去した。
すみれは深く息を吐く。
鎧を脱いだあとに残るのは、
生活だけだった。
剥き出しの現実だけを、画面に叩きつける。
> **「金欠、やります」**
送信。
それは依頼ではなく、降伏だった。
送信ボタンを押した直後だった。
画面の隅に**「既読」**の二文字が灯る。
大企業の常務という多忙な身でありながら、
加藤はすみれからの返信を待っていたかのような即応ぶりだった。
数秒後、画面が震える。
加藤からの返信は、ビジネスライクでありながら、
どこか「ひいきのソリスト」への熱い想いが滲んでいた。
【LINEE:日本機工常務・加藤】
「即答ありがとうございますけ
その潔さ、やはりあなたは私が認めたソリストです。
条件を提示させていただきます。
演奏料:10万円
交通費:全額別途支給
宿泊:ホテルをご用意します(前日入り可)
実は今回の謝礼、会社の経費ではなく、
弊社の**会長と私で折半(個人負担)**して用意しました。
子供たちに『本物の音』を聴かせるための、私たちからの個人的な投資です。
すみれさん。あなたの音には、それだけの価値がある。当日、楽しみにしています」




