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32章:飼い慣らされた支配


―― 蜜の味をした手綱


聖域の共犯者


「幸助さん、お義母様には私から

『修正済み』のプロジェクト報告を渡しておいたわ。

あなたが先月、少しだけ数字を読み違えた件……あれは私のミスとして処理してあるから」


あおいは、カメラに向けた微笑みを一ミリも崩さず、

腹話術のように囁いた。


成瀬の肩が、びくりと跳ねる。

彼は、母親である志乃に「不完全な自分」

を見せることが何よりも恐ろしいのだ。


「あ、あおい……ありがとう。助かったよ。母さんに知られたら、何を言われるか……」


「いいのよ。私はあなたの味方だもの。

お義母様の前では、

あなたは常に『完璧な成瀬家の跡継ぎ』でいなければならない。

そのための汚れ仕事も、数字の帳尻合わせも、


全部私が引き受けるわ」


あおいは、テーブルの下で成瀬の震える手を、

優しく、しかし逃げられない強さで握りしめた。


母親システムのハッキング


あおいは、成瀬家に入ると決めた瞬間から、

このマザコンの夫を「愛する」ことを捨て、「


管理する」ことを選んでいた。

志乃という絶対的な支配者に怯える成瀬にとって、


あおいは唯一の**「自分を叱らない、都合のいい隠れみの」**

としての地位を確立したのだ。


「これからは、お義母様への報告はすべて私を通しましょう。

あなたが怒鳴られる必要なんてないの。


私たちが裏でうまくやっていれば、

お義母様だって満足するわ。

ねえ、幸助さん。私がいれば、あなたは自由になれるのよ」


「自由……。ああ、そうだね。あおい、

君がいてくれて本当に良かった」


成瀬の瞳に、盲目的な依存の光が宿る。

彼はまだ気づいていない。

志乃という看守から解放される代わりに、あおいという**


「より精緻で、より甘美な看守」**に、

自分の人生の鍵を差し出したことに。


先物取引の「完成」


あおいは、

会場の隅で冷めた目で自分を見ている志乃と視線を合わせた。

志乃は「息子を支配下に置いた」と信じている。


だが、実際には、成瀬という資産の運用権は、

すでにステルスマーケティングのようにあおいの手に移っている。


「遠慮はいらないわ、幸助さん。なんでも私に相談して。

あなたの『弱さ』は、私が全部隠してあげる」


一拍。


「その代わり――私の言うことだけは、信じてね?」


「……もちろんだよ、あおい」


成瀬は、あおいに握られた手首に安心感を覚え、

去勢された子犬のような顔で頷いた。


あおいは、勝利を確信してシャンパンを口に含んだ。

成瀬を丸め込む。それは、


成瀬家という巨大な牙城を内側から食い破り、

自分の居場所を絶対的なものにするための、

もっとも効率的な投資だった。


市場は残酷だが、弱さを知る者にとっては、

これほど扱いやすいお狩場フィールドはない。


あおいは、黄金の檻の中で、

自らが新しい飼いオーナー

になるための「成約」を、完璧なキスで締めくくった。


---




:黄金の檻の主


大安の午後の陽光が、会員制ラウンジの厚いカーテンの隙間から、ナイフのように鋭く差し込んでいた。


「ささやかな披露宴」とあおいは言った。招待客は、成瀬の母親・志乃と、置物のような父親、そして「あおいの友人」として、たった一人呼ばれたすみれだけ。


そこは、祝祭の場というよりは、新しい部品の性能を最終確認する「検品室」のような静寂に包まれていた。


---


 鎮魂のプレリュード ―― 黄金の檻の調べ


 装飾品としての友人


「すみれ、お願い。一曲、弾いて」


あおいは、成瀬の隣に座り、完璧な角度で微笑みながら言った。

彼女の着ているシルクのワンピースは、

派手さはないが、


一目で「一千二百万以上の世界」の住人であることを証明する、

暴力的なまでに上質なものだ。



志乃の冷徹な視線が、すみれを射抜く。

「幸助(成瀬)が、

あなたの友人は素晴らしいピアニストだと自慢しておりました。

成瀬家の門出に相応しい、格調高い音色を期待していますよ」


すみれは、胸の奥がチリりと焼けるのを感じた。

あおいは、自分を「友人」としてではなく、

志乃に自分の人脈の質を誇示するための

「最高級の装飾品」として、この場所に立たせたのだ。


鍵盤に宿る絶望


すみれは、部屋の隅にあるスタインウェイに向かった。

指先が冷たい。



選んだ曲は、チャイコフスキーの『四季』から「舟歌」。

哀愁を帯びた旋律が、無機質なラウンジに流れ出す。


ピアノの音色は、あおいの手に入れた「天国」の静寂を、

残酷なまでに浮き彫りにした。


* **高砂の風景:** あおいは成瀬の腕に手を添え、


時折、志乃の顔色を窺いながら、

甘い言葉を夫の耳元に注いでいる。


* **去勢された男:**


成瀬は、あおいに手綱を握られていることに気づかず、

母親の支配から逃れられたという錯覚の中で、


安堵とした表情を浮かべている。


すみれは、鍵盤を叩きながら泣きたくなった。

かつて同じ音大の狭い練習室で、

泥臭いプライドをぶつけ合ったあおいは、もういない。


ここにいるのは、自分の人生を「最高値」で売り抜き、

その地獄の管理職に就任した、見知らぬ支配者だ。


  残響と、四百万の余韻


曲が終わると、志乃が微かに顎を引いた。

「……及第点ね。成瀬家の空気に馴染む、

控えめで良い演奏だったわ」


あおいは満足げに頷き、成瀬の手をさらに強く握った。


「ありがとう、すみれ。あなたのピアノ、

大好きよ。……これからも、私の『生活の彩り』として、

たまに呼び出していいかしら?」


あおいの言葉には、悪意さえなかった。

彼女は、すべてを記号化し、

価格をつけて管理する「上位二パーセント」の論理を、

完全に内面化していた。


すみれは、震える手でピアノの蓋を閉めた。

ポケットの中では、

加藤から「帰り、雨になりそうだから迎えに行こうか?」

というメッセージが、微かな振動を伝えていた。


「……おめでとう、あおい。本当におめでとう」


すみれの言葉は、豪華な絨毯に吸い込まれ、

誰の耳にも届かなかった。


九月十日、大安。

あおいは黄金の檻の鍵を内側から締め、

すみれは雨の匂いがする地上の「リアル」へと、

独り、階段を降りていった。





「最高の演奏だったわ、すみれ。でも、

佐藤さんは外で待ってるんでしょう?


4980円のバスツアーの思い出に浸りながら。


……あんた、今日ここで弾いて、

自分の居場所がどこなのか、本当は気づいたんじゃない?」


すみれは、火照った指先を見つめながら静かに答えた。


「あおいの言う通りよ。

今日、ここで弾いて……自分のプライドが、

安っぽい生活の中でどれだけ悲鳴を上げていたか、

分かってしまったわ」


あおいは、

成瀬のスマホから届いた母親からの着信履歴を無表情で削除し、


すみれに向き直った。


「決別なんてしないわよ。

あんたが世界の舞台に立つ時、私は一番前の席で座ってる。

あんたは私の誇りで、

私はあんたのスポンサーにはなれないけど、心の

スポンサーにはなれる。

……始まった私たちの人生、どこまで高く飛べるか見ものじゃない?」


二人は、鏡越しに視線を交わした。


あおいの手の中には、世界を支配するためのブラックカードが、

月光を反射して冷たく光っていた。


支配者としての1200万への完全勝利。

あおいは、自分を安売りした男たちの怨念を足蹴にするように、

新しい生活へと踏み出した。












最高級ホテルのスタインウェイで、数百人のエリートを沈黙させた「ソリスト」

としての残響は、駅から徒歩15分、30年のアパートの階段を上る音にかき消された。


すみれがドアを開けると、そこには冷え切った生活の臭いが充満していた。

六畳一間の狭い部屋。




リッツ・カールトン、4ヘクタールもある緑地や美術館併設、

プール付きの有明のマンションで味わった贅の限りが、

いまさら身に染みる。

あれは生活ではなく、展示だった。


家庭の居場所にはならない。


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