31章 支配者の眼差し
あおいが手に入れた「エグジット」の正体は、
白馬に乗った王子様なんかじゃなかった。
それは、徹底的に管理された「成瀬家」
という名の巨大なシステムへの組み込みだった。
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血脈の査定 ―― 成瀬家の沈黙と支配
1. 支配者の眼差し
「……あおいさん。その姿勢、少しだけ右に傾いているわよ」
成瀬の母親――成瀬家の「女帝」である志乃は、
ティーカップを置く音すら立てずに言い放った。
場所は、一般人が入り込めない広尾のプライベートサロン。
あおいは、成瀬と交わした婚前契約書の重みを感じながら、
志乃の冷徹な検品に耐えていた。
志乃の瞳には、
あおいの知性や美貌への敬意など一ミリもなかった。
そこにあるのは、息子の隣に置く
「次世代の母体」としての適合性チェックだけだ。
「申し訳ありません、お義母様」
あおいが完璧な角度で頭を下げると、隣に座る成瀬が、
あおいの顔色を窺うのではなく、
**母親の顔色を病的なほどに注視した。**
「母さん、あおいは飲み込みが早いんだ。
僕が選んだんだから、間違いないよ」
成瀬の声は、財務省で国家の予算を動かす自信家のそれではない。
母親の機嫌を損ねることを何よりも恐れる、
**去勢された少年の響き**だった。
2. 透明な亭主
部屋の隅、影のような存在感で座っているのが、
成瀬の父親だった。
かつてはエリート官僚だったというその男は、
今や志乃の視線一つで、
自分の存在を消す術を完璧に身につけている。
「……あなた、お茶が冷めているわよ」
志乃が短く言うと、父親はびくりと肩を揺らし、
無言でカップを差し出した。
謝ることも、不満を言うこともない。
ただ、命令に従うだけのオートマトン。
それが、成瀬家における「男」の成れの果てであり、
成瀬が将来辿るであろう、
あるいはすでに辿っている絶望の完成形だった。
3. M&Aの代償
あおいは、テーブルの下で自分の指先を強く握りしめた。
成瀬はマザコンだなのだ。
それも、無自覚で根の深い、治療不可能なレベルの。
「あおいさん、分かっているわね。
成瀬家の嫁になるということは、
あなたの『個』を捨てるということよ。
あなたのキャリアも、交友関係も、
すべては成瀬家の繁栄というポートフォリオの一部になるの」
志乃の宣告に、成瀬は「そうだね」と深く頷き、
母親に甘えるような視線を送った。
あおいは、昨夜すみれに言い放った「生活を買う」
という言葉を思い出した。
* **手に入れたもの:** 年収一千二百万以上の安定、
社会的地位、港区の夜景。
* **失ったもの:** 誰の顔色も窺わずに歩く自由、
そして対等な愛。
「……承知しております。すべては、成瀬家のために」
あおいは、死んだ魚のような目で、
母親に傅く成瀬の横顔を見つめた。
これが、二十七歳の冬に彼女が勝ち取った
「最高値のエグジット」の正体。
高級な檻の中で、志乃という看守に監視され、
マザコンの夫と共に、
透明な父親のように削り取られていく日々。
あおいは、自分自身の魂を、
成瀬家という巨大なシュレッダーに投げ込んだ。
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六畳間のアパートの郵便受けに、
それは不釣り合いな重厚さで押し込まれていた。
最高級のコットンペーパー。指先に伝わるエンボスの凹凸。
そして、成瀬家の家紋が刻印されたシーリングワックス。
あおいからの、最後にして最大の攻撃だった。
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黄金の招待状 ―― 檻の中から届く勝者の声
1. 郵便受けの異物
> **成瀬 幸助 ・ あおい 婚約披露宴のご案内**
> **場所:ザ・リッツ・カールトン東京 グランドボールルーム**
「……リッツ」
すみれは、その文字をなぞりながら、
昨夜有馬のマンションで見た夜景を思い出した。
あおいは、本当にやり遂げたのだ。
二十七歳のタイムリミット寸前で、一千二百万以上の世界、
その頂点に近い場所へのチケットをもぎ取った。
2. 志乃の影
招待状の裏面には、連名で「成瀬 志乃」の名が刻まれていた。
成瀬本人の名よりも大きく、そして誇らしげに。
あおいの文字ではない、完璧に整いすぎた筆耕。
それは、
あおいがもはや自分の意志で招待状一通すら出せない「成瀬家の所有物」になったことを、無言で証明していた。
あおいが「下克上」と呼んだ場所の正体。
それは、
マザコンの夫と、すべてを支配する姑、
そして感情を去勢された舅が待つ、
息の詰まるような「伝統」という名の檻だ。
招待状の隅に、あおいの直筆で一言だけ添えられていた。
> **『すみれ。これが、私の選んだ正解よ。見に来てね』**
その文字は、心なしか震えているようにも、
あるいは自らに言い聞かせているようにも見えた。
3. 六畳間の静寂
* **あおいの正解:** 二百メートルの上空で、
マザコンの夫の隣に座り、姑の顔色を窺いながら、
一生「格」を守り続ける生活。
* **すみれの現在:** 六畳間で、特売のチョコをかじりながら、
明日のピアノレッスンの月謝袋を数える生活。
あおいは、すみれを招待することで、自
分の選択が間違っていないことを確認しようとしている。
「あんたは負けたのよ」と、豪華絢爛な披露宴の光で、
すみれの貧しいリアルを焼き尽くそうとしている。
すみれは、加藤に返信しようとしていたスマホを置いた。
招待状の重みは、石のようにすみれの胃に沈んでいる。
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九月十日、大安。
黄金のスポットライトが降り注ぐリッツ・カールトンの高砂で、
あおいは完璧な花嫁を演じながら、
隣に座る成瀬の耳元で密やかに、
そして決定的な毒を注ぎ込んでいた。
---九月十日、大安。
そこに純白のドレスも、華やかな賛美歌もなかった。
あったのは、リッツ・カールトンの奥まった会員制ラウンジ。重厚なオーク材のテーブルを挟んで交わされる、無機質な「契約」の儀式だけだ。
あおいは言った。
「結婚式なんて、コストに見合わない投資だわ」
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納品、あるいは合併 ―― 九月十日の契約式
1. 儀式なき成約
「……これで、すべて完了ね」
あおいは、成瀬家の弁護士が差し出した数枚の書類に、
一点の迷いもなくサインを書き入れた。
九月十日、大安。
世間が「縁起」という名の幻想を祝う日に、
あおいは自分の人生という資産を成瀬家へと譲渡した。
「あおい、本当にいいのかい?
母さんは『式を挙げないのが成瀬家の奥ゆかしさだ』
って言っているけど……」
成瀬が、不安げにあおいの顔を覗き込む。
彼は、母親・志乃が決めた「式なし」という方針に、
一言の異議も唱えられなかった。
あおいは、そんな去勢された夫のネクタイを、まるで首輪を整えるかのような手つきで優しく締め直した。
「いいのよ、幸助さん。派手な式で世間に見せびらかすより、
こうして静かに『実』を取るほうが、私たちにはお似合いだわ」
2. 背後霊としての志乃
部屋の隅には、姑・志乃が静座していた。
彼女にとって、この契約こそが真の結婚だった。
嫁という名の「新しい部品」が、
成瀬家という巨大なシステムに正しく
組み込まれたことを確認する監査だ。
「……あおいさん。式を挙げない分、
その浮いた予算はすべて幸助の次のプロジェクトの担保
に回します。分かっているわね?」
「もちろんでございます、お義母様」
あおいは、完璧な角度で頭を下げた。
志乃は満足げに鼻を鳴らし、
影のような父親(亭主)を連れて部屋を出て行った。
そこには、夫婦の門出を祝う温かな空気など、
一欠片も残っていなかった。
3. 囁かれる「毒」
二人きりになった瞬間、あおいは成瀬の腕に、
しなやかに、しかし逃げられない強さで絡みついた。
「ねえ、幸助さん。お義母様には内緒で、
例の銀座のマンションの件、進めておいたわよ。
あなたの名義ではなく、私のダミー会社でね。
これでお義母様の顔色を窺わずに、
自由に使える『隠し部屋』が手に入ったわ」
成瀬の瞳が、救いを見つけた子供のように輝いた。
「……本当かい? あおい、君はなんて……」
「私はあなたの味方よ。
お義母様が何を言おうと、最後にあなたを守るのは私。
だから、これからは私にだけは、すべてを話してね」
成瀬は、あおいの胸に顔を埋めるようにして頷いた。
志乃という支配者から逃れるために、
彼はあおいという「より深く、より甘い檻」の中に、
自ら首を差し出したのだ。
4. すみれの目撃
ラウンジの入り口で、
あおいに呼ばれて立ち会ったすみれは、
その「取引」のすべてを黙って見ていた。
あおいが成瀬の耳元で何かを囁き、
成瀬が恍惚とした表情で従う姿。
そこには、
かつてのピアノ教室で切磋琢磨した友人の面影はなかった。
(あおいは、勝ったんだ……)
でも、その勝利の味は、昨夜食べたあのホッケの塩気よりも、
ずっとずっと苦く、金属のような味がした。
あおいは「天国」へのチケットを手に入れたのではない。
地獄の住人を丸め込み、
その地獄の「新しい支配者」になる道を選んだのだ。
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あおいは、成瀬の腕を引いて、
二百メートル上空のスイートルームへと消えていった。
すみれは、手に持っていた
「おめでとう」という言葉を飲み込み、
静かにエレベーターのボタンを押した。
下界に降りれば、そこには四百万の現実が待っている。
でも、今のすみれには、
その湿気た地上こそが、唯一呼吸のできる場所のように思えた。
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聖域の共犯者
「幸助さん、お義母様には私から
『修正済み』のプロジェクト報告を渡しておいたわ。
あなたが先月、少しだけ数字を読み違えた件……あれは私のミスとして処理してあるから」
あおいは、カメラに向けた微笑みを一ミリも崩さず、
腹話術のように囁いた。
成瀬の肩が、びくりと跳ねる。
彼は、母親である志乃に「不完全な自分」
を見せることが何よりも恐ろしいのだ。
「あ、あおい……ありがとう。助かったよ。母さんに知られたら、何を言われるか……」
「いいのよ。私はあなたの味方だもの。
お義母様の前では、
あなたは常に『完璧な成瀬家の跡継ぎ』でいなければならない。
そのための汚れ仕事も、数字の帳尻合わせも、
全部私が引き受けるわ」
あおいは、テーブルの下で成瀬の震える手を、
優しく、しかし逃げられない強さで握りしめた。




