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30章 対比の現実

「すみれ、帰るよ」


あおいは、すみれの手首を強い力で掴んだ。

重い扉の向こう側から漏れ出す熱狂を、背中で拒絶するように。


「……っ、ちょっと待ってよ。

なんでなの? せっかくここまで来たのに」


すみれの声は、

期待を裏切られた子供のように震えていた。

目の前には、天国への切符をぶら下げた「二パーセント」

の男たちがいたのだ。


「食べられるだけよ。ボロボロにされて、捨てられて終わり。

あんたみたいなうぶな女、

あいつらにとってはただの『安上がりの娯楽』でしかないの。

……わかるでしょ?」


あおいの瞳は、氷のように冷たく、

けれど確かな保護の意志を宿していた。


すみれは、掴まれた手首の痛みと、

あおいの声に込められた切実さに、ようやく熱を失った。


「……わかった」


地下の喧騒を抜け、地上へと這い上がる。

冷たい夜風が、火照った頬を容赦なく撫でた。


街灯に照らされた通りは、

もう「ハイスペック」な夢の跡などどこにもなかった。


視界に広がるのは、くたびれたスーツを着て、

家路を急ぐサラリーマンたちの群れ。


年収一千二百万の夢など見ず、

ただ今日という一日をやり過ごした、名前のない男たちの背中。


すみれは、自分のワンピースの裾を握りしめた。

さっきまで見ていた黄金色の泡は、

地下の結界に閉じ込められた幻だったのだ。


「……現実って、あんなに甘くないんだね」


「そう。甘い匂いのするところには、必ず毒があるの」


あおいは、前を向いたまま歩き続ける。


失望と、微かな安堵。

二人の影は、平凡な街灯の下で長く伸び、

足早に過ぎ去るサラリーマンたちの波に、

静かに飲み込まれていった。


---

地下鉄の階段を上り、地上に出た瞬間に襲ってきたのは、

華やかなイタリアンの匂いではなく、

排気ガスと湿った夜の空気だった。


あおいと別れ、一人で辿り着いた六畳間のアパート。

ドアを開けると、そこにはパーティー会場の眩い照明とは無縁の、

薄暗い静寂が横たわっていた。


---


四百万の安堵 ―― 記号にならない夜



すみれは、無理をして履いたヒールを玄関に脱ぎ捨てた。

ストッキングの爪先が少しだけ破れている。


パーティー会場では「A4ランク」

として自分を高く売ろうと背伸びをしていたが、

今の自分はただの、足のむくんだ二十七歳の女に過ぎなかった。


鏡に映る自分を見る。

あおいに直してもらったメイクが、

泣きそうになったせいで少しだけ崩れている。

一千二百万の男たち。


彼らの目は、確かにすみれを「検品」していた。


もしあおいが止めてくれなければ、

自分は今頃、あの洗練された檻の中で、

自分の価値をすり減らしていたかもしれない。



バッグの底で、スマホが短く震えた。

恐るおそる画面を開くと、

そこには加藤からのメッセージが残っていた。


> 『お疲れ様です。今日はホッケが安かったです。

> 明日、もしよければ……一緒に食べませんか。

> お店じゃなくて、うちで焼くだけなんですけど。』


それは、年収一千二百万の男たちが口にする「投資」や

「エグジット」といった言葉とは、


あまりにかけ離れた、生活の断片だった。

加藤の年収は四百万。

あおいの言う「バナナの叩き売り」のような、市場価値の低い男。


けれど、今のすみれにとって、

その「安っぽいホッケ」という言葉が、


どんな高級シャンパンの泡よりも、

切実に胃の奥へ染み渡っていくのを感じた。



すみれは、冷たい床に座り込み、加藤への返信を打ち始めた。

指先が少しだけ震えている。


(私は、あっちの世界には行けなかった)


あおいの言う「勝ち組」にはなれなかった。

一千二百万の男に選ばれるような「A5の脂」も、


自分を高く売り抜ける狡猾さも、自分にはなかった。


それは一つの絶望だった。

二十七歳というタイムリミットを前に、

自分という商品の「敗北」を認めること。


けれど、その絶望の底で、加藤の「四百万のリアル」が、

まるでお湯のように自分を包んでくれる。


ここでは数字で測られる必要はない。

ホッケの塩加減や、六畳間の湿気た空気や、


明日も七時に起きなければならないという、ありふれた義務。


「……行きたい」


声に出して呟くと、涙がこぼれた。

あおいに預けたはずの「プライド」は、

もうどこにあるのか分からない。


けれど、加藤の隣でホッケを突く自分なら、

少しだけ、自分を許してやれるような気がした。


翌朝、加藤との「ホッケの約束」に胸を弾ませるすみれの前に、

予告もなくあおいが現れました。


六畳間の薄暗い玄関先に立つあおいは、



昨夜のドレス姿とは打って変わった完璧なオフィススタイルで、

まるで破綻寸前の企業の監査役にでもなったかのような

冷徹な空気を纏っていました。







あおいは、すみれの部屋に入り込むなり、

鼻先を微かに動かした。


「……生活の匂いがするわね。安っぽい、湿気た生活の匂いが」


その視線は、テーブルの上に置かれたスマホに向けられていた。


画面には、加藤からの「ホッケの約束」が表示されたままだ。

あおいはそれを一瞥すると、心底軽蔑したような溜息をついた。


「すみれ、あんた、

本気であの『四百万の端数』とホッケを突くつもり?」


「……悪いことかな。

私は、あそこの高層階にいるより、ずっと息がしやすいの」


すみれが反論すると、あおいは無言で一歩詰め寄った。

その瞳には、かつてないほどの鋭い審判の光が宿っている。



「息がしやすい? それ、**『腐り始めてる』**っていうことよ」


あおいの声は、静かだが部屋の隅々まで響いた。


「加藤さんみたいな男は、

自分と同じレベルまで落ちてきたあんたを見て安心してるだけ。


二人で傷を舐め合って、六畳間の静寂に浸って、


それを『幸せ』って呼び変えてる。

でもね、現実は残酷よ。


そのホッケの塩分で喉を潤している間に、

あんたたちの『資産』は一分一秒ごとに目減りしていくの」


「……お金の話ばかりしないで」


「お金の話じゃない、生存の話をしてるのよ!

十年後を想像しなさい。

その男の年収は微増し、


あんたのピアノ教室は生徒が減り、

二十七歳だった瑞々しさは、


ただの『疲れた中年の女』の顔に変わる。体形も変わる。

その時、そのホッケはどんな味がする?

貧しさは、あらゆる愛を食い潰す猛毒よ」



あおいはバッグから、一通の封筒を取り出し、

テーブルに叩きつけた。


「これは、昨日の会場にいた外科医から。

あんたに興味があるって。

……これが、あんたに残された最後の『救命ボート』よ」


「……私は、ボートになんて乗りたくない」


「そう。なら、沈みなさい。

あの四百万の男と一緒に、泥の中に」


あおいは出口へと向かい、ドアノブに手をかけた。

背中越しに放たれた最後の言葉は、すみれの心臓に氷の楔を打ち込むような、非情な審判だった。


「あんたが今感じている『安らぎ』は、ただの**諦め**よ。

私は、出がらしになって捨てられるあんたを、

もう助けてあげられない。

……さよなら、すみれ。あんたのプライドは、

ここで返しておくわ。もう、

汚れる価値すらなくなったみたいだから」


バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった。

六畳間に残されたのは、テーブルの上の白い封筒と

、加藤から届いたままの温かいメッセージ。


そして、あおいに突き返された、

自分でも重さの分からない「プライド」の残骸だけだった。


---







査定の裏にある「正解」


外科医のカルテ ――


厚みのある招待状


封筒は驚くほど厚く、

上質な紙の質感が指先に伝わってきた。

中から出てきたのは、一枚の高級な名刺と、手書きの便箋。


『有馬総合病院 副院長 有馬 潔』


名刺に刻印された肩書きは、

加藤の年収をわずか数ヶ月で稼ぎ出す男の「証明」でした。

あおいの言う「十二兆の男」の一人。

嘘も虚飾もない、正真正銘の「正解」がそこにはありました。


便箋を開くと、几帳面な、

しかしどこか冷淡な筆跡でこう記されていました。


「昨夜はお話しできず残念でした。

あなたのピアノ、一度聴いてみたいと思っています。

私のマンションに

スタインウェイのフルコンサートグランドがあります。

もしよければ、今週末、食事を兼ねてお越しいただけませんか。

もちろん、プロとしての『演奏料』はお支払いします」


演奏料という名の「値付け」

「演奏料……」


すみれは、その言葉を唇の上で転がしました。

それは、純粋な音楽への称賛ではない。


有馬という男が、すみれの「ピアノ講師」という肩書きを、

自分の生活を彩るための「コンテンツ」

として買い叩こうとしている証拠だった。


あおいの言う通りです。

ここではすべてに値段がつく。


有馬は、すみれを「一人の女」としてではなく、

自分の豪華なリビングに相応しい「生きた装飾品」

として査定しているのだ。


けれど、名刺の裏に記された地図は、

港区の超高層タワーマンションを示していた。


そこに行けば、六畳間の湿気も、

破れたストッキングを気にする惨めさも、

一生縁のないものになるかもしれません。


加藤の「ホッケ」と、有馬の「スタインウェイ」


スマホが震えました。

加藤からの、追い打ちのようなメッセージです。


『楽しみにしてます。あ、大根おろし、

たくさん作っておきますね。』


大根おろしの匂いが漂ってきそうな、慎ましくも確かな幸せ。

一方で、目の前にあるのは、最高級のピアノと、

約束された「勝者の生活」。


すみれは、有馬の名刺を指先で強く弾きました。

あおいに返された「プライド」が、


チリリと胸の奥で音を立てます。

汚れる価値すらなくなったと言われたプライド。


それを、この外科医に「演奏料」という名で売り渡せば、

少なくともあおいの見返してやることはできる。


(私は、どっちの「地獄」に行けばいいの……?)


すみれは、白い封筒を抱きしめたまま、薄暗い部屋で一人、

声のない叫びを上げました。



あおいが去った後の六畳間は、

まるで酸素が薄くなったみたいに息苦しい。


テーブルの上には、外科医・有馬の名刺と、

加藤からの「大根おろし」のメッセージ。


天国への招待状と、泥沼への回数券。

すみれは、震える指先で白い封筒を掴み取った。




査定される指先 ―― 港区のスタインウェイ


救命ボートの感触


名刺の角が指に食い込む。

加藤の誘いを無視するのは、胸が焼けるように痛かった。

でも、それ以上に「一生この狭い部屋で腐っていく自分」

への恐怖が勝った。


あおいの言う通りだ。

加藤の隣でホッケを突けば、今夜は温かいかもしれない。


でも、十年後、

冷え切った部屋でそのホッケの骨を数える自分を想像して、

すみれは背筋が凍った。


「……ごめん、加藤さん」


すみれはスマホを裏返し、鏡の前に立った。

あおいに直してもらったメイクの上から、さらに厚く、


自分を隠すように塗り重ねる。

今日は「すみれ」としてではなく、


有馬という男の生活を飾る「ピアノ講師」という商品として、

港区へ向かう。


.二百メートルの檻


有馬の住むタワーマンションは、

入り口のオートロックからして別世界だった。


大理石の床、無機質な静寂、

そして耳が痛くなるような高速エレベーター。

たどり着いた最上階の部屋のドアが開くと、


そこには生活感の欠片もない、

冷徹なまでに完璧な空間が広がっていた。


「いらっしゃい。……ピアノ講師の、すみれさんだね」


有馬は、部屋着ですら一分の隙もない男だった。

その瞳は、昨日のパーティー会場と同じ、

獲物を検品するバイヤーの光を宿している。


「……お招きいただき、ありがとうございます」


「挨拶はいいよ。まずは聴かせてくれないか。

君という『価値』を」


有馬が顎で示した先には、

黒く光るスタインウェイの


フルコンサートグランドが鎮座していた。

その圧倒的な存在感は、

すみれの六畳間に置かれた電子ピアノを、

ただの粗大ゴミのように思わせるほどに残酷だった。


3. 演奏料という名の屈辱


すみれは、震える手で鍵盤に触れた。

奏でるのは、かつてあおいと競い合った、完璧な旋律。



有馬はソファに深く腰掛け、ワイングラスを傾けながら、

すみれの背中をじっと見つめている。


それは音楽を楽しんでいるのではなく、

自分が買い叩こうとしている「

装飾品」の動作を確認しているだけだった。


一曲が終わると、有馬は短く拍手をした。


「なるほど。技術は悪くない。……気に入ったよ」


有馬はテーブルに、一束の紙幣を置いた。

「これが今日の『演奏料』だ。……それと、

これは僕からの提案だけど。


週に一度、ここで弾かないか?

食事と、それなりの手当は出す。

君が望むなら、この部屋の一部を君の『居場所』にしてもいい」


それは、プロポーズではない。

「愛人」という言葉を「専属奏者」

という記号に置き換えただけの、冷徹な契約提示だった。


すみれは机の上の札束を見つめた。

これを受け取れば、加藤の年収の何分の一かを

、一晩で手にできる。

あおいの言う「出口」は、ここにある。


しかし、窓の外に広がる港区の夜景は、あまりに遠くて冷たい。

加藤が言った「大根おろし」の匂いが、

なぜかこの豪華な部屋の空気よりも、鮮明に鼻の奥を掠めた。


鹿嶋港で食べたラーメン。

潮の風。

紙のカップの温度。


何も持たない時間のほうが、

嘘がなかった。


「すみれさん、どうしますか?」


有馬の声は静かだった。

急かさない。

だが、逃げ道も与えない声だった。


すみれは札束から視線を外す。


「……ごめんなさい」


自分の声が、思ったより落ち着いている。


「お受けできません」


沈黙。


夜景は変わらない。

車の光が、無関係に流れていく。


そのとき、部屋の隅に控えていた有馬が口を開いた。


「拒否のご連絡は、いつでもお待ちしております」


事務的で、温度のない声だった。

まるで契約書の一文のように、感情がない。


断ることさえ、予定の一つに組み込まれているようだった。


すみれは小さく頷いた。


「そうですか」


それ以上は何も言わない。


怒りも、失望も、慰めもない。

ただ交渉が終わっただけの静けさだった。


すみれは立ち上がる。

足がわずかに震えている。


怖かった。

生活は変わらない。

未来も保証されない。


それでも、胸の奥に小さな感覚が残っていた。


まだ、自分で選んでいるという感覚。


「失礼します」


すみれは頭を下げる。


ドアを開けると、廊下の空気が少し冷たかった。

その冷たさが、なぜか現実に触れている気がした。


背後でドアが静かに閉まる。


札束も、夜景も、契約も、

すべてが部屋の中に残った。


すみれはエレベーターに向かって歩き出した。

それは、プロポーズではない。


「愛人」という言葉を「専属奏者」

という記号に置き換えただけの、冷徹な契約提示だった。


すみれは、机の上の札束を見つめた。

これを受け取れば、加藤の年収の何分の一かを、


一晩で手にできる。

あおいの言う「出口」は、ここにある。




あおいが手に入れた「エグジット」の正体は、

白馬に乗った王子様なんかじゃなかった。

それは、徹底的に管理された「成瀬家」


という名の巨大なシステムへの組み込みだった。


---


血脈の査定 ―― 成瀬家の沈黙と支配


1. 支配者の眼差し


「……あおいさん。その姿勢、少しだけ右に傾いているわよ」


成瀬の母親――成瀬家の「女帝」である志乃は、

ティーカップを置く音すら立てずに言い放った。


場所は、一般人が入り込めない広尾のプライベートサロン。

あおいは、成瀬と交わした婚前契約書の重みを感じながら、

志乃の冷徹な検品に耐えていた。


志乃の瞳には、

あおいの知性や美貌への敬意など一ミリもなかった。


そこにあるのは、息子の隣に置く

「次世代の母体」としての適合性チェックだけだ。


「申し訳ありません、お義母様」


あおいが完璧な角度で頭を下げると、隣に座る成瀬が、

あおいの顔色を窺うのではなく、

**母親の顔色を病的なほどに注視した。**


「母さん、あおいは飲み込みが早いんだ。

僕が選んだんだから、間違いないよ」


成瀬の声は、財務省で国家の予算を動かす自信家のそれではない。

母親の機嫌を損ねることを何よりも恐れる、

**去勢された少年の響き**だった。



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