28章 フリータイムの明暗
「それでは皆さま、フリータイムそろそろ終了です!」
司会者の声が明るすぎる刃物のように会場を裂き、
音楽が少しだけ大きくなる。
高揚感、幸福の演出。男たちが一斉に動き、椅子の脚が床を擦る音、
グラスが揺れる音、名刺入れの蓋が開く音が重なっていく。
すみれは立ち上がれなかった。
目の前に並ぶカード、
職業、年収、年齢、人間が情報に畳まれている。
「よろしくお願いします!」笑顔が飛び、言葉が飛び、視線が刺さる。
値踏み。すみれは自分の顔が硬くなるのを感じた――選ばれる、選ぶ、
そのどちらも怖い。
男が近づいてくる。
「年収いくらですか?」いきなり数字。
「休日は何してるんですか?」
答える前に次の質問。
会話ではない、確認作業。すみれは頷きながら心が遠くなる。
カードが渡され、カードが返され、手の温度がない。
笑い声の輪の中で、すみれだけが沈んでいく。
そのとき、少し遅れてひとりの男が近づいてきた。
佐藤だった。
急がない歩き方、押し込まない距離。
「……すみれさん」呼び方が静かで、すみれは救われるように顔を上げる。
「佐藤さん」佐藤はカードを差し出した
名刺のようにではなく、何か大事なものを預けるように。
すみれは受け取った。紙が妙に重い。「僕、こういうの苦手で」
佐藤は小さく笑い、すみれも小さく頷いた。
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フリートークの終わり際。
すみれは壁際で息を整えていた。
あおいがグラスを持って戻ってくる。
もう笑顔が完成している。
「どうだった?」
「……佐藤さんと話した」
あおいは頷く。
「1か月の食費の人?」
すみれは小さく眉を動かす。
「うん。震えてた。怖いって」
あおいは一拍置く。
「怖いって言える男は珍しいね。でもね、すみれ、危ないからね」
「なに」
「弱さは優しさじゃない。依存にもなる」
すみれは黙る。
反論できない。
あおいは視線を遠くに投げた。
「私は成瀬」
「官僚の?」
「年収1200。鎧が厚い」
すみれは言う。
「安心じゃないの?」
あおいは笑った。
「安心って、檻と同じ形してる」
すみれは息を呑む。
「今のまま六畳間で考え込んでても、何も起きないでしょ」
耳元で、あおいの冷徹な声が弾けた。
あおいはすみれと同じ26歳。
だが、その瞳には「選ばれる者」の確信が宿っている。
「あおい、あの人のこと……佐藤さんのこと、気に入ったの?」
「まだ、わかんない」
「私は生活を買うの。生活に勝つのよ。」
あおいは即答した。迷いなど微塵もない。
「生活はお金。お金がなかったら、
あんたみたいに一生、
あの狭い六畳間に閉じ込められて終わるのよ。
孤独死だよ、それが。
あんたが選ぼうとしているフィナーレは。
今のまま考え込んでても、何も始まらないわ」
「……私は、佐藤さんの弱さが現実に見えたの」
すみれは、佐藤の完璧なスペックの裏側に、
剥き出しの焦燥と、隠しきれない虚無感を見た。
それは、あおいの言う「数字」には変換できない、
生々しい人間の手触りだった。
「弱さ? そんなの、一番価値のないゴミじゃない」
あおいは吐き捨てるように笑った。
「その『弱さ』に共感して、
一緒に六畳間に沈んでいくのがあんたの美学?
悪いけど、私は遠慮するわ。
私は、その男の弱さごと金で支配してやる。
それが、この現実というゲームに勝つっていうことよ」
指名タイム(短く・ひらがな)
「それでは皆さま、指名タイムです!」
司会者の声が明るすぎて、会場が一瞬冷えた。
交換は遊びだった。指名は決定だった。
ペンが走る音だけが残る。
名前を書くのは好意ではない。選別だ。
「成瀬様、第一希望、あおい様」
拍手。
鎧が鎧を選ぶ音。
あおいは微笑んで立ち上がる。
成瀬は救われた顔をする。許可を得た顔だ。
「佐藤様、第一希望、すみれ様」
すみれの胸が小さく跳ねた。
佐藤がこちらを見ている。嬉しさと恐怖が混ざった目で。
すみれは立ち上がる。
救いなのか、沈没なのか。
まだ分からないまま。
翌日の午後。表参道のカフェで向き合った二人の間に、
張り詰めた空気が流れる。
あおいは、成瀬の口座をすでに掌握し、
そのブラックカードで1500円のラテを注文した。
「……で、すみれ。本当にあの佐藤って男でいいわけ?」
「ええ。来週、
彼が予約してくれた4980円のバスツアーに行くの」
「笑わせないで」
あおいの声が、カフェの喧騒を切り裂いた。
「いい、すみれ。あんたはピアノの**ソリスト**なのよ。
たった一人で舞台に立ち、数千人の沈黙を支配する表現者。
あんたの指先には、血の滲むような修練と研鑽、
研ぎ澄まされたプライドが宿っている。
そんなあんたの『高さ』に、
佐藤なんて男が釣り合うと思ってるの?」
「それは彼が『無知』だからよ。
あんたのプライドは、
数百万のグランドピアノの音色に磨き上げられたもの。
それを、10円単位の節約に命をかける男に預けるつもり?
あんたのソリストとしての意地が、
そんな低俗な生活に耐えられるはずがないわ。
格差は、愛なんて言葉じゃ埋まらないのよ」
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