27章 選ばれる対比
あおいはスマホのプロフィールカードを念を押すように確認した。
すでにターゲットは決めていた。
官僚。年収1200万円。独身。30才。
そして、目の前の男。
肩が少し内側に入っている。
笑うたびに、許可を求めるように視線が揺れる。
おどおどしている成瀬を、あおいは見過ごさなかった。
「あら、成瀬さん」
「はい。あおいさん」
声が丁寧すぎる。
丁寧というより、防御だった。
成瀬は急に言った。
「僕、決断力には自信があるんです。国を動かす仕事ですから」
あおいは瞬きもしない。
「あら、素敵、だからに私たちが安心して生活でるんですよ」
「そういって、もらったら」
「だから、わたしたち、未来か輝く生活があるんですね」
すみれは、あおいにはただ驚くばかり、巧みな話術、
成瀬の瞳が少し緩んだ。
男は未来を褒められると弱い。
「そ、そうですね……」
あおいは首を傾ける。
「忙しいんでしょう? でも、忙しい人って信頼できます。
ちゃんと責任を背負ってるってことですもの」
成瀬は胸を張りかけて、すぐに引っ込めた。
「……母も、そういうところを評価してくれて」
出た。
あおいは心の中で笑った。
母という単語が出るまで、三分。
けれど顔には出さない。
「お母さま、きっと立派な方なんですね」
敵を敵にしない。母親を味方にする。
成瀬の表情が、ほっと崩れる。
「はい。厳しいですけど……僕のことを一番考えてくれて」
「ふだんは、何されているんですか?」巧みにさばき
「母は、生け花の先生なんです」
「情熱的な、お母さまですね。羨ましいです。
ひとつの道を究め、命ある花に形を与える。
そんな方が身近にいらっしゃるなんて」
情熱的な、お母さまですね、羨ましいです」
「このネクタイ、もしかして、お母さまが---」
「はい、とうして分かりました?」
「生け花の先生ならと、
このセンスですもの。すぐに分かりました」
あおいは頷いた。
「素敵。そういうご家族、大事にしたいです」
“あなた”ではなく、“家族”。
成瀬は完全に安心した。
「……あおいさんとなら、
ちゃんとしたお付き合いができる気がします」
あおいは微笑んだ。
「ほんとうですか?、嬉しい、
成瀬さんみたいな素敵な方から、そんなふにいわれたら、
どうしていいのか、困っちゃいます」
すみれはあおいをみた。完璧な演出、驚くしかなかった。
まるで舞台の上の芝居を見ているようだ。
「じゃあ、連絡先、交換しましょうか?」
成瀬はスマホを両手で差し出した。
まるで許可証を差し出すように、丁寧な動きだった。
あおいは一拍だけ間を置く。
ためらいを見せる時間を、ほんの少しだけ作る。
それから微笑み、スマホを受け取った。
「ありがとうございます」
指が画面をなぞる。慣れた動き。
すみれには分かった。
あおいは緊張していない。
仕留めた。
鎧の中身ごと。
成瀬は少し安心したように笑っている。
自分が選ばれた側だと思っている笑顔だった。
あおいはスマホを返しながら言う。
「今度、ゆっくりお話しできたら嬉しいです」
その言葉は優しく、
そして完全に安全な距離を保っていた。
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おどおどしているすみれに佐藤が近づいた。
すみれは壁際にいた。
笑い声の輪の外。
グラスの音と香水の匂いが渦を巻く中心から、少しだけ離れた場所。
手の中のプロフィールカードが、紙なのに重い。
年収。職業。年齢。
人間が数字に変換されていく。
すみれは息を浅くした。
目を合わせるのが怖い。
見られるのも怖い。
選ぶのも、選ばれるのも怖い。
そのときだった。
「……あの」声がした。
すみれは肩を震わせて顔を上げる。
男が立っていた。
背は高くない。
スーツも特別ではない。ただ、きちんと着ている。
近づき方が、慎重だった。
踏み込みすぎれば壊れてしまうものに触れるように。
「佐藤です」
名札を見せるでもなく、
自分の名前だけを置くように言った。
すみれは小さく頷く。
「……すみれです」
それだけで声が細くなる。
沈黙が落ちる。
周囲では会話が弾んでいる。
誰かが笑い、誰かが未来を語っている。
ここだけが、取り残されている。
佐藤は視線を彷徨わせてから、言った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
婚活会場で一番似合わない言葉だった。
すみれは笑おうとした。
「大丈夫、です」嘘だった。
佐藤はそれを追及しない。
追及できる強さがない。
追及しない優しさがある。
「僕も……こういうの、慣れてなくて」
すみれは少しだけ息を吐いた。
「私もです」
佐藤の肩がほんの少し下がる。
それは敗北の形だった。
同時に、安心の形だった。
佐藤は手の中のカードを握りしめている。
「参加費、高かったですよね」
すみれは瞬きをした。
「……はい」
佐藤は視線を落とした。
「初期費用を合わせると、二万五千円。
僕にとっては、一ヶ月の食費なんです」
声が震えていた。ここで弱音を吐くのは危険だ。
価値を下げる。
それでも佐藤は言ってしまう。
すみれは胸の奥が少し痛んだ。
鎧の言葉じゃない。
国も未来もない。
表面的な強がり(鎧をまとうこと)に縛られている限り、
真の未来や希望は生まれない、
ただ平穏な生活がある。
すみれは静かに言った。
「……怖かったんですね」
佐藤は顔を上げた。
驚いたように。
「はい」
その一言が、妙に子どもみたいだった。
すみれは思う。
この場所で、初めて人間に会った気がする。
すみれは、とりあえずLINEを連絡先を交換した。
救いなのか、沈没なのか。
まだ分からないまま。
「それでは皆さま、フリータイムそろそろ終了です!」
司会者の声が明るすぎる刃物のように会場を裂き、
音楽が少しだけ大きくなる。
高揚感、幸福の演出。男たちが一斉に動き、椅子の脚が床を擦る音、
グラスが揺れる音、名刺入れの蓋が開く音が重なっていく。
すみれは立ち上がれなかった。
目の前に並ぶカード、
職業、年収、年齢、人間が情報に畳まれている。
「よろしくお願いします!」笑顔が飛び、言葉が飛び、視線が刺さる。
値踏み。すみれは自分の顔が硬くなるのを感じた――選ばれる、選ぶ、
そのどちらも怖い。
男が近づいてくる。
「年収いくらですか?」いきなり数字。
「休日は何してるんですか?」
答える前に次の質問。
会話ではない、確認作業。すみれは頷きながら心が遠くなる。
カードが渡され、カードが返され、手の温度がない。
笑い声の輪の中で、すみれだけが沈んでいく。
そのとき、少し遅れてひとりの男が近づいてきた。
佐藤だった。
急がない歩き方、押し込まない距離。
「……すみれさん」呼び方が静かで、すみれは救われるように顔を上げる。
「佐藤さん」佐藤はカードを差し出した
名刺のようにではなく、何か大事なものを預けるように。
すみれは受け取った。紙が妙に重い。「僕、こういうの苦手で」
佐藤は小さく笑い、すみれも小さく頷いた。
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フリートークの終わり際。
すみれは壁際で息を整えていた。
あおいがグラスを持って戻ってくる。
もう笑顔が完成している。
「どうだった?」
「……佐藤さんと話した」
あおいは頷く。
「1か月の食費の人?」
すみれは小さく眉を動かす。
「うん。震えてた。怖いって」
あおいは一拍置く。
「怖いって言える男は珍しいね。でもね、すみれ、危ないからね」
「なに」
「弱さは優しさじゃない。依存にもなる」
すみれは黙る。
反論できない。
あおいは視線を遠くに投げた。
「私は成瀬」
「官僚の?」
「年収1200。鎧が厚い」
すみれは言う。
「安心じゃないの?」
あおいは笑った。
「安心って、檻と同じ形してる」
すみれは息を呑む。
「今のまま六畳間で考え込んでても、何も起きないでしょ」
耳元で、あおいの冷徹な声が弾けた。
あおいはすみれと同じ26歳。
だが、その瞳には「選ばれる者」の確信が宿っている。
「あおい、あの人のこと……佐藤さんのこと、気に入ったの?」
「まだ、わかんない」
「私は生活を買うの。生活に勝つのよ。」
あおいは即答した。迷いなど微塵もない。
「生活はお金。お金がなかったら、
あんたみたいに一生、
あの狭い六畳間に閉じ込められて終わるのよ。
孤独死だよ、それが。
あんたが選ぼうとしているフィナーレは。
今のまま考え込んでても、何も始まらないわ」
「……私は、佐藤さんの弱さが現実に見えたの」
すみれは、佐藤の完璧なスペックの裏側に、
剥き出しの焦燥と、隠しきれない虚無感を見た。
それは、あおいの言う「数字」には変換できない、
生々しい人間の手触りだった。
「弱さ? そんなの、一番価値のないゴミじゃない」
あおいは吐き捨てるように笑った。
「その『弱さ』に共感して、
一緒に六畳間に沈んでいくのがあんたの美学?
悪いけど、私は遠慮するわ。
私は、その男の弱さごと金で支配してやる。
それが、この現実というゲームに勝つっていうことよ」
指名タイム(短く・ひらがな)
「それでは皆さま、指名タイムです!」
司会者の声が明るすぎて、会場が一瞬冷えた。
交換は遊びだった。指名は決定だった。
ペンが走る音だけが残る。
名前を書くのは好意ではない。選別だ。
「成瀬様、第一希望、あおい様」
拍手。
鎧が鎧を選ぶ音。
あおいは微笑んで立ち上がる。
成瀬は救われた顔をする。許可を得た顔だ。
「佐藤様、第一希望、すみれ様」
すみれの胸が小さく跳ねた。
佐藤がこちらを見ている。嬉しさと恐怖が混ざった目で。
すみれは立ち上がる。
救いなのか、沈没なのか。
まだ分からないまま。
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翌日の午後。表参道のカフェで向き合った二人の間に、
張り詰めた空気が流れる。
あおいは、成瀬の口座をすでに掌握し、
そのブラックカードで1500円のラテを注文した。
「……で、すみれ。本当にあの佐藤って男でいいわけ?」
「ええ。来週、
彼が予約してくれた4980円のバスツアーに行くの」
「笑わせないで」
あおいの声が、カフェの喧騒を切り裂いた。
「いい、すみれ。あんたはピアノの**ソリスト**なのよ。
たった一人で舞台に立ち、数千人の沈黙を支配する表現者。
あんたの指先には、血の滲むような修練と研鑽、
研ぎ澄まされたプライドが宿っている。
そんなあんたの『高さ』に、
佐藤なんて男が釣り合うと思ってるの?」




