23章 親友との会話
電車を降りた瞬間、6月の夜がの湿気がまとわりついた。
改札の明かりを背にすると、街は急に暗く、遠くなる。
駅前の小さなモニターでは、スマホの婚活アプリのCMが流れていた。
笑顔の男女。
「運命の出会いを、今すぐ」
軽い音楽。
すみれは歩きながら、ふと目を向けた。
――婚活。
自分とは無縁だと思っていた言葉なのに、
妙に引っかかる。
音楽が切られたら、人生には何が残るのか。
舞台も契約もない場所で、人はどうやって生活を作るのか?
画面の中の笑顔は眩しすぎて、
逆に現実味があった。
すみれの胸の奥に、
小さな興味が沸いた。
生きるための別の入口が、
ああいう形で並んでいるのかもしれない。
空気は冷たくない。
初夏の湿り気が肌にまとわりつく。
昼の熱がまだアスファルトに残っている。
アパートはすぐに見えた。
二階建ての古い建物。
外階段の錆びた手すり。
夜でも、どこか生ぬるい影がある。
ここが現実だった。
鍵を差し込む。
小さな金属音。
ドアを開けると、こもった空気が迎える。
スイッチを押す。
ぱちり。
薄い蛍光灯が点き、
六畳の生活が浮かび上がる。
段ボール。
畳の端。
小さなキッチン。
壁の薄さ。
隣のテレビの音。
窓の外では、どこかで虫が鳴いている。
夏が近い。
ピアノはない。
鍵盤の代わりに、沈黙がある。
スタインウェイの艶も、ホールの静けさも、
黒いクラウンも、
全部、遠い。
すみれは、そのまま立ち尽くした。
救いの一音が残っているのに、
部屋は何も変わらない顔をしている。
これが現実だ、と蛍光灯の白さが言っていた。
その夜、アパートに戻っても眠れなかった。
蛍光灯を消しても、部屋の形が頭に残る。
スマホを枕元に置いたまま、
何度も画面を見てしまう。
婚活アプリのCM。
運命の出会い。
自分には関係ない。
そう思いたいのに、
興味だけが小さく残っている。
そのときだった。
スマホが震えた。
LINE。
名前を見て、すみれは少し息を止める。
児玉あおい。
大学の友達。
明るくて、現実的で、いつも先に社会へ降りていった美的な子。
画面に短い文。
『すみれ、生きてる?』
すみれは指を止めた。
生きてる?
そんな確認の仕方が、あおいらしい。
少し遅れて、次のメッセージが来る。
『最近ぜんぜん見ないけど大丈夫?』
すみれはスマホを握った。
大丈夫じゃない。
でも説明は長すぎる。
しばらくして、
打ったのはたった一行だった。
『うん、生きてる。ちょっと色々あった』
送信。
既読がすぐについた。
そして返事は早かった。
『明日会える?話聞く』
その短さが、妙に救いだった。
翌日、夕方。
すみれは駅前の小さなカフェに入った。
ガラス越しの光が白くて、
昨日までの闇と違う世界みたいだった。
奥の席に、もうあおいがいた。
髪はきれいに巻かれていて、
ネイルも整っている。
生活が続いている人の手だった。
「あ、すみれ」
声は昔と変わらない。
軽くて、現実的で、ちゃんと明るい。
すみれは椅子に座った。
「久しぶり」
あおいはすみれの顔をじっと見た。
笑わない。すぐに察する目だ。
「……何があったの」
すみれは一瞬、言葉を探した。
契約が切れた。
マンションを出た。
ピアノがない。
全部言うと重い。
でも黙るのも違う。
「終わった」
すみれがそう言うと、
あおいは眉を寄せた。
「音楽?」
すみれは小さく頷いた。
あおいはため息をついて、
アイスコーヒーを一口飲んだ。
「……そっか。きびしい世界だからね」
氷がカランと鳴る。
「でもさ」
あおいはストローを回しながら言った。
「きびしいのって音楽だけじゃないよ」
すみれが顔を上げる。
「生活も、普通にきびしい」
笑ってしまうような口調で、でも目は真面目だった。
「で? 今どこ住んでんの?」
すみれは言葉に詰まる。
あおいは即座に察して言う。
「……あ、アパート、そこにはわたしの住所がない
ただ、住んでいるだけ」
その軽さが、救いだった。
---
あおいはケーキのフォークを揺らしながら言った。
「で」
一拍。
「住所ないのは分かった。で、原因は?」
すみれは笑おうとして失敗した。
「原因って……、有明のまま」
「あの神山さんマンション」
「そうだよ」
「早く、移転手続きしたほうがいいよ」
あおいは、ため息をついた。
「神山さんスポンサーだしょ、お世話になったし」
一拍
「プール付きのタワマンにに住まわせてもっらたし、
あんな人いないよ、迷惑かかるから」
「そうだよね」
「健康保険まで払ってくれる人、ふつういないよ」
氷がまたカランと鳴る。
すみれは指先を握った。
「……先生が」
あおいの眉がぴくりと動く。
「先生?」
すみれは息を吸う。
「病院の……外科医」
「外科医?」
「柿沼、っていう人」
名前を口にした瞬間、胸が遅れて痛んだ。
あおいは一秒黙ってから、すごく普通に言った。
「なにそれ、ドラマ?」
すみれは首を振る。
「ドラマじゃない。救急」
言葉が落ちる。
「港で、私……死のうとして」
あおいの表情が消える。
「――はぁ? それ、おかしいよ。なんで港で、そんなこと」
「わたしが飛び込もうとしたとき、柿沼が抱き付いてとめたの」
thought
「……抱かれたの」
「は? あんた、今なんて言ったの?」
「生なの。……でも、子供ができない日なの。アプリで確認したから。大丈夫、計算は合ってる」
「……自分から、そうしたの?」
「そう。自分から」
「……ねえ、イケメンなの?」
「普通かな。少し上かも……。送るね、この人」
「…………。あー、なるほど。この人か。まあ、
まあまあだね。悪くない。でも、あおい。なんでそこまでしたのよ」
「自分から。……恩返し、みたいなもの」
「恩返しって……あんたね。柿沼さんだっけ?
独身なんだろうけど、
そういうのはやめたほうがいいよ。本当に」
「……わかってる」
「わかってないよ。神山さんにバレたらどうすんの、音楽界から
追放されるよ
すみれはさ、音楽に夢中になって、ソリストにまでなって」
「なのに、男ひとりで全部崩れる。
そういう世界なんだよ、残酷だけど」
「うん、わかっている」
「すみれ、柿沼のこと好きになったってこと」
「そうだよ」
拍
「医者だろう、激戦だよ」
「鉄道マニアなの」
「それ、チャラくない」
「なんで?」
「お父さんと、そうだから---部屋つぶして線路作ってやっている
朝起きて、汽車走らせている
1台、20万とかする何台も買って、馬鹿みたい」
「そういうのにしがみつく男って、優しいけど、頑固で、
一度ハマったら戻れない」
すみれは小さく息を吐いた。
「……柿沼も?」
「たぶんね。だからチャラくない。
むしろ、重いんだよ」
「乗り鉄もだって」
あおいは呆れたように言った。
「お父さんなんか朝四時起きでさ。上野から宮古まで宮古まで行っ
て、四時間乗って泊まって、
次の日は八戸まで回って新幹線で帰ってきた」
「何しに?」
「乗りに」
即答だった。
あおいは苦く笑う。
「マニアってチャラくないよ。
現実がぐちゃぐちゃでも、線路だけは正しいから。
そこにしがみつくんだよ」
すみれは黙った。
柿沼の横顔が、少しだけ重く浮かんだ。
「お母さん、只見線にいっしょに行ったの」
あおいは少しだけ笑った。
「山の中を往復8時間、ずっと走ってさ。窓の外、川が光って、雪が残ってて」
一拍。
「帰ってきたとき、お母さん、真顔で言ったんだよ。
“二度と行かない”って」
「すみれ、行きたい?」
「わかんないよ」
゛柿沼に言われたら」
「それ、タラればだから」
「声が少し震える。
「まだ若いし、これからだよ」
低い声。
「死ぬ理由なんて、全部、立派じゃないよ」




