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22章 赤い靴の誘惑

「はい、あのです」


加藤は淡々としている。

工場の備品を言うみたいに。


すみれの頭が追いつかない。確認するようにもう一度聞く。


「なんで工場に「スタインウェイのD-254」があるんですか?」


加藤は少しだけ間を置いて言った。


「音を奏でるためです。わたしが一目ぼれしてで買ったからです」


「ひとめぼれで?」


「式典用に買ったものです」


すみれは笑うしかない。


「工場の式典で「スタインウェイのD-254」。…」

「いくらするんですか?」


「さあ、4000円」

「ハァ?」


「4000円です、わたし買います」

「間違いました。4000万でした」


桁の問題ではない。

この男にとっては、どちらも同じ“数字”なのだ。


「でしょうね」


加藤は真面目に続けた。


「だから、空いてます」


空いてます、の破壊力がすごい。

すみれの胸の奥で、何かがほどける。


神山に切られて、

鍵盤を失って、終わったと思っていたのに、

加藤がさらっと言う。


「スタインウェイ、空いてます」


世界はまだ、少しだけ変だった。



----

「どうします?」


「……見るだけなら」


加藤は初めて、ほんの少し笑った。


「はい。見るだけで十分です」


鹿嶋の工場は、町の端ではなく、町そのものみたいに立っていた。


海沿いの道を抜けると、

突然、鉄とガラスの壁が現れる。


巨大だった。


倉庫というより、都市の一部だ。

長い屋根。

無数のシャッター。

コンテナとトラックが黙々と動いている。


すみれは車の中で黙っていた。


「……ここ」


加藤は淡々と答える。


「鹿嶋工場です」


守衛が門を自動で開けた、空気が変わる。

油と金属の匂い、遠くで機械が低く唸っている。


人の声より、機械の音が支配している。


すみれは思った。

音楽とは正反対の場所だ。


なのに。


加藤は迷いなく歩く。


工場長の歩き方だった。

すれ違う作業員が頭を下げる。


「お疲れさまです」


加藤は軽く手を上げる。


その横で、すみれは場違いな存在だった。

コートの裾が少し浮いて見える。


「こんなところに…ピアノ?」


加藤は振り返らずに言う。


「あります」


工場の奥、

騒音が少しずつ遠ざかっていく。


一枚の扉。


加藤が鍵を開けた。


中は意外なほど静かだった。


1500人も入れる大きなホール。

式典用の椅子が整然と並び、

舞台の上に、黒い影がある。


すみれの足が止まる。


そこにあった。


壇上にあるスタインウェイ。4000万、


艶のある黒。

重く、完璧な輪郭。


工場の中に、

ありえない沈黙が置かれている。


加藤が言った。


「空いてます」


すみれは一歩も近づけなかった。


指が、勝手に鍵盤の形を探している。


巨大な工場の真ん中で、

音だけが待っていた。

加藤は舞台の下で、少しだけ言い直した。


「……弾いてみますか?」


すみれが笑いそうになると、加藤は真顔のまま付け足した。


「昨日、調律しました」


「え」


「ひいきみたいに聞こえますけど」

「ひいきです」


加藤は咳払いをした。


「誰も弾かないので、音が死ぬんです」


すみれは鍵盤を見つめた。


昨日調律。

この工場で。

このスタインウェイのために。


「……なんで」


加藤は少しだけ目を逸らす。


「たぶん、今日来ると思ったので」


言い方があまりに事務的で、逆に優しい。


すみれは息を吸った。


指を置く。


最初の音が落ちる。


澄んでいる。

新しい。

昨日、整えられた音だ。


「……わたしが弾いてみましょう」

加藤はスタインウェイの鍵盤蓋を開けた。


――青い目の人形。

黒い艶の奥に、自分の顔が歪んで映る。


最初の一音で分かった。

音が最初から狂っている。


狂いは粗雑ではなく、上品だった。

半音のずれが、誤差ではなく運命の傾きになる。


ドは深く沈み、ミは届かない。

完璧であるはずの楽器が、完璧に壊れている。



ちかくで掃除のおばさんがいった。

「加藤常務さん……狂っていますよ」


「……やめましょう」


そして静かに、鍵盤から手を離す。



「ああ、おばちゃん、おばちゃん。ひいてみて」

おばちゃんが座った。


『月光第三楽章 ピアノソナタ/ベートーヴェン』


(なんだ、これ)


素人のはずなのに、音が鋭い。

生活の手つきのまま、音だけが走る。


少し弾いて、おばちゃんは笑って手を離した。


加藤が拍手した。

つられて、すみれも拍手した。


その拍手が、妙にあたたかかった。


「加藤さん、あの人……何者なんですか?」


すみれが小声で尋ねると、加藤は迷いなく答えた。


「ピアノの管理人です」


「……管理人?」


すみれは思わず聞き返した。


工場長でも、常務でもなく。

スタインウェイの持ち主でもなく。


ただの――管理人。


その言葉の奇妙さに、すみれは息を呑んだ。




「すみれさん。

あとは、あなたが弾いて下さい」



声は震えていなかった。

ただ、確かめるみたいに静かだった。


加藤は何も言わない。

舞台の下で、ただ待っている。


すみれは目を閉じた。


最初の音。


次の音。


そして旋律が立ち上がる。


――青い目の人形。



♪ 赤い靴、はいてた、女の子。


音は拙い。

でも、まっすぐだった。

工場の機械音とは違う、

ちゃんと人の音だ。


すみれは息を止めて聴いた。


常務取締役が。

最前列のS席の男が。

羊羹を渡す男が。


「赤い靴」を弾いている。

最初の一音で、すみれは分かった。


でたらめだ。


音程の問題じゃない。

指遣いの問題でもない。


この場そのものも、でたらめだった。


すみれは思わず、逃げ道のように言った。


「……調律のせいですね」


加藤が真顔で首を振る。


「昨日、完璧に合わせました」



もう一度。


赤い靴、はいてた、女の――


また違う。左手が勝手に別の世界へ行く。


すみれは思わず口元を押さえた。


加藤は真剣な顔で鍵盤を見つめる。


「和音が…違いますね」


「違いますね、じゃないです」


すみれが笑いながら言うと、加藤は少しだけ眉を寄せた。


「調律のせいでしょうか?」

「絶対ちがいます」


加藤は納得いかない顔で、もう一度押す。


バン。


またでたらめ。

赤い靴が、どこか、


遠い国へ本当に連れていかれそうな響きになる。


すみれはとうとう吹き出した。


「加藤さん、

それ…追いかけ方は丁寧なのに、弾き方は雑すぎます」


加藤は真顔で言った。


「客ですから」


その言い訳が一番おかしかった。






すみれは笑いながら首を振った。


「もう、貸してください」


加藤は素直に椅子をずらした。

工場長が叱られた社員みたいに立つ。


すみれは座り直し、鍵盤に指を置く。


「赤い靴はですね」


「……赤い靴はね」


鍵盤に指を置き直す。今度は見本ではなく、

思い出すように。


最初の和音を、そっと揺らす。


音がまっすぐ出ない。

少しだけ震える。

ビブラートみたいに、揺れながら伸びる。


赤い靴、はいてた、女の子。


童謡なのに、急に遠くなる。

簡単な旋律のはずなのに、胸の奥を撫でていく。


すみれの左手が和音を支える。

押さえるのではなく、抱えるように。


赤い靴、見てた、異人さんに。


音が揺れるたび、

連れていかれたのは女の子だけじゃない気がする。


舞台も、部屋も、マホガニーも。

すみれ自身も。


最後の音を、消さずに残す。

震えたまま、空気に溶かす。


沈黙が落ちる。


加藤は何も言えない。

工場の機械音さえ遠い。


すみれは鍵盤を見たまま、小さく言った。


「……こういう歌なんです」


見本ではなく、切なさだけが残った。



加藤は少しだけ照れたように頷いた。


「勉強になります」

「ほんとうですか?」


すみれは鍵盤を撫でるように言った。


「赤い靴は、連れていかれないんです」


その一言で、二人の間の空気が少しだけ軽くなった。


みていたおばちゃんが拍手した。



加藤が沈黙を破った。

工場長の声に戻っていた。


「ここで来月、式典を行います」


すみれは鍵盤から手を離さずにいた。


「式典…」


「創立記念です」


言葉は事務的なのに、

空気だけがまだ切ないままだった。


加藤は舞台を見上げて続けた。


「社員が集まって」

「会長が挨拶して」

「表彰があって」


すみれは小さく笑う。


「そのためにスタインウェイ?」

「そうです、そのためのものです」


加藤は頷いた。


「音を出すための道具です」


相変わらず正直だ。


そして少し間を置いて、加藤は言った。


「音が必要なんです」


すみれの指が止まる。


「……音?」


「式典の最初に、誰かが弾くことになっている」


すみれは顔を上げた。


加藤は視線を逸らさずに言った。


「すみれさん」


名前が、静かに落ちる。


「来月、ここで弾きませんか?」


工場の真ん中。

式典。

社員の前。


サントリーホールではない。

拍手も評論もない。


でも、音が必要だと言われた。


すみれの胸の奥で、小さく何かが鳴った。




加藤は続けた。

事務の説明みたいに、丁寧に。


「お礼もします」


すみれが黙っていると、

加藤は少しだけ早口になる。


「交通費も全部こちらで」

「宿泊代も」

「前日入りでも構いません」


まるで出張手配だ。

工場長の現実。


すみれは鍵盤を見たまま言った。


「……仕事として?」


加藤は頷く。


「仕事です」


スポンサーの微笑みではない。

契約の切れ目でもない。


ただ、必要だから頼む、その形が逆に救いだった。


加藤は最後に小さく付け足した。


「無理なら、断ってください」


すみれは息を吸った。


工場の式典。

拍手のためじゃない。

生活のためでもある。


そして何より、音がまだ出せる場所がある。


すみれの胸が少しだけ痛んだ。


「……考えます」


加藤はそれだけで十分だというように頷いた。






加藤は腕時計をちらりと見た。

工場の時間に戻る仕草だった。


「……今日はどうされますか」


すみれは鍵盤の上に置いた指をゆっくり離した。

音が消えたあと、ホールの静けさが急に広く感じる。


どうする。


帰る場所はある。

狭いアパート。

ピアノのない部屋。

隣のテレビの音。


でも今は、そこに戻る気がしなかった。


すみれは小さく笑った。


「どうされますか、って」


加藤は真面目に頷く。


「鹿嶋まで来ていますので」

「会社の車で、送ります」


送る。

それも事務的で優しい。


すみれは舞台の黒い艶をもう一度見た。


「……もう少しだけ」


「弾きますか」


「見るだけでいいです」


加藤は頷いた。


「はい。金欠、考えます」


その言葉が、また可笑しくて、少し救いだった。




すみれは舞台から降りながら、ぽつりと言った。


「……どこまで送られるんですか」


加藤は一瞬きょとんとした。

質問の意味を測るみたいに。


「どこまで、とは」


「家までですか?」


加藤は頷く。


「はい」


即答だった。

工場の送迎車みたいに。


すみれは苦笑した。


「わたしの家、知ってるんですか」


加藤は少しだけ間を置いて言った。


「有明のマンションですよね」


胸がきゅっとなる。


「……今は違います」


「聞きました」


「誰から」


加藤は答えない。

答えたら生々しすぎるからだ。


すみれは息を吐いた。


「じゃあ、アパートまで?」


加藤は頷く。


「はい。玄関まで」


玄関まで。

丁寧すぎて怖い。


すみれは立ち止まった。


「加藤さん」


「はい」


「あなた、本当に何なんですか?_」

加藤は少し考えてから、静かに言った。


「客です、他に何があるんですか?」


またそれだ。


すみれは笑ってしまった。


「客は玄関まで送らないです」


加藤は真顔で返した。


「工場長は、送ります」


その答えがずるかった。

現実の肩書きで押してくる。


すみれは負けたみたいに歩き出した。


「……駅までで、いいです」


加藤は頷いた。


「わかりました。駅まで」


それでもきっと、

少し先まで送るのだろうと思った。




工場の正門を出ると、

待っていたのは黒いクラウンだった。


艶のある車体。

後部座席のガラスは少し濃い。

工場の送迎というより、役員車だ。


すみれは足を止めた。


「……クラウン」


運転手が当たり前のように後ろドアを開ける。


「社用車です」


社用車でクラウン。

常務取締役の現実が急に戻ってくる。


すみれは小さく笑った。


「客じゃないですね」


加藤は真顔で言う。


「客です、音楽愛好家です」


また言う。

そのくせ黒いクラウンに、フンずり返っている。


車内は静かで、革の匂いがした。

エンジン音もほとんどしない。


すみれは後部座席に座りながら、

ふと思った。


マホガニーのピアノを置いてきた日と、

同じ種類の静けさだ。


ただ違うのは、

今は切られるためではなく、

送られているということだった。



結局、何もなかった。

柿沼と横にいた女か、日本機工の加藤か。


笑うしかなかった。


人生はいつも、

選択肢があるようで、どれも自分の手の外にある。


黒いクラウンの後部座席。

革の匂いと、過剰な静けさ。


車窓は漆黒の闇だった。

街灯が線になって流れていく。

海は見えない。

音もない。


すみれは手を膝に置いて、

ただ揺られていた。


さっきまでスタインウェイが鳴っていたことが、

嘘みたいだった。


結局、何も変わっていない。


そう思うのに、胸の奥だけが少し痛い。


痛いということは、

まだ終わっていないのかもしれなかった。



加藤は結局、駅まで送った。

約束どおり、きちんと。


鹿嶋の夜の駅は小さく、

改札の灯りだけが浮いている。

人もまばらで、音が少ない。


「ここで」


すみれが言うと、加藤は頷いた。


「はい」


それ以上は踏み込まない。

工場長の区切り方だった。


すみれは一度だけ振り返った。


黒いクラウンが静かに停まっている。

加藤の顔は暗くてよく見えない。


「……ありがとうございました」


加藤は小さく頭を下げた。


「お気をつけて」


それだけ。


すみれは改札を抜けた。

切符を入れる音がやけに大きい。





ホームに立つと、

海風がまだ残っていた。


やがて電車が来る。

白い車体が闇を割って滑り込む。


ドアが開き、

すみれは乗り込んだ。


座席に腰を下ろすと、

窓の外で加藤の車が小さく遠ざかる。


電車は動き出す。


工場のスタインウェイも、

黒いクラウンも、

全部置いていく。


車窓は漆黒の闇だ。


それでも、

明日へ運ばれていく音だけは、

確かにあった。


「こんなの信じられないよ」


すみれは小さく呟いた。

電車の窓に映る自分の顔が、他人みたいだった。


契約を切られて、

マンションを出て、

ピアノも置いてきて、終わったと思っていたのに。


工場の真ん中にスタインウェイがあって、

常務取締役が最中を差し入れて、


赤い靴をでたらめに弾いて、自分が笑ってしまった。


そんなことが現実に起きることなのか。


車窓は漆黒の闇だ。

灯りだけが線になって流れる。


すみれは膝の上で手を握った。


信じられないのは、世界が残酷なままなのに、

まだ音の入口が、残っていることだった。










電車を降りた瞬間、6月の夜がの湿気がまとわりついた。

改札の明かりを背にすると、街は急に暗く、遠くなる。


駅前の小さなモニターでは、スマホの婚活アプリのCMが流れていた。

笑顔の男女。


「運命の出会いを、今すぐ」

軽い音楽。


すみれは歩きながら、ふと目を向けた。


――婚活。


自分とは無縁だと思っていた言葉なのに、

妙に引っかかる。


音楽が切られたら、人生には何が残るのか。


舞台も契約もない場所で、人はどうやって生活を作るのか?


画面の中の笑顔は眩しすぎて、

逆に現実味があった。


すみれの胸の奥に、

小さな興味が沸いた。


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