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21章 赤い靴の戦慄

「どうしてそんなことをするんですか?」


加藤は少しだけ目を細めた。


「決まっているだろう、あなたの音楽が好きなんです」

「音楽が?」


「あなたの音がです」


その言い方が静かすぎて、すみれの胸が一瞬だけ痛む。


加藤は続けた。


「神山さんみたいに投資ではないです」

「見返りもいりません」


「神山さん、知っているの」


すみれがそう言うと、加藤は一瞬だけ瞬きをした。


それから、静かに頷いた。


「かれは情熱かです、名前は」


「……どこで」


加藤は椎の大木を見たまま答える。




「客席には、いろいろいます。

わたしは何年も通っているんです、いろいろと調べて」


すみれは眉を寄せた。


「関係者席の人?」


「ええ」


加藤は余計な説明をしない。

でも、その沈黙が逆に生々しい。


神山拓也。資産家、

神山不動産専務

スポンサー。


客席にいる人間は、音だけじゃなく、人の流れも見ている。


すみれは唇を噛んだ。


「……わたし、切られたんです」


加藤は頷く。


「知っています」


「どうして」


加藤は少しだけ困った顔をした。

初めて見せる表情だった。


「この世界は狭いです。噂は早いです」


すみれは笑いそうになって笑えない。


「噂で、ここまで来るんですか?」


加藤は首を振る。


「ここに来たのは偶然です」


偶然。

でも五年の偶然が積み重なると、それはもう偶然じゃない。


加藤は小さく言った。


「神山さんは音楽が好きです、情熱家です。

でも、好きなまま切れます」


すみれの胸が痛む。

加藤は続けた。


「あなたは切られても、音は残っています」


その言葉が慰めなのか、執着なのか、

すみれにはまだ分からなかった。


「じゃあ、何が欲しいんですか?」


加藤は首を振った。


「欲しいものはないです」


すみれは苛立つ。

優しさなのか執着なのか分からない。


「わたし……怖いです」


加藤は少し間を置いて言った。


「怖がらせたなら、すみません」


そしていつもの調子で紙袋を持ち上げる。


「その茶で羊羹、食べますか? わたしのおごりです」

「金欠----ラッキー,やった」


世界が崩れても、この男は羊羹の話をする。

それが滑稽で、それが救いだった。



「スタインウェイです」


その響きがあまりに場違いで、すみれは自分の耳を疑った。


世界中のピアニストが渇望する、垂涎の最高峰の黒い獣。

それを個人で、しかも管理まで完璧にしているという。


「……日本機工の、加藤さん」


すみれがその名を呟くと、加藤はわずかに顎を引いた。


日本機工。

この鹿島の地にも巨大な拠点を構える、物流と製造の巨人。


その「常務」というポストは、本来なら神宮の茶屋で、

見知らぬ女に1万円入りの封筒を「落とし物」として渡すような男が

座る椅子ではない。


「常務がどうして、あんなメモを……」


「常務である前に、私はあなたの客ですから、客は

お金を払い自由です」


加藤は平然と言ってのけた。


神山がすみれを「商品」として値踏みし、

数字が出ないと分かれば切り捨てる算段を立てていた裏側で、


この男は日本機工の冷徹な役員として、


彼女の「音」を囲い込むための箱を用意していたのだ。


「鹿島工場の敷地内に、福利厚生の名目でホールを造りました。

そこに置いてあります」


「……工場の、ホールに?」


「はい。あそこなら誰にも邪魔されない。

海風も、機械の稼働音も、

完璧な遮音壁でシャットアウトしています。


スタインウェイのD-274。あなたが弾くためだけに、

24時間、湿度50%で管理させています」


すみれの唇から、乾いた笑いがこぼれた。


この男は、現実のルールを無視しているのではない。

企業の資本と権力をフルに使って、

現実を力ずくで彼女の音に合わせて書き換えてしまったのだ。


「狂ってる……「スタインウェイのD-274」。」


「客というのは、わがままなものです」


加藤は、さも当然だというように答えた。


鹿嶋神宮の静寂のすぐ隣で、巨大な工場が煙を上げている。

その鋼鉄の心臓部のような場所に、


世界で最も繊細なピアノが、

彼女が指を置く瞬間だけを待って静まり返っている。


「調律は一昨日、済ませました。今から車を回せます」


加藤は立ち上がり、静かにすみれを見下ろした。

すみれは、震える指先をそっと膝の上で握りしめた。


「……1万円分の演奏で、足りるかしら」


「いいえ。利息がついて、1生分になります」


加藤は真顔で、そう断言した。


---

「あなたは誰ですか?」


すみれは、射抜くような視線を加藤に向けた。

名前でも、元経理という肩書きでもない。

この異質な執着の正体を、彼女は知りたかった。


加藤は動じない。池の底を見つめるような静かな眼差しで、


彼女の問いを受け止めた。


「日本機工の、加藤です」


「そうです。自動倉庫です」


加藤は事も無げに言った。

テレビCMで流れる、あの整然と、


かつ無機質に動き続ける巨大な倉庫のシステム。

その中枢を担う男が、今は冬の鹿島神宮で、

1万円札の入った封筒を「落とし物」だと言い張っている。


すみれは、手の中の名刺と、目の前の男を交互に見た。


『日本機工鹿嶋工場長。常務取締役 加藤昇』


重い。

先ほどの1万円札よりも、


さらに生々しい現実がそこには刷り込まれていた。


「……常務がどうして、5年間も客席に?」


「物流も、音楽も、滞りなく流れるべきだと思っているからです」


加藤は真顔で、


恐ろしく理路整然とした(彼にとっては)答えを返した。


「神山さんがあなたを切ったという報告を受けた時、

すみれは真っ先に工場のホールを確認しました」


「すごい」


「わたしがドイツに行ったとき、ひとめぼれして買いました」

「えぃ?」


゛誰も弾かず、ただ管理費だけを食っている。

……非常に非効率な状態でした」


非効率。


その言葉が、すみれの胸にすとんと落ちた。

神山は彼女を「利益」で計った。

けれどこの男は、


彼女の音が止まっている状態を「不備」だと言っているのだ。


「スタインウェイ、空いてます」


加藤がもう一度、静かに繰り返した。

その言葉の破壊力は凄まじかった。


5年間、客席の最前列で彼女の音を

「聴く」という仕事を完璧にこなしてきた男が、


今度は「弾くための場所」

をシステムの一部として組み上げてしまったのだ。


「……わたし、練習もしてないし、指も動かないかもしれない」


すみれの小さな抵抗に、加藤はわずかに目を細めた。


「空調と調律は、工場と同じ精度で管理されています。

あなたがいつ指を置いても、

システムは正常に作動するようになっています」


「……システムって」


すみれはついに、吹き出した。

泣きそうだった。


絶望して、ピアノも場所も失って、

神宮の森に逃げてきた。


それなのに、目の前の常務取締役は、


巨大な自動倉庫を管理するように、

女の再起を「当然の工程」として準備している。


「加藤さん。あなた、やっぱり変です」


「よく言われます」


加藤はそう言うと、立ち上がった。


「車が来ました。工場へ向かいますか?

ちょうど、おやつの時間です」


茶屋の向こう、神宮の駐車場には、


黒塗りの車が静かにアイドリングを始めていた。

すみれは紙袋を抱え直し、ゆっくりと立ち上がった。


世界はまだ、壊れたままだ。

けれど、鉄と油の匂いがする工場の奥に、

最高峰の鍵盤が彼女を待っているという。


「……福原遥さんみたいに、上手くいくかしら」


「マテハンなら、お任せください」


加藤は真面目に答えた。

二人は、湧水の音を背に、砂利道を踏みしめて歩き出した。



「空いてます」


神山に切り捨てられ、ピアノを奪われ、


自分の居場所なんてこの世界のどこにもないと思っていた。

絶望の底で、もう二度と鍵盤に触れることはないのだと、

自分に言い聞かせてきたはずだった。


それなのに、この男は、加藤昇だと思った。


巨大な工場の、誰もいないホールに鎮座する世界最高峰のピアノを、

まるで「会議室が空いています」

とでも言うような気軽さで提示したのだ。


「……あんなに高い楽器を、誰も弾かずに置いておくなんて」

「はい。私としても、非常に非効率な資産運用だと感じていました」


加藤は真顔で、名刺を指先で整えながら答えた。


「あなたの音がそこに加われば、

ようやくそのピアノの減価償却が正当化されます。

これは、工場長としての判断です」


すみれは、胸の奥に溜まっていた重たい塊が、

少しずつ、少しずつ解けていくのを感じた。


神山が求めていたのは、彼女が生み出す「利益」だった。


けれど、目の前のこの不器用な男が求めているのは、

もっと単純で、もっと傲慢なこと。

ただ、彼女の音が鳴り止まないこと。


「加藤さん。私、本当にボロボロなんです。


あざみの舞台の話も、もう聞きたくないくらい……」


「でもあざみさんの音はいいですよ」


「そう」すみれの頭に血がのぼった。


わかっている。

そんなことは、誰よりも。


だからこそ。

「わかっています。だから、工場のホールなんです」


加藤は立ち上がり、コートの襟を正した。


「あそこには、客席に私しかいません。

あざみさんも、神山さんも、マスコミもいません。

あるのは、ただの「スタインウェイのD-254」。

あなたの指先だけです」


すみれは、紙袋を抱えたまま、ゆっくりと立ち上がった。


足元には、御手洗池から溢れ出した澄んだ水が、

細い流れを作って足元を抜けていくような感じがした。



「……1万円、返しそびれましたね」


「それは、これから始まるコンサートの『前売り券代』

として処理しておきます」


加藤のその言い方に、すみれはついに、声を出して笑った。

あんなに乾いていた喉が、今は少しだけ潤っている。


「行きましょう。

マテハン(マテリアルハンドリング)の会社が、

あなたの運命をどうハンドリングするのか、

見せてもらおうかな」


「最善のルートを構築します」


加藤はそう言うと、わずかに先を歩き始めた。

砂利を踏む彼の足音は、

まるで正確なメトロノームのように、


すみれの新しいリズムを刻み始めていた。


---




はい、あのです」


加藤は淡々としている。

工場の備品を言うみたいに。


すみれの頭が追いつかない。確認するようにもう一度聞く。


「なんで工場に「スタインウェイのD-254」があるんですか?」


加藤は少しだけ間を置いて言った。


「音を奏でるためです。わたしが一目ぼれしてで買ったからです」


「ひとめぼれで?」


「式典用に買ったものです」


すみれは笑うしかない。


「工場の式典で「スタインウェイのD-254」。…」

「いくらするんですか?」


「さあ、4000円」

「ハァ?」


「4000円です、わたし買います」

「間違いました。4000万でした」


桁の問題ではない。

この男にとっては、どちらも同じ“数字”なのだ。


「でしょうね」


加藤は真面目に続けた。


「だから、空いてます」


空いてます、の破壊力がすごい。

すみれの胸の奥で、何かがほどける。


神山に切られて、

鍵盤を失って、終わったと思っていたのに、

加藤がさらっと言う。


「スタインウェイ、空いてます」


世界はまだ、少しだけ変だった。



----

「どうします?」


「……見るだけなら」


加藤は初めて、ほんの少し笑った。


「はい。見るだけで十分です」


鹿嶋の工場は、町の端ではなく、町そのものみたいに立っていた。


海沿いの道を抜けると、

突然、鉄とガラスの壁が現れる。


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