20章 御手洗池(みたらしいけ)の再会
御手洗池
境内案内
すみれは階段降りていった。下には池があるらしい。
広く長い階段。
階段を下りきった先には、鏡のように澄み渡った
「御手洗池」が広がっていた。
1日に40万リットル。絶えることなく湧き出る水は、
池の底にある砂を静かに躍らせ、そこが神域であることを
無言で告げている。
すみれは、池のほとりに佇んでいた。
その透明な水面に、彼女の姿が映り込み、
現実と虚構の境界が溶けていく。
傍らにある茶屋から漂う香ばしい団子の香りが、
辛うじてすみれを現実に繋ぎ止めている。
池の底からこんこんと湧き出る水が、水面に微かな輪を描く。
すみれがその縁に立つと、彼女の輪郭が水鏡に映り込み、
現実の彼女と虚構の彼女が、
上下対称に世界を分かち合っていた。
至近距離。 彼女の瞳には、
御手洗池の湧水と同じ、どこまでも深い輝きがある。
心臓が、耳のすぐ後ろで爆音を立て始めた。
その時だった。
「――あの、すみません」
軽い衝撃が、右肩に走った。
驚いて振り向くと、
「加藤さん」
コンサートのいつもS席に座る50過ぎの紳士だった。
いつもお菓子をくれる男。
羊羹とか最中とか、渋い。
親戚のおじさん感がすごい。
花束なら重いし役に立たない、という判断らしい。
事実、その方が嬉しかった。
そんな加藤が忘れられないのは、最後のサントリーホールだった。
終演後、客席がほどけていくロビーで、
加藤はいつものように紙袋を差し出した。
「今日は、和音を間違いしましたね。これ」
袋の持ち手に紙が貼ってある。
すみれは、目の前の男——加藤の言葉に、一瞬思考がフリーズした。
「いきなりそこから話すのか」という戸惑いよりも、
彼が放つ異様な「真剣さ」に気圧されたのだ。
手渡された袋の持ち手には、
およそこの世のセンスとは思えない無骨なメモが貼ってある。
『拾った方はすみれさんに届けてください』
(……私、今、届けてる最中なんだけど)
すみれは困惑しながらも、促されるままに袋の中を覗いた。
そこには、仰々しいほど真っ白な封筒が一通。
表書きには、達筆すぎる字でこうあった。
**『すみれさまへ 加藤』**
「拾った方?」
すみれが首をかしげて問うと、加藤は微動だにせず、
鋼のような真顔で言い放った。
すみれは指先を震わせながら封筒の封を切った。
中から出てきたのは、折り目ひとつない、
新札の**一万円札**が一枚。
それを見た瞬間、すみれの脳内は「?」の嵐で埋め尽くされた。
「……あの、加藤さん。これ、一万円入ってますけど」
「はい」
「『すみれさまへ』って書いてありますけど」
「はい。私からあなたへの、落とし物です」
すみれは、御手洗池の湧水よりも澄んだ瞳で加藤を見つめた。
「……待ってください。
私が落とし物を拾ってあなたに届けたら、
中身が『私宛の手紙』で、
しかも『一万円』が入っていた……ということですか?」
「正確には、あなたが拾うことを前提に、
私がこの鹿島神宮の境内に『落とした』ものです。
いわば、運命の先行投資です」
加藤は、まるで国家機密でも明かすかのような厳粛な
トーンで続けた。
「その一万円は、今、あなたの手元にある。
つまり、あなたが『拾った方』であり、
同時に『すみれさん』本人であるという二重の条件が、
この御手洗池の前で完璧に証明されたわけです」
あまりの支離滅裂なロジック。
だが、加藤の目はどこまでも本気だった。
一万円を握らされたまま、すみれは思わず吹き出しそうになった。
「加藤さん。これ、ただの『自作自演のナンパ』ですよね?」
「いいえ。鹿島神宮における『遺失物のマッチング』です」
真顔で言い切る男。
茶屋から漂うみたらし団子の甘い香りと、
目の前の男が差し出したシュールな1万円札。
すみれは、のあまりに不器用で、
あまりに高額な初手に、
完敗を認めざるを得なかった。
一枚だけなら笑えるのに、
こういう封筒は、コンサートたびに何度もあった。
「水戸の梅羊羹と1万円札」
S席でも高いのに、いつも黙って座っている。
トータルで30万くらいにはなる。
少なくない金額だ。
「……直接渡してますよね?」
加藤は頷く。
「はい。でも、ゴミと間違えて、落としたら困るので」
理屈が変すぎる。落とす前提で準備している。
すみれは笑ってしまった。
「落とさないでください」
加藤は真剣に言う。
「一回落としました。でもおかげ届きました」
届いている。本人に。
追いかけ方が独特すぎる男だった。
「こんなところでお会いするとは、すみれさん。どうしてここに?」
加藤の声は相変わらず落ち着いていた。
驚いているようで、驚いていない。
最前列のS席にいるときと同じ顔で、仕立てのいい背広姿だ。
すみれは一瞬、言葉に詰まる。
「どうして、ここに?」
答えは簡単だった。
契約が切れて、マンションを出て、あざみの自慢話がつらくて、
アパートには帰れなくて、ただ海が見たくなった。
それだけのことだ。
でも、それをこの男に説明するのは妙だった。
「……お参りと、散歩です」
すみれはそう言って、
自分の声が思ったより平らなのに驚いた。
嘘ではない。
生活が変わって、歩くしかなくなっただけだ。
そして、神様にすがりたかっただけだった。
加藤は小さく頷いた。
「そうですか」
そして間を置いて、
まるで次の曲目を確認するみたいに続けた。
「最近、お見かけしないので……」
加藤は淡々と続けた。
まるで天気の話でもするように。
「――早瀬あざみさんの演奏は拝見しました。すごいですね」
その名前が、静かに刺さった。
すみれは一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
胸の奥に沈めていたものが、音もなく浮かび上がる。
「あざみは……」
言いかけて、言葉が途切れる。
妹の名前を口にするだけで、自分が薄くなる気がした。
加藤は表情を変えない。
褒め言葉の形をした確認だった。
「サントリーホールの公演も、評判でしたよ。
満員の客席が沸いていました」
すみれは笑うしかなかった。
笑えば、まだ大丈夫な人間に見える。
「……そうですか」
声は平らだった。
嫉妬でも怒りでもなく、ただ空洞だった。
加藤は小さく頷く。
「見かける場所がなくなったんです」
加藤は何も言わない。
ただ、少しだけ眉が動いた。
「……なるほど」
理解したのか、理解していないのか。
それでも加藤は、いつもの調子で紙袋を持ち上げた。
すみれは紙袋を受け取ったまま、しばらく動けなかった。
潮の匂いがする。
遠くで船の汽笛が鳴っている。
世界は何もなかったように続いている。
「……これから、どうしよう」
声は独り言だった。
加藤に向けたというより、自分の中から漏れた。
加藤はすぐに慰めない。
変に励まさない、ただ、少し考えるように間を置いた。
「どうもしなくても」
「……え」
「海を見ているだけでも、今日は」
すみれは笑いそうになって、笑えなかった。
「そんなので生活できない」加藤は頷く。
「はい,あたりです」
肯定するのか、とすみれは思う。
加藤は紙袋を指で軽く持ち上げた。
『梅羊羹 亀じるし』
「だから、これは差し入れです、
……お菓子で人生は立て直せません、羊羹は立て直しません」
真顔で言うから余計におかしい。
すみれは息を吐いた。契約が切れ、指先から音楽が奪われた。
狭いアパートの静寂に耐えかねて逃げてきたこの場所で、
突きつけられたのは「1万円札」
というあまりにも生々しい現実の塊だった。
すみれは、胸元で紙袋を固く抱え直した。
そこに貼られた「すみれさんに届けてください」
という奇妙なメモは、
加藤という男が客席から費やした5年間という時間
の重みでもあった。
「……弾く場所がないんです」
絞り出すようなすみれの言葉は、
御手洗池の冷たい空気の中に吸い込まれていった。
虚栄もプライドも削ぎ落とされた、剥き出しの告白だった。
加藤は表情を崩さない。慰めるような安っぽい笑みも浮かべない。
ただ、確信を持った声で短く返した。
「場所は、探せます」
その響きには、根拠のない希望ではなく、実務的な重みがあった。
海から吹き抜けてくる風が、すみれの頬を撫でる。
加藤が用意した一万円札と、強引なまでの再会のシナリオ。
それは、すべてを失って空っぽになったはずのすみれの手に、
無理やり握らされた「続き」のチケットだった。
彼女はまだ、何も答えていない。
ピアノのない部屋に戻れば、
また現実に押し潰されるのかもしれない。
けれど、砂利を踏みしめて歩き出す彼女の背中には、
さっきまでなかった微かな体温が宿っていた。
今日という日は、ただの終わりではなかった。
御手洗池の濁りのない水面のように、静かに、
けれど確実に、何かが底から湧き上がり始めていた。
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加藤は少しだけ目を細めた。
池の対岸、木々の間から差し込む光を眩しむような、
あるいは遠い記憶をなぞるような、そんな目だった。
「……あなたの音が止まると、困る人間がいるんです」
感情を排したような、乾いた声だった。
けれど、その言葉の芯には、
すみれが今まで受け取ってきたどんな拍手よりも重い質量があった。
「私が5年間、最前列にいたのは、
あなたのピアノを聴くためです。
それ以外の理由は、何もありません」
加藤は視線を池に戻した。
そこでは、絶え間なく湧き出す水が、
止まることなく静かに波紋を広げている。
「あなたが場所を失ったのなら、
私が探す。あなたが弾くのをやめたのなら、
私は再開するまで待つ。客というのは、そういうものです」
「勝手すぎます……」
すみれの声は、もう尖っていなかった。
紙袋の中の1万円札。不器用なメモ。茶屋の匂い。
目の前の男が差し出しているのは、
救済などという高尚なものではない。
執着に近い、ただの「客」としての我儘だ。
でも、だからこそ、
それは今のすみれにとって唯一信じられる手触りだった。
「加藤さん」
「はい」
「……お腹、空きました」
すみれがぼそりと呟くと、
加藤はようやく少しだけ、困ったように眉を下げた。
「茶屋があります。……団子なら、
私が『落とした』もので買えます」
「……最悪な冗談ですね」
すみれは小さく笑った。
頬を打つ海風はまだ冷たい。
けれど、足元に広がる御手洗池の青い水は、
止まることなく、明日へと流れ続けていた。
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