2章 旋律の港
2章 旋律の港
そのとき、1台のパトカーがとまった。
冷え切った彼女の指先が、柿沼の腕を、顔を、必死に掻きむしった。
爪が食い込み、鋭い痛みが走る。
柿沼は痛みに眉をひそめながらも、その細い身体を離さなかった。
彼女の指先に残る冷たさが、掻きむしられた痕の熱さと混ざり合い、
剥き出しの現実として彼に突き刺さる。
「……落ち着いて下さい」
柿沼の声は、逆上する彼女の叫びを遮るように静かだった。
パトカーのドアが開く音が響く。
柿沼は女を抱きしめたまま離さなかった。
今は彼女をこの世に繋ぎ止めるための、
確かな手応えのように思えた。
パトカーの赤色灯が、光っていた。
「離して、死なせてよ!」
女の叫びは、海風にさらわれ、
ひろい海原に吸い込まれていった。
それでも柿沼は、腕の中に伝わる激しい鼓動が、
少しずつ弱まり、やがて絶望に満ちた震えに変わるまで、
その身体を強く締めつけ続けた。
パトカーから降りた二人の警官が、
赤色灯の影を長く引きずりながら、
コンクリートを蹴る鋭い足音とともに駆け寄ってきた。
一人は無線機を握りしめ、周囲の状況を早口で本部に伝えながら、
もう一人の警官は腰の装備を鳴らし、
二人の間近まで踏み込む。
「警察です! 何をしている、離しなさい!」
「危ない、君! 離れるんだ!」
警官は女の手をつかんだ。
「離してよ、この人は関係ない……、
私が勝手にやったことなの!」
女は柿沼の腕の中で、今度は警官たちに向かって、
喉をかき切るような悲鳴を上げた。
警官の手が柿沼の肩にかけられ、二人を引き離そうとした瞬間、
彼女は崩れ落ちるように膝をつき、
コンクリートを叩きながら泣き叫んだ。
「ただの痴話喧嘩よ! 邪魔しないで!」
警官たちは顔を見合わせ、
懐中電灯の光を交互に二人の顔へぶつけた。
柿沼の頬から流れる血と、女の錯乱した様子。
事件か、あるいは心中未遂なのか----?。
その境界線で逡巡していた警官の一人が、
柿沼の静かすぎる瞳と、
女を庇うように添えられた手の甲の傷を見て、
短く吐息を漏らした。
「……身分証を見せていただけますか」
柿沼が無言で差し出したカードを確認し、
それが医師のものであると分かると、
現場の空気は微かに弛緩した。
女はまだ、コンクリートに額を擦りつけるようにして、
ため息を漏らしている。
「いいですか、先生。これ以上の騒ぎは困りますよ。
……あとは、あなたが責任を持って」
警官たちは、納得しきれないような、
それでいて厄介事から解放されたいような表情を浮かべ、
一人の警官が再びパトカーへと戻っていって無線で話をしている。
バタン、と重いドアが閉まる音が港に響く。
静まり返った鹿島の港には、また元の、
人間を拒絶するような巨大な構造物の沈黙だけが戻ってきた。
もうひとり警官は柿沼から視線を外し、
地面に崩れ落ちたままの女へ向けて、
鋭い光を放つ懐中電灯を向けた。
「職務質問だ、君、身分証はあるか。名前を確認させてもらう」
女は顔を上げず、乱れた髪の間から
コンクリートを睨みつけたまま、
ひび割れた声で答えた。
「……ないわよ」
「ない? 免許証も、保険証もか。持ち物を見せなさい、
携帯電話は持っていますね」
警官がさらに一歩踏み込み、威圧するように問い詰める。
女は自嘲気味に鼻で笑い、空になった両手を広げてみせた。
「何もないって言ってるじゃない。
全部、捨ててきたの。……名前なんて、もうどこにもないわ」
「名前を教えて下さい、それに住所も」
対峙する若い警官は、メモ帳を片手に、
イライラを隠そうともせずペンを走らせる。
「……あんたね、警察をなめるなよ、さっきからそればっかり。
こっちは仕事なんだ。職務質問だ。
身分証出せないなら、署まで来てもらうことになる」
ベテラン警官の苛立ちを含んだ声が、潮騒の中に低く響いた。
彼は手帳をポケットにしまい込み、
柿沼を値踏みするように睨みつける。
「名前と住所を言いなさい、
言わないのは不審者として保護します」
「わたし早瀬すみれです、証明するものはありません」
「住まいは、どこですか?」
「有明です」
「携帯を見せて下さい。これが最後通告です
拒否するなら、警察署に連行します」
すれは、アイフォンの個人情報の画面を開いた。
警官は、表示された番号に電話をかけた。
すみれの携帯をみせた。
警官は、その画面をみて、電話をかけた。
「柿沼先生、早瀬さんとの関係を教えて下さい、ここから先は
個人情報でから任意です」
「出会い系で今日、初めて会ったばかりです」
「喧嘩をして……彼女が先に車を降りてしまったんです。
私が目を離した隙に、あんなところまで……」
「はい、この人と、初めて会いました。この人、嘘ばかりいう
ので、頭にきました」
警官はしばらく考えていた。
こんな寂れた桟橋で、現場の警察官からすれば、
それは美談などではなく、単に「厄介な事件の火種」に過ぎない。
「出会い系ね-----
有明から、わざわざこんなところまで来て喧嘩か」
警官は納得のいかない表情で、手帳に書き留めた。
「分かりました、では。これで
お気をつけて下さい」
警官は警告するようにそう言い残すと、
同僚に顎で合図を送り、パトカーへと戻っていった。
赤色灯の光が遠ざかり、再び周囲に闇と潮騒が戻ってくる。
二人きりになった瞬間、
美幸は弾かれたように柿沼の手を振り払った。
「……どうして、合わせたりしたの」
彼女の瞳に、再び深い悲哀と、
自分自身への嫌悪が混じった色が宿る。
「出会い系だなんて。……あんた、私の名前も、
今さっき、初めて知ったくせに」
「港に行きましょう、風もないので」
パトカーのドアが閉まる。赤色灯が消え、
砂利を弾きながら車体が遠ざかっていく。
そのテールランプの赤が、
巨大なクレーンの影に溶けて完全に見えなくなるまで、柿沼は動かなかった。
背後に広がるのは、人間の意志が無理やり作り上げた巨大な構造物、鹿島の港。
もう誰も来ない。
助けも、邪魔者も。
柿沼は、腕の中でようやく静かになった女の、
凍えるような肩を再び強く抱きしめた。
だが、柿沼は決して力を緩めなかった。
ここで手を離せば、彼女は瞬時に黒潮の餌食となり、
二度と発見されることのない「永遠の旅人」になってしまう。
「離さない……! 数年前のあの女も、
きっと誰かにこうして欲しかったはずだ!」
柿沼の叫びが、激しい波音をねじ伏せた。
押さえ込まれた女の瞳に、激しい拒絶から、戸惑い、
そして行き場のない絶望が混濁して浮かぶ。
「……もう、どこにも行けない
……戸籍があっても、居場所なんてない……」
「居場所なら、この鹿嶋港の護岸にある!
僕が、今ここに君を繋ぎ止めている!」
女の力が、ふっと抜けた。
あれほど荒れていた呼吸が、小さなため息へと変わる。
「きみには、これからの人生がある」
背後では、巨大な風車がゴォ、ゴォ、と低く唸り続けている。
向かったのは、死の匂いが漂う桟橋とは反対の方向――
深く人口の入り江、外海とはまるで違っていた。
「見てごらん。あそこに並んでいる光は、
全部誰かが働いている証拠だ。君を吸い込もうとした黒潮も、
あの巨大な船の前では、ただの通り道でしかない」
鹿島港の岸壁に立つと、ナトリウム灯のオレンジ色の光が、
女の青ざめた顔を照らし出した。
女は、巨大なガントリークレーンが空を切り裂く様子を、
呆然と見上げていた。
「……あんなに大きなものが、動いてる」
「そうだ。君が透明になろうとしても、
この街の熱気は君を許さない。生きて、
ここに立っていることを、この光が証明してしまうんだ」
女の瞳に、鹿島港の暴力的なまでの灯火が反射する。
永遠の旅人として海を彷徨うはずだった彼女の足が、
今、鹿嶋港の平らなコンクリートの固さを踏みしめていた。
この港は、巨大な工業の装置であると同時に、
関東一円からの人間を受け入れる広大な余白も持っていた。
人間の背中は点在し、互いに干渉することもなく、
広大なコンクリートの余白にぽつり、ぽつりと置かれている。
柿沼信也、三十歳。
釣り竿を握るその手は、何かを求めているわけではない。
足元のテトラポットの隙間に、
一匹数千円で取引される「イセエビ」が潜んでいようと、
あるいは竿先を揺らすのが名もなき雑魚であろうと、
彼にはどうでもよかった。
信也が求めているのは、獲物ではなく「やすらぎ」だった。
「……広いですね」
我に返ったか、思ったより、女の声は優しかった。
柿沼は、女の肩から手を離した。
そして、車の保温兼冷蔵庫から、お茶を差し出した。
すみれは、暖かいお茶を一口飲んだ。
「……そうですね。広すぎて、
自分がどこにいるのか分からなくなるくらい」
信也は、再び海へと視線を戻した。
彼女がなぜ、あの桟橋にいたのか。なぜ、死を望んだのか。
「お名前を教えて下さい、わたし早瀬すみれです」
「……柿沼、信也です」
信也は、海面を見つめたまま短く答えた。
自分の名を口にすると、透明になりかけていた自分の輪郭が、
再びコンクリートの上に固定されるような感覚があった。
「早瀬……すみれ、さん」
彼は、その響きを一度だけ確かめるように繰り返した。
「さっきは、ありがとうございました。
柿沼さんに腕を掴まれたとき……熱くて、
びっくりしちゃった。海はあんなに冷たかったのに」
一拍置いて、信也は真顔で続けた。
「おかげで腕も顔も傷だらけです……」
「でも、正直、ちょっと快感でした」
「は?」
「いや違います!言い方を間違えました!」
すみれは、自分の手首をさすりながら、
少しだけ寂しげに、けれど優しく微笑んだ。
「先生、出会い系だなんて---」
拍
「適当に言ったまでです」
「分かりました、先生、登録しているんでしょう?」
「聞いたことはあります。登録はしていません」即答
「じゃあ、なんでそんなに詳しいんですか」
「詳しくないです!」
すみれは小さく笑って、首を傾げた。
「だったら、柿沼さん」
少しだけ声が柔らかくなる。
「本当に恋人になったら、面白いと思いません?」
信也は固まった。
「……それは、ないと思います」
「即答なんですね」
「即答です」
「すみれさんとなら、悲哀のラブコメになるから」
「だれがですか?」
すみれは吹き出しそうになって、
「ぼくがです」
「先生、うまいよ。なに、それ」
「だれが悲哀にするんですか?」
「一人では悲哀になりません。すみれさんです」
「わたしがですか?」
「すみれさんは、蠱惑的ですから---」
「こわく的?。意味、分かりません」
「ぼくはこう見えても詩人ですから、人を惑わすです
という意味です」
「……先生、じゃあ惑わされてるんですか?」
「えっ」
「詩人なんですよね?」
すみれはわざとらしく首を傾げる。
「だったら、こういうの弱いんでしょう?」
「……そういうつもりじゃ……」
「わたしは惑わせません」
きっぱり言いながら、
口元だけが少し笑っている。
「ただ、先生が勝手に転びそうなだけです」
「……すみれさん」
「ほら。今の顔、悲哀のラブコメです」
「わたしはしません」
「だったら、柿沼さん、本当に恋人となったら、
面白いと思いません」
「それは、ないと思います」
「それは先生ですよ、もて過ぎて困っているんでしょう?」
「これは、願望です」
「すみれさんこそ、モテ過ぎでしょう」
「モテたら、あんなことしません」
「……必死だっただけです。
いろいろとあって、海で死のう思ったんです」
「あなたには、輝かしい未来があるし、
若さもある。可愛いところもある」
「君が、その『可愛いところもある』
顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、
あんなに必死に俺の腕を拒絶したとき……その拒絶の力が、
俺には『生きたい』っていう叫びに聞こえたんだ」
「そのエネルギーは、アクティブに使う。
死ぬために使うにはあまりにもったいない」
すみれは黙って、信也の不器用な横顔を見つめた。
「アクティブ」なんて、
今の自分から一番遠い場所にある言葉だと思っていた。
けれど、この不器用な男が、自分を消したいと願う男が、
懸命に捻り出したその言葉だけは、なぜか嘘には聞こえなかった。
すみれは、
そのにつかわしくないほど前向きな言葉を反芻するように呟いた。
潮風に吹かれ、絶望の淵にいた自分に向かって投げかけられた
『輝かしい未来』という言葉。
それは、今の彼女にとってはあまりに眩しすぎて、
直視できないほどだった。
「……柿沼さん。あなたは、
自分の未来を輝かしいって、信じてるんですか?」
「ぼくはそう思っています、
そういうネガティブな発想は良くない」
「生きるということは、夢を持つことだ」
「……夢、ですか。この状況で?」
「いつでも夢を、です」
「いつでも……?」
「でなかったら、すみれさんは、生きられないと思う、
そういう後ろ向きな発想は良くない、心を簡単に沈ませる」
信也の声は、夜の静寂を切り裂くように真っ直ぐだった。
「生きるということは、夢を持つことだ」




