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19章 鹿島神宮の衝撃

タクシーは森の入口で止まった。

「鹿島神宮だよ」


すみれは料金を払って降りた。


空気が違った。


木の匂い。

冷たい影。

鳥の声。


鹿島神宮の大きな鳥居は、空を切り取るように立っている。

その向こうに続く道は、昼の光の中でもどこか暗く見えた。


すみれは立ち止まり、背後を振り返る。

駐車場。

車の音。


遠くで聞こえる人の話し声。


鬱蒼とした参道のスギとヒノキの森。

巨木に囲まれた空間は、

下界とは明らかに温度も湿度も異なっている。


砂利を刻む自分の足音だけが、耳元で執拗に響いていた。

港の潮の匂いが遠ざかり、

代わりに深い対の木の緑が胸に入ってくる。


参道には人が大勢いた。


赤いユニフォームの若者。

観光客。

地元の老夫婦。

人が多すぎる。


みんな、それぞれの目的で歩いている。

すみれだけが目的を持っていない。


鳥居をくぐる。


砂利を踏む音がやけに大きい。


神様の場所に来たのに、

胸の中は空っぽだった。


祈りたいことがない。


恋が叶いますように。


そんなことを願うほど、

自分は純粋じゃない。


仕事がうまくいきますように。

生活が楽になりますように。


そういう願いは、

神様に言うには生々しすぎる。


妹が成功しますように。

それはもう、叶っている。


柿沼に会えますように。


それは――

言った瞬間に惨めになる。


すみれは歩いた。


森は静かで、

静かすぎて、自分の情けなさだけが響く。


拝殿の前に立つ。

鈴の緒。

賽銭箱。


手を合わせる人たち。


すみれも真似をして立った。


財布から小銭を探す。

指先が冷たい。

賽銭を落とす音が乾いて響いた。


鈴を鳴らす。


音は澄んでいるのに、

心は澄まない。


手を合わせる。


目を閉じる。


――何を祈ればいい?


言葉が出てこない。


願いがないのではなく、

願いが多すぎて、

どれも口にするのが怖いのだと気づく。


叶わなかったとき、自分が壊れるから。


すみれは目を開けた。

神様は何も言わない。


森も何も言わない。

世界はただ静かだ。


すみれは小さく笑った。

祈ることがない。


祈れない。


そんな人間がここに立っている。


恋も、音楽も、人生も、

うまくいかないまま。


拝殿の前で、

ただ立っているだけ。


すみれは深く息を吐いた。


そして思った。


会いたい。


祈りじゃなくて、

それだけが本音だった。


でもそれすら、誰にも届かない。


森の風が吹く。


葉が揺れる。


神様の場所で、すみれはひとりだった。


---


拝殿を離れて、すみれは参道を歩いた。


森の影は深く、砂利を踏む音だけが響く。


祈ることがないまま、ただ歩いている。







そのときだった。


見覚えのある輪郭、すみれは足を止めた。

柿沼信也だった。


そんなはずはない。


でも――柿沼信也だった。


胸が一瞬で熱くなる。


柿沼はふと、鹿たちが群れる柵の前で足を止めた。

そこで、彼女を見てしまった。


若い女だった。しかもすらりとした可愛い子だった。



彼女は鹿に餌をあげるでもなく、

ただ静かに一頭の牡鹿と視線を交わしていた。

神の使いとされる鹿の、濡れた黒い瞳。


それを見つめる彼女の横顔に、

木漏れ日が「ふい」となって降り注いでいる。


木立の向こうに、人影が見えた。


白いシャツ。

少しだけ猫背。


呼びかけようとして、声が出なかった。


彼はひとりではなかった。

隣に、若い女がいた。


髪をまとめた横顔、距離が近い。


神宮の静けさの中で、

その近さだけが異様に目立つ。


柿沼が何かを言う。

女が小さく笑った。


笑い声は届かないのに、

すみれの胸だけがはっきり痛んだ。


港にはいなかった。


連絡もなかった。


それなのに、ここでは誰かといる。

すみれは動けなかった。


怒りではない。


悲しみでもない。


もっと鈍いもの。


自分が勝手に期待して、

勝手に来て、勝手に傷ついているとわかる痛み。


周囲にいたはずの参拝客の気配が霧のように薄れ、

視界には「彼女」と「光」と「古の森」だけが残った。


柿沼は医師の顔ではなかった。

救急の男でもない。


ただ、誰かと並んで歩く男だった。

その事実が、残酷だった。


柿沼がこちらを見ることはない。


彼の世界は前に進んでいる。


すみれの世界だけが止まっている。


祈ることがない。


祈っても届かない。


恋は得意じゃない。


そう言ったのは彼だったのに。



得意じゃないまま、

人は誰かと並んで歩けるのだ。


すみれは視線を落とした。


見なかったことにしたかった。

でも、見てしまった。


胸の奥が静かに崩れていく。

すみれは踵を返した。


音を立てないように。


振り返れば、もう戻れなくなるから。


森の風が吹く。


葉が揺れる。


神様の場所で、すみれは、またひとりだった。


みずから柿沼に抱かれて、勝ってに未来を想像した女が

の影か道路に落ちいている。

「もういいよ」

すみれは、歩き出した。





御手洗池みたらしいけ

境内案内


すみれは階段降りていった。下には池があるらしい。

広く長い階段。

階段を下りきった先には、鏡のように澄み渡った


「御手洗池」が広がっていた。

1日に40万リットル。絶えることなく湧き出る水は、

池の底にある砂を静かに躍らせ、そこが神域であることを

無言で告げている。


すみれは、池のほとりに佇んでいた。


その透明な水面に、彼女の姿が映り込み、

現実と虚構の境界が溶けていく。


傍らにある茶屋から漂う香ばしい団子の香りが、

辛うじてすみれを現実に繋ぎ止めている。


池の底からこんこんと湧き出る水が、水面に微かな輪を描く。


すみれがその縁に立つと、彼女の輪郭が水鏡に映り込み、


現実の彼女と虚構の彼女が、

上下対称に世界を分かち合っていた。


至近距離。 彼女の瞳には、

御手洗池の湧水と同じ、どこまでも深い輝きがある。

心臓が、耳のすぐ後ろで爆音を立て始めた。


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