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18章 鹿島港の余白

6月10日- 鹿嶋港


月日の経つのは早いもので、6月10日を迎えた。

柿沼からの連絡はなかった。

自分から、連絡もしていない。



電車は、ゆっくりと東京の輪郭をほどいていった。


ビルの窓に反射する夕光が流れ、


ホームの白線がするりと後ろへ引いていく。

レールの継ぎ目を踏むたび、

床の奥から小さな震えが伝わり、


車内の空気も一緒に揺れた。

窓ガラスにふと自分の顔が重なる。

目の下の影が蛍光灯に容赦なく照らされ、


口元は力を失っている。

今日一日の言葉の残りかすが喉の奥に貼りついたままで、


息をするたびそれが擦れて、微かな痛みになった。


車内には、妙に明るい集団がいた。


赤い。とにかく赤い。

アントラーズのサポーターらしく、

赤と黒のユニフォームにマフラータオル、

背中に番号の入ったシャツ、胸に誇らしげな鹿のエンブレム。


誰かのリュックには丸めた旗が差し込まれ、

別の誰かはステッカーの貼られたケースを膝に抱えている。


笑い声が弾むたび吊り革がかすかに揺れ、

缶のプルタブが乾いた音を立てた。


炭酸と汗と、


どこかのスタジアムの芝の記憶みたいな匂いが混ざり、


車内の温度がほんの少し上がる。


彼らはうるさいわけではない。

むしろ礼儀正しく、足元を揃えて座っている。

それでも、明るさの圧がある。


窓の外の建物はまだ高く、まだ密だった。

標識の文字が読めない速度で過ぎ、広告の色が一本の線になる。


東京は遠ざかるというより、徐々にほどけて、

糸の先に戻っていくみたいだった。


私は窓に映る自分の顔をもう一度見て、

疲れの輪郭を指でなぞるようにまばたきした。



やがて、景色の奥に水面が現れた。

街の硬い表面がふっと途切れ、空が広がり、川が横切る。


江戸川だ、と遅れて理解する。

橋を渡る間、鉄の骨が風を鳴らし、車輪の音が少しだけ乾いた。

水は夕方の色を映して、灰青に沈んでいる。


土手には走る人が小さく見え、

犬のリードが糸のように伸びたり縮んだりしていた。


川を越えた途端、境目のない境目が身体に触れた。


窓は閉まっているのに、空気の匂いが変わった気がする。

線路沿いの樹木が増え、低い家の屋根が続き、

空の割合が大きくなる。


「今、千葉に入った」と、頭より先に胸が言う。

東京で溜めたものが、ひとつ息を吐く隙間を得たようだった。


黒く起こされた土、刈り残した稲の短い影、


水の張った田に映る薄い雲。


アントラーズのサポーターたちは、

窓の外に一瞬だけ視線をやって、また仲間へ戻る。


誰かがスマホで撮ったスタジアムの写真を見せ、

別の誰かが「この場面、鳥肌だった」と指でなぞる。


声は小さくても、熱だけが残っていて、

車内に透明な炎があるみたいだった。



すみはその炎を、うらやましいと思った。

自分には今日、何をそんなふうに語れるだろう、と。



列車は次の駅へ向けて速度を落とし始める。

ブレーキの音が長く伸び、背中が軽く押される。

車内の赤い集団が立ち上がり、荷物を整える。


マフラータオルを畳む手つきが丁寧で、

旗の棒がどこにも当たらないよう慎重に向きを変える。


すれ違いざま、赤いシャツの一人が「お疲れさまです」


と小さく会釈した。

私も反射的に頭を下げた。


知らない相手なのに、その一言が妙に胸へ落ちた。


大きなバッグ。


アントラーズのロゴ。


試合の日なのだ。


若い男たちが笑いながら話している。


「今日勝てば2位だろ」


「鹿島のスタジアム飯、食う?」


その声は軽い。


---


鹿島神宮駅に着く。

小さな駅舎。


森の匂い。


ロータリーにはすでに赤い人波があった。


アントラーズのサポーターたちが

バスを待っている。


笑い声。写真。旗。


街がイベントみたいに動いている。


すみれはその横を通り過ぎる。


誰も自分を見ていない。


そのことが少しだけ救いで、

少しだけ痛い。


みんな、どこかへ向かっている。


応援。約束。仲間。


自分だけが、理由のないまま歩いている。


港のほうへ。


あの屋台があるかもしれない。


柿沼がいるかもしれない。

いないかもしれない。


すみれは改札を抜けた。


森を背にして、海のほうへ向かう。


赤い歓声から遠ざかるほど、

自分の足音だけがはっきりする。


逃げるように。


鹿島の昼へ。約束のない海へ。


---



街が誰かの「目的」で動いている。


すみれはその横を通り過ぎる。


自分だけが理由のないまま立っている。


逃げるように。


ロータリーの端にタクシーが一台、止まっていた。

運転手が新聞を畳んで顔を上げる。


「どちらまで?」


すみれは少し迷ってから言った。


「鹿嶋港まで、お願いします」


「港ね。試合の日は混むよ」


運転手はそう言いながら、車を出した。


窓の外に赤い群れが流れていく。


応援に向かう人たち。


未来がある人たち。


すみれは視線を落とした。


タクシーの中は静かだった。


メーターの音だけが現実を刻む。


森が遠ざかり、

街が途切れ、空が広がっていく。


港へ向かう道は、どこか寂しい。


すみれは膝の上で手を握った。


何をしに行くのだろう。


連絡もない。


約束も曖昧だ。


会える保証なんてない。


それでも、行くしかなかった。


自分の部屋に戻るより。


妹の舞台を想像するより。


---

タクシーは潮の匂いのする方へ曲がった。


空気が変わる。


「着いたよ、鹿嶋港、わたしの名刺」


運転手の声。

すみれは名刺を受け取り、料金を払って降りた。


裏面には手書きの携帯番号。


「ここじゃあ、アプリもアテにならんでしょう。


帰り、困ったら呼んで」

走り去る窓から、運転手がひらひらと手を振った。



風が強い、魚の匂い。


濡れたコンクリート。

---



朝の港は、現実の顔をしている。


屋台があるだろうか。


湯気が見えるだろうか。


そして――


柿沼は、いるだろうか。


すみれは歩き出した。


角を曲がる。


前にいった場所。


簡素な軽トラの屋台。


鍋。

湯気。……ある。


初老の男がひとり、鍋をかき混ぜている。


「いらっしゃい」


声だけが普通だった。


すみれは立ち尽くした。


探していた背中はない。


釣り人二人いた。ラーメンを無心に食っている。


真面目に眉を寄せて麺を持ち上げて笑っている。


柿沼信也は、いなかった。


当然だ。


医師だ。


救急だ。

「約束」なんて、今となっては砂上の楼閣のようなものだ。

海から引き揚げられた恩を肉体で精算しようと、自ら誘い、いとも簡単にすべてを許してしまった女。


頭では、分かっている。

あの夜の出来事は、極限状態が生んだエラーであり、一回きりの取引に過ぎなかったのだと。彼は医師で、自分はただの「救急搬送された患者」だったのだと。


けれど。


**でも、胸が遅れて痛む。**


理屈で自分を納得させたあと、時間差でやってくる鈍い衝撃。

「自業自得だ」と脳が冷徹に断じるその背後で、心臓がじりじりと熱を帯び、やがて呼吸を困難にするほどの痛みに変わる。


**でも、胸が遅れて痛む。**


理屈のあとから、剥き出しの感情が、泥を被ったまま這いずって追いついてくる。


あの日、彼の腕の中で感じた「生」の震え。自分を繋ぎ止めてくれた手の温もり。それらが記憶の深層から浮かび上がり、今の空虚な静寂を容赦なく抉っていく。


後悔という名の毒が、血管を伝ってゆっくりと全身に回っていくような感覚。

「忘れなければいけない」という正論が、かえって彼への渇望を、より鮮明に、より醜悪に浮き彫りにしていた。






「約束」なんて、今思えば冗談のようなものだ。

命を救われた恩義を、あろうことか肉体で精算しようと目論み、

自ら誘い、いとも簡単にすべてを許してしまった女。


頭では、痛いほど分かっている。

あの夜の熱情は、死の淵にいた者が縋りついた幻影に過ぎず、


彼はただ、差し出されたものを拒まなかっただけなのだ。


けれど、心はどうしても辻褄を合わせられない。


頭ではわかっている。


でも胸が遅れて痛む。でも胸が遅れて痛む。

理屈のあとから、感情が追いついてくる


すみれは自分の足元を見た。


ここまで来てしまった。


鹿島神宮駅からタクシーに乗って。

逃げるように、何を期待していたのだろう。


屋台の男が言う。


「食べるかい?」


すみれは首を振った。


「……いいえ」


声が小さすぎて、自分でも聞こえない。


男は気にせず鍋をかき混ぜる。


港は動いている。


魚を運ぶ人がいる。


トラックが通る。


クレーンがゆっくり腕を動かす。


世界は何も変わらない。


変わったのは自分だけだ。


すみれは笑ってしまいそうになる。


みじめだった。


恋に逃げて、

約束に縋って、誰もいない港に立っている。


スマホを取り出す。


画面は静かだ。


柿沼からの連絡はない。


妹はサントリーで光の中にいる。


自分は港の風に吹かれている。


すみれは息を吐いた。


潮の匂いが肺に入る。


「……帰ろう」


誰に言うでもなく呟いて、すみれは背を向けた。


振り返らなかった。


振り返っても、

誰もいないから。約束だけが、そこに残るだけだから。


---


鹿嶋港は風が強かった。


魚の匂い。

濡れたコンクリート。

湯気だけが立っている屋台。


すみれは立ち尽くした。


ここまで来てしまった。


鹿島神宮駅からタクシーに乗って。

逃げるように。


誰もいない港に、ひとりで。


みじめだった。

笑ってしまいそうになるほど。


そのとき。


背後でエンジンの音がした。


振り向くと、ちょうど一台のタクシーが港の端に滑り込んで止まった。


運転手が窓を開ける。


「お客さん、乗りますか?」


偶然。


ただの偶然。

でもそれが、妙に救いだった。


ここから歩いて帰るには遠い。とても歩けない。


ここに居続けるのはもっとつらい。


すみれは小さく頷いた。


「……お願いします」


ドアが開く。


タクシーの中は暖かかった。


港の風が遮断される。


すみれは座った瞬間、息を吐いた。


運転手が言う。


「どちらまで?」


すみれは少しだけ迷った。


駅に戻る、と言えば終わる。


帰る、と言えば現実に戻る。


でも今はまだ戻れない気がした。


すみれはぽつりと言った。


「鹿島神宮まで」

運転手は頷いた。


「神宮ね。今日は人が多いよ。試合もあるし」

車が動き出す。


窓の外で港が遠ざかる。

湯気も、屋台も、約束も。


全部、後ろに流れていく。


すみれは膝の上で手を握った。


恋に逃げて、誰もいなくて、

それでも世界は進む。


タクシーは森のほうへ向かっていった。






タクシーは森の入口で止まった。

「鹿島神宮だよ」


すみれは料金を払って降りた。


空気が違った。


木の匂い。

冷たい影。

鳥の声。


鹿島神宮の大きな鳥居は、空を切り取るように立っている。

その向こうに続く道は、昼の光の中でもどこか暗く見えた。


すみれは立ち止まり、背後を振り返る。

駐車場。

車の音。


遠くで聞こえる人の話し声。


鬱蒼とした参道のスギとヒノキの森。

巨木に囲まれた空間は、

下界とは明らかに温度も湿度も異なっている。


砂利を刻む自分の足音だけが、耳元で執拗に響いていた。

港の潮の匂いが遠ざかり、

代わりに深い対の木の緑が胸に入ってくる。


参道には人が大勢いた。


赤いユニフォームの若者。

観光客。

地元の老夫婦。

人が多すぎる。


みんな、それぞれの目的で歩いている。

すみれだけが目的を持っていない。


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