17章 燃える嫉妬
一週間が過ぎた。
柿沼からの連絡は、ただの一度もなかった。
枕元に置いたスマートフォンは、
冷たいプラスチックの塊のまま沈黙している。
通知も、着信も、彼の名前が画面を灯すこともない。
救急外来(ER)は忙しいのだろう。
医師という人種は、
そういうものなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、納得させたふりをする。そうしなければ、
すみれは、立っていられなかったからだ。
自ら誘った。
自ら、あの熱の中に身体を投げ出した。
波にさらわれかけた命を拾われ、
その救いの代価を探して、
すみれは一番安易で、一番愚かな形で自分を差し出してしまったのだ。
(私が、自分で選んだこと)
そう心の中で反芻するほど、
胸の奥は鋭利な刃で削られるように痛んだ。
誰のせいにもできない。加害者がいないからこそ、
後悔は行き場を失い、自分の内側を執拗に突き刺し続ける。
柿沼は、強引に奪ったわけではない。
むしろ彼は、壊れ物を扱うように慎重で、
そして、どうしようもなく優しかった。
その優しさが、今のすみれには何よりも残酷だった。
あれは、命を繋ぎ止めてくれたことへの「恩返し」だったのか。
それとも、束の間の「恋」のつもりだったのか。
あるいは単に、
死の淵で味わったあの底冷えする孤独が、怖かっただけなのか。
正解が分からないまま、
彼女は今日も、音のない部屋で自分の呼吸だけを数えている。
「できたね」
「もう少しだよ」
笑顔は癖みたいに貼りついていた。
夕方。
最後の生徒が帰ると、教室に残るのはピアノと自分だけ。
蛍光灯の白い光。
黒い鍵盤。
音のない沈黙。
すみれは椅子に座ったまま、
ただ蓋の閉じたピアノを見ていた。
スマホの微かな震えに、心臓が勝手に跳ねる。
指先が震える。
柿沼かもしれない。
一週間の沈黙が、その一回の振動で報われるのではないか。
そんな卑屈な期待を抱きながら、
すみれは縋るように画面を覗き込んだ。
けれど、通知に並んだ名前は、彼ではなかった。
**『あざみ』**
その三文字を見た瞬間、跳ねた心臓が急速に冷えていく。
期待した分だけ、落差が鋭い痛みとなって胸を抉った。
《今夜、リハ。すごく良かった》
短い一文に添えられていたのは、
サントリーホールでのリハーサル動画だった。
すみれは、見たくないという本能を、
抑えきれない渇望が上回るのを感じながら、
指先でその動画を開いてしまう。
画面の中には、眩いほどの「光」があった。
サントリーホールの高い天井。
磨き上げられたステージ。
照明を反射して真珠のように光るあざみの肩と、
彼女の背後に控える巨大なオーケストラ。
**――一音目。**
あざみが鍵盤に指を落とした瞬間、
画面越しでも空気の粒子が震えるのがわかった。
静寂を切り裂くのではなく、支配する音。
迷いも、澱みも、生活の苦しさも一切混じっていない、
純粋な音楽の結晶。
客席にいる関係者たちが、一斉に息を呑む気配が伝わってくる。
あざみの音は、強い。
世界がその音を待ち望んでいたかのように、
旋律は自然に、
かつ圧倒的な必然性を持ってホールを満たしていく。
「……あざみ」
すみれは、スマホの小さな画面を凝視したまま動けなかった。
画面の中では、弾き終えたあざみが、
満足そうに、無垢に、そして最高に「正しい」笑顔を見せていた。
ふと顔を上げると、
スマートフォンの光が消え、部屋に本当の暗闇が戻った。
そこにあるのは、サントリーホールの静謐な余韻ではない。
隣人の生活音が透ける薄い壁。
湿った洗濯物の匂い。
そして、ヘッドホンをしなければ音を出すことさえ許されない、
無機質な電子ピアノ。
**悲しかった。**
妹を誇りに思えない自分が。
妹の成功を、
自分の欠落を確認するための鏡にしてしまう自分が。
そして、
この絶望的な静寂を塗り潰してくれるかもしれない
男からの連絡を、
今もまだ待ち続けている自分が。
画面の中のあざみは、
オーケストラという運命を味方につけていた。
けれど、今のすみれには、自分を裁く沈黙しか残されていない。
「……どうして、私はここにいるの」
呟いた声は、誰に届くこともなく、
狭い部屋の隅で虚しく消えた。
柿沼からの連絡はない。
音楽は、もう自分を愛してはくれない。
すみれはスマホを布団の上に放り出し、
膝を抱えて、暗い天井を見つめた。
彼女の耳の奥では、あざみの完璧な一音目と、
あの日、鹿島の海で鳴っていた不協和音が、
今も激しくぶつかり合っていた。
こちらには、拍手などない。 眩い照明も、
高揚するオーケストラの気配もない。
あるのは、幼い生徒が繰り返す無機質な打鍵の間違いと、
淀んだ空気のような疲れ、
そして、すべてが終わったあとに訪れる重苦しい沈黙だけだ。
同じピアノなのに。 同じ、白と黒の鍵盤を叩いているはずなのに。
妹は聖域の真ん中で喝采を浴び、
姉は埃っぽいレッスン室で「指番号が違うよ」と、死んだ言葉を吐き出している。
みじめだ、と素直に思う。
けれど、それは刺すような嫉妬とは少し違っていた。
もっと深く、
鈍く、逃げ場のない場所をじわじわと侵食していく痛みだ。
すみれにだって、あったのだ。
かつて。
サントリーホール、東京文化会館、紀尾井ホール。
その名前を頭に浮かべるだけで、古傷が疼くように胸が痛む場所。 赤坂の湿った夜。
上野の刺すような冬の空気。
舞台袖の暗闇から一歩踏み出したとき、
照明の白さだけが唯一の現実に見えた、あの感覚。
コンサートで何度も座った、あのピアノ椅子。
磨き上げられた木の硬さ、
鍵盤に向かうときの膝の角度、重心の置き所。
それらを、すみれの身体は今も鮮明に覚えている。
指先が覚えているのは、美しい旋律だけではない。
「自分こそが、この世界の中心にいる」
と信じられていた頃の、あの傲慢なまでの全能感だった。
気づけば舞台ではなく、蛍光灯の下にいる。
音楽を教えるという営み、そのものを否定したいわけではない。
けれど、かつて自分が魂を置いてきたその場所に、
今、妹が立とうとしている。その事実が、
防護服の上から針を刺されるように、
じりじりと胸の奥を突き刺す。
すみれは指先で動画を止めた。
静止した画面の中で、
あざみは圧倒的な光の粒子に閉じ込められたままだ。
その輝きは、今のすみれが吸う埃っぽい空気とは、
成分さえも違うように見えた。
《すごいね》
そう返すべきなのだ。姉として、かつての先駆者として。
けれど、震える指は一行のメッセージさえ打ち返すことができない。
代わりに、逃げるようにスマートフォンを裏返した。
柿沼からの連絡が途絶えていることと、
妹が眩い場所で喝采を浴びていること。
この二つは、全く別の方角からやってくる痛みのはずなのに、
なぜか胸の「同じ場所」を、同じ深さまで正確に抉っていく。
「……ふふ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
笑うしかなかった。
サントリーホールのソリストと、
下町のレッスン室で「指番号」を数える女。
同じ血が流れているはずなのに、
その落差があまりに滑稽で、あまりに無慈悲だった。
あの港で交わした「ラーメンを食べる」
というささやかな約束さえ、日常の濁流に呑み込まれ、
色彩を失っていく。
柿沼の、あの無機質でいて温かかった手の感触が、
もう思い出せない。
「……会いたい」
音楽を教えることが悪いわけじゃない。
でも。
かつて自分が座った場所に、妹が立とうとしている。
それが痛い。
すみれは動画を止めた。
止めた画面の中で、
あざみは光の中に閉じ込められたままだ。
《すごいね》と返すべきなのに、
指が動かない。
代わりにスマホを伏せた。
柿沼からの連絡がないことと、
妹が輝いていることが、なぜか同じ場所を刺してくる。
すみれは小さく笑った。
笑うしかない。
ソリストの妹と、レッスン室の姉。
港のラーメンの約束さえ、現実の中で薄れていく。
「……会いたい」
声にすると、
それは恋ではなく、救いみたいだった。
スマホがまた震えた。
すみれは一瞬だけ身構えた。
柿沼かもしれない、でも違う。
あざみだった。
《姉ちゃん》
短い呼びかけ。
続けて、すぐ。
《サントリー来て》
すみれは画面を見つめた。
サントリー。
その二文字が、胸の奥を正確に刺す。
《本番、もうすぐなんだ》
《チケット取れる》
《姉ちゃんに聴いてほしい》
あざみの言葉はまっすぐだ。
悪意なんてない。
ただ、世界の中心にいる人の無邪気さだった。
すみれは息を吐いた。
聴いてほしい。
それは昔、自分が誰かに言いたかった言葉だ。
でも今は違う。
今の自分は、客席に座る側だ。
しかも妹の舞台を見上げる席。
すみれは親指を動かす。
《すごいね》と打って、消す。
《忙しいから》と打って、消す。
忙しいのは本当だ。
レッスンはある。
生活もある。
でも、それだけじゃない。
サントリーホールは、場所じゃない。
過去だ。
失ったものだ。
あざみが立つ舞台は、
すみれが降りた舞台だ。
《姉ちゃん、絶対来て》
追い打ちのようにメッセージが届く。
すみれは笑ってしまいそうになる。
絶対。
妹は簡単に言う。
絶対、なんて言葉を
人生で一度でも信じられた人の声だ。
すみれはスマホを握った。
指が震える。
柿沼からは何も来ない。
妹からは光が来る。
その差が、残酷だった。
すみれは小さく打った。
《考えるね》
たったそれだけ。
送信。
既読がつく。
すぐに返信。
《やった!待ってる》
その明るさが、眩しい。
すみれはスマホを伏せた。
教室の蛍光灯が白い。
鍵盤は黒い。
世界は静かだ。
サントリーホールは遠い。
鹿島も遠い。
すみれは椅子に座ったまま、
動けなかった。
「……会いたい」
誰に、なのかもわからない声が落ちる。
恋なのか、過去なのか、救いなのか。
ただ胸が痛い。
嘘をついた夜。
すみれは興奮して眠れなかった。
妹の《また次があるよ!》が、
明るいまま胸に残っている。
次。
次なんて、あざみにはいくらでもある。
すみれにはもう、ないのに。
スマホを開く。
柿沼からは何も来ていない。
港のラーメンの約束も、
潮来駅の朝も。全部こちらだけの夢だったみたいに思える。
待つのは得意じゃない。
でも待ってしまう。
待って、何も来ない。
その空白が、もう耐えられなかった。
すみれは起き上がった。
服を掴む。
財布を入れる。
何をしているのか、自分でもわからない。
ただ、ここにいたくなかった。
サントリーには行けない。
妹の光には触れられない。
なら――
鹿島。港。
柿沼信也。
会いたいというより、逃げたい。
自分から。
みじめさから。
すみれは駅へ向かった。
月日の経つのは早いもので、6月10日を迎えた。
柿沼からの連絡はなかった。
自分から、連絡もしていない。
電車は、ゆっくりと東京の輪郭をほどいていった。
ビルの窓に反射する夕光が流れ、
ホームの白線がするりと後ろへ引いていく。
レールの継ぎ目を踏むたび、
床の奥から小さな震えが伝わり、
車内の空気も一緒に揺れた。
窓ガラスにふと自分の顔が重なる。
目の下の影が蛍光灯に容赦なく照らされ、
口元は力を失っている。
今日一日の言葉の残りかすが喉の奥に貼りついたままで、
息をするたびそれが擦れて、微かな痛みになった。
車内には、妙に明るい集団がいた。
赤い。とにかく赤い。
アントラーズのサポーターらしく、
赤と黒のユニフォームにマフラータオル、
背中に番号の入ったシャツ、胸に誇らしげな鹿のエンブレム。
誰かのリュックには丸めた旗が差し込まれ、
別の誰かはステッカーの貼られたケースを膝に抱えている。
笑い声が弾むたび吊り革がかすかに揺れ、
缶のプルタブが乾いた音を立てた。
炭酸と汗と、
どこかのスタジアムの芝の記憶みたいな匂いが混ざり、
車内の温度がほんの少し上がる。
彼らはうるさいわけではない。
むしろ礼儀正しく、足元を揃えて座っている。
それでも、明るさの圧がある。
窓の外の建物はまだ高く、まだ密だった。
標識の文字が読めない速度で過ぎ、広告の色が一本の線になる。
東京は遠ざかるというより、徐々にほどけて、
糸の先に戻っていくみたいだった。
私は窓に映る自分の顔をもう一度見て、
疲れの輪郭を指でなぞるようにまばたきした。
やがて、景色の奥に水面が現れた。
街の硬い表面がふっと途切れ、空が広がり、川が横切る。
江戸川だ、と遅れて理解する。
橋を渡る間、鉄の骨が風を鳴らし、車輪の音が少しだけ乾いた。
水は夕方の色を映して、灰青に沈んでいる。
土手には走る人が小さく見え、
犬のリードが糸のように伸びたり縮んだりしていた。
川を越えた途端、境目のない境目が身体に触れた。
窓は閉まっているのに、空気の匂いが変わった気がする。
線路沿いの樹木が増え、低い家の屋根が続き、
空の割合が大きくなる。
「今、千葉に入った」と、頭より先に胸が言う。
東京で溜めたものが、ひとつ息を吐く隙間を得たようだった。
黒く起こされた土、刈り残した稲の短い影、
水の張った田に映る薄い雲。
アントラーズのサポーターたちは、
窓の外に一瞬だけ視線をやって、また仲間へ戻る。
誰かがスマホで撮ったスタジアムの写真を見せ、
別の誰かが「この場面、鳥肌だった」と指でなぞる。
声は小さくても、熱だけが残っていて、
車内に透明な炎があるみたいだった。
すみはその炎を、うらやましいと思った。
自分には今日、何をそんなふうに語れるだろう、と。




