16章 救急外来 若いひかり
深夜三時の救急外来は、嵐のあとのような静寂に包まれていた。
モニターが刻む規則的な電子音と、
空気清浄機の低い唸りだけが、
この場所が「生」の最前線であることを告げている。
柿沼信也は、医局のラウンジで一人、
冷めきったブラックコーヒーを口に含んだ。
三十歳という年齢が、
身体の芯に鉛のような疲労を蓄積させている。
「……先生、またそんな顔してる」
背後からかけられた声に、柿沼は振り返ることなく、
わずかに眉を寄せた。
荒川ひかるだった。
二年目の看護師、二十三歳。
白衣の袖を少しだけ余らせながら立っている。
まだ動きに硬さが残るが、表情には温かみがあった。
患者に向ける笑顔が、どこか初々しい。
作ろうとして作る笑顔ではなく、
相手を安心させたいという気持ちが、そのまま顔に出てしまうような笑顔だった。
声も柔らかい。
忙しい病棟の中でも、言葉の速度を落とすことを忘れない。
「大丈夫ですよ」
その一言が、患者の呼吸を少しだけ整える。
二年目らしい不安と、
それを隠そうとする真面目さが、動きの端々に見える。
ナースステーションでは先輩に叱られることも多いが、
言い返さずに「はい」と頷く。
その素直さが、かえって周囲に守られている。
性格もいい。
困っている患者を見れば、
自分の担当でなくても足を止める。
雑務を頼まれても、嫌な顔をしない。
器用ではないが、
人を嫌いになれない性格だった。
廊下の向こうから小走りでやってくる姿は、
この病院にまだ残っている「若さ」そのもののようだった。
「先生。これ、私の実家から送ってきた林檎で作った
コンポートです。疲れたときには糖分ですよ」
彼女が差し出したタッパーには、
透き通った琥珀色の林檎が並んでいた。
ひかるの指先は、若さゆえの弾力に満ち、
爪の先まで丁寧に整えられている。
それは、昨日まで自分が触れていた、
早瀬すみれの「死」の香りが漂う指先とは対極にあるものだった。
「……悪いな」
柿沼は、彼女の厚意を無下にできず、
備え付けのプラスチックフォークで一切れを口に運んだ。
甘い。
あまりに純粋で、計算のない甘さだった。
「どうですか?」
「……ああ。美味いな。君のように、真っ直ぐな味がする」
柿沼の言葉に、ひかるの頬が微かに朱に染まる。
二十三歳の彼女にとって、
三十歳の柿沼が見せる、
時折混じるこうした「大人の無防備さ」は、
どんな洗練された口説き文句よりも
深く彼女の心を揺さぶっていた。
「先生……私、先生のそういう、時々見せる寂しそうなところ、
放っておけなくなるんです」
ひかるの手が、躊躇
いながらも柿沼の白衣の袖に触れた。
指先から伝わる彼女の体温は、適温だった。
高熱にうなされるようなすみれの熱とは違う、
人を安心させ、平穏な眠りへと誘うための温度。
(この手を握り返せば、
俺の三十代は『正解』のルートに戻れるんだろうな)
柿沼は、自分の袖を掴む彼女の小さな手を見つめながら、
冷徹な計算を働かせていた。
荒川ひかると共に歩む人生は、
きっと日当たりの良いリビングと、
清潔なリネン、そして理解しやすい幸福に満ちている。
そこには、過去の亡霊も、
不協和音も、救済という名の泥濘も存在しない。
ひかるは、柿沼の沈黙を「許容」と捉えたのか、
さらにその距離を詰めた。
彼女の肩が、柿沼の腕に触れる。
「先生。私、もっと先生の力になりたい。
仕事のことだけじゃなくて……先生が抱えてる、
その、誰にも言えないこととか。私じゃ、ダメですか?」
ひかるの瞳が、至近距離で柿沼を射抜く。
そこにあるのは、若さゆえの万能感と、
愛する人を救えるという無垢な傲慢さだった。
彼女は、柿沼の中にある深淵が、
彼女の光で照らせる程度のものだと信じているのだ。
柿沼は、ゆっくりと、だが確実に彼女の手を袖から外した。
「荒川。君は、自分の手がどれだけ綺麗か、分かっていない」
「え……?」
「君の手は、人を救うためにある。
汚れたものに触れて、一緒に沈むためのものじゃない」
柿沼の声は、氷のように冷たく、
それでいてどこか慈悲を孕んでいた。
ひかるの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
彼女が差し出した「正解」を、
柿沼はゴミ箱に投げ捨てるような残酷さで拒絶した。
「先生には、私じゃ届かない場所があるんですね」
ひかるの声が、微かに震える。
「届かないんじゃない。……俺が、そこから出たくないだけだ」
柿沼は立ち上がり、飲みかけのコーヒーを流しに捨てた。
彼は、荒川ひかるという「浄化の白」ではなく、
早瀬すみれという「混濁の青」を選んだのだ。
それが、どれほど不健康で、倫理に反する選択であったとしても。
「……失礼します」
ひかるは、泣き出しそうなのを必死に堪え、
逃げるようにラウンジを去っていった。
残されたのは、甘い林檎の香りと、
空っぽのプラスチックフォーク。
三十歳の夜。
彼は白衣を脱ぎ捨て、私服のジャケットを羽織った。
医局を出る際、鏡に映った自分の顔は、
先ほどひかるを突き放した時よりも、
ずっと生き生きとして見えた。
それは、破滅へと向かう者が、
自らの運命を確信した時の、昏い(くらい)輝きだった。
病院の自動ドアが開くと、夜の冷たい空気が柿沼を包み込んだ。
テリオスに乗り込みと疲れ先にでた。
結局、病院の寮にもどった。
荒川ひかるの「無垢な救い」は、看護師であり、いまの自分の
理解者でもある。
彼は躊躇っていた。
それは、かつて救急救命の現場で、
一秒を争う判断を下してきた男とは思えないほどの、
無様で永い沈黙だった。
脳裏には、
先ほど振り切ってきた荒川ひかるの顔が焼き付いて離れない。
彼女は単なる「若い看護師」ではなかった。
同じERの戦場で血に塗れ、死の淵を共に覗き込んできた、
もっとも信頼に足る「戦友」だ。
彼女を選べば、仕事の疲れも、
命を救えなかった夜の虚無感も、
言葉を尽くさずとも分かち合えるだろう。
彼女の差し出す「無垢な救い」は、
三十歳の男にとって、もっとも賢明で、
もっとも暖かい「現実」の選択肢と思えた。
選択は、時に任せる。
そう決めた瞬間、柿沼の心から不必要な力みが消えた。
彼は、自分が何者であるか
(医師であるか、守るべき者がある男であるか)
という規定を、
一度手放したのだ。
時刻表に従って走る列車のように、
定められた運命のレールをただ滑り落ちていく。
その先に何が待っていようとも、今は抗う気力が湧かなかった。
しばらく、いままでのようにふるまうしかなかった。
一週間が過ぎた。
柿沼からの連絡は、ただの一度もなかった。
枕元に置いたスマートフォンは、
冷たいプラスチックの塊のまま沈黙している。
通知も、着信も、彼の名前が画面を灯すこともない。
救急外来(ER)は忙しいのだろう。
医師という人種は、
そういうものなのだろう。
そう自分に言い聞かせ、納得させたふりをする。そうしなければ、
すみれは、立っていられなかったからだ。
自ら誘った。
自ら、あの熱の中に身体を投げ出した。
波にさらわれかけた命を拾われ、
その救いの代価を探して、
すみれは一番安易で、一番愚かな形で自分を差し出してしまったのだ。
(私が、自分で選んだこと)
そう心の中で反芻するほど、
胸の奥は鋭利な刃で削られるように痛んだ。
誰のせいにもできない。加害者がいないからこそ、
後悔は行き場を失い、自分の内側を執拗に突き刺し続ける。




