15章 消音(ミュート)の代価
15章 消音の代価
五月十四日。鹿島神宮駅から戻った午後の空気は、
すみれの肌にまとわりつくように重かった。
古いビルの三階にある音楽教室。鍵を開けると、
いつもと同じ匂いが鼻を突く。
乾燥した木の塵、埃、そして年月を経て酸えた楽譜の紙の匂い。
かつて芳醇な音楽の香りに満ちた世界にいた彼女にとって、
それは「生活」という名の緩やかな腐敗の臭いだった。
エアコンのスイッチを入れると、古い機械が呻き声を上げる。
冷気が吹き出すまでの数秒の沈黙。
それが、今の自分を断罪する法廷の静寂に思えて、
すみれは深く息を吐いた。
ピアノの蓋を開ける。
整然と横たわる八十八の鍵盤。
それはどこまでも正しく、美しく、
それゆえに不純な者を一切拒絶する「聖域」だった。
すみれは椅子に座り、震える指を鍵盤に置く。
中央の『ド』。
ただ一音を響かせただけなのに、身体が鉛のように重かった。
閉じた瞼の裏に、午前中の港を吹き抜けた風が蘇る。
ラーメンの安っぽい湯気。そして、
「作ります」と言った、あの男の低く乾いた声。
恩義の報いとして、いとも簡単に身体を差し出してしまった女。
その事実が、鍵盤を打つ指から心臓へと逆流してくる。
救われた代価として、一番手近な「自分自身」を捧げてしまった。
その軽率さを、目の前のピアノが冷徹に見下ろしている気がした。
チャイムが鳴り、最初の生徒である小学生が「こんにちはー!」
と無邪気な声を上げた。
すみれは、顔の筋肉を無理やり動かして
「笑顔」という仮面を貼り付ける。
「こんにちは。今日は、練習してきた?」
「うん、ちょっとだけ!」
音楽は、残酷なほど嘘をつけない。「
ちょっと」の練習は、
そのまま「ちょっと」
の厚みしかない薄っぺらな音として返ってくる。
バイエルの単調な練習曲。間違え、止まり、
また同じ場所で指が縺れる。
「大丈夫。もう一回ね」
優しく、優しく。その言葉を繰り返すたびに、
すみれの中の何かが摩耗していく。
次の生徒、また次の生徒。譜面の音符が増え、
夜が近づくにつれ、彼女の口から出る言葉は、
感情を排した機械の信号へと変わっていった。
「ここ、指番号が違う」
「リズムが走ってる」
「もう少し、歌って」
歌えない自分が、誰に歌えと命じているのか。
その矛盾が、彼女の喉をじりじりと焼いた。
最後の生徒が帰り、再び静寂が戻る。
すみれは、自分のためだけに一節を弾こうとした。
だが、指が動かない。
音が出るよりも先に、澱のような疲労と自嘲が指先を硬直させる。
音楽が好きだった。命よりも大切だった。
だが、その「好き」という感情だけでは、
どうしても夜の暗さに抗えない日があるのだ。
すみれはピアノの蓋を閉じた。
その重い音が、彼女の「今日」という人生の終止符だった。
スマホが震えた。
画面に浮かび上がったのは、妹の「あざみ」の名前。
すみれは数拍の逡巡ののち、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『すみれ、聞いたよ! 大丈夫?』
電話の向こう、あざみの声は眩しいほどの生命力に溢れていた。
三十階のマンションで、
正しく純粋に守られた音楽の中にいる者の息遣い。
『私ね、決まったの。サントリーホール、
来月の定期演奏会でソリスト』
その瞬間、すみれは内側から真っ二つに切り裂かれた。
それは祝福の知らせではない。
今の彼女を徹底的に蹂躙する、冷徹な刃だった。
あざみが、舞台の中心に立つ。
自分がかつて全てを賭けて守り、そして失った、あの光の中に。
「……おめでとう」
絞り出すような声が、胸の奥で軋んだ。
『お願いがあるの。本番まで、
私の音を見てほしい。……そばにいてほしいの』
(そばにいてほしい)
それは、妹としての純粋な甘えであり、
才能が当然のように享受する無意識の傲慢。
「大丈夫じゃない」と叫びたかった。
ようやく港の夜を越え、
必死に泥の中から這い上がろうとしている女に、
これ以上の光は毒でしかない。
「あざみ。……今の私、音楽を見られる状態じゃないの。
あなたの舞台を祝いたいのに、祝えない自分がいる」
電話の向こうで、あざみの息が詰まるのが分かった。
「近くにいたら、たぶん、私が壊れる。
……嫉妬で、惨めさで。いまは、
自分の生活を立て直すだけで精一杯なの。
ピアノも……もう、弾けない」
沈黙が流れる。すみれは最後に、
祈るように、あるいは突き放すように告げた。
「サントリーホール、頑張って。あなたは、
あなたの音で立つのよ」
電話を切ったあと、部屋の静けさは以前よりもずっと深く、
冷たかった。
一週間が過ぎた。
柿沼からの連絡は、一度もなかった。
スマホは死んでいるかのように、一切の光を放たない。
救急は忙しいのだろう。医師とはそういう生き物なのだろう。
理性では理解していても、身体に刻まれたあの夜の熱だけが、
今もなお疼き続けている。
(私が、自分で選んだこと)
救われた女が、救いの代償を求めて、
一番安易な形で自分を差し出した。
柿沼は奪ったわけではない。
むしろ彼は、壊れ物を扱うように慎重で、優しかった。
その優しさが、余計に残酷だった。
あれは恩返しのつもりだったのか、それとも、
ただ孤独に耐えかねただけの醜態だったのか。
分からないまま、彼女は今日も、
二度と鳴らないスマホを握りしめている。
鹿島神宮駅から戻った午後。五月十四日の陽光は、
今のすみれにはあまりに眩しすぎた。
震える手でピアノ教室の鍵を開ける。
埃の舞う狭い室内に入った瞬間、昨夜、
柿沼に抱かれた肉体の余韻が、鮮烈な熱を持って蘇った。
命の恩人。それなのに、なりふり構わず彼を誘惑し、
その腕の中に身を投じてしまった自分。
(救われた恩を、肉体で返した女)
その自嘲めいた言葉が脳裏をよぎった瞬間、
胸の奥が悲鳴を上げた。
純粋な感謝であったはずの心に、
どろりとした何かが混じり合う。羞恥、後悔、
そして自分という存在を安売りしてしまったような、鋭い痛み。
救われたはずなのに、その救われ方があまりに情けなかった。
生き延びたはずなのに、明日をどう生きていけばいいのか、
その術を彼女はまだ知らない。
蓋を閉じられた鍵盤は、重く沈黙している。
今はその沈黙さえも、
かつて音楽を志した彼女の「裏切り」
を糾弾しているように思えた。
あの腕の強さは、彼なりの慈悲だったのか。
それとも、ただの行き場のない衝動だったのか。
すみれには、その区別がつかない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
彼に触れられたことで、
自分の中にまだ「血が通っている」という事実を、
残酷なまでに知らされてしまったことだ。
そしてその命は、あまりにも脆く、
惨めで、泣きたくなるほど孤独だった。
(……会いたい)
教室の隅、埃っぽい椅子に座り込み、すみれは膝を抱えた。
顔を合わせれば、きっとまた自分を蔑んでしまうだろう。
感謝の裏側にある「女」としての浅ましさを、
彼の冷徹な医師の目で見透かされるのが怖い。
それでも、会いたかった。
彼に抱かれている間だけは、
自分が「元ソリスト」でも「失敗作のピアニスト」
でもなく、ただの、熱を持った一塊の命になれたから。
あの無機質なコンクリートの余白で、
私の音を「届いている」と言ってくれたあの男に。
音楽という正解のない地獄から、
自分を力任せに引きずり出してくれた柿沼信也に、
もう一度だけ、壊されるほど強く抱きしめてほしかった。
いつもと同じ匂いの音楽教室。
木と埃と、少しだけ古い楽譜の紙。
エアコンのスイッチを入れる。
音がするまでの沈黙が長い。
ピアノの蓋を開ける。
黒い鍵盤が並んでいる。
正しく、美しく、逃げ場がない。
すみれは椅子に座った。
指を置く。
ドの音。
ただそれだけなのに、
身体が重かった。
午前中の港の風。
ラーメンの湯気。
柿沼の「作ります」という声。
いとも簡単に抱かれた女。
すみれは今日もピアノを教えた。
教えることで、すみれは気がまぎれた。
音符を数え、指番号を直し、
小さな手の未来に集中する。
小さな手に指番号を教え、
リズムを数え、
間違いを優しく直す。
そのあいだだけ、
自分の夜を思い出さずに済む。
気がまぎれるのは、救われることではない。
ただ、後悔が息を潜めるだけだった。
そんなものがまだ胸に残っているのに、ここでは関係がない。
ここでは音だけがすべてだ。
チャイムが鳴る。
最初の生徒は小学生だった。
「こんにちはー!」
明るい声。
すみれは笑顔を作る。
「こんにちは。今日は練習してきた?」
「うん、ちょっと!」
ちょっと。
その言葉に、すみれは心の中でため息をつく。音楽は嘘をつかない。
ちょっとの練習は、ちょっとの音でしか返ってこない。
譜面台に楽譜を置く。
バイエルの簡単な曲。
間違える。
止まる。
また弾く。
同じところで引っかかる。
すみれは優しく言う。
「大丈夫。もう一回ね」
優しく。
優しく。
優しく。
その繰り返しが、
自分の中の何かをすり減らしていく。
次の生徒。
次の生徒。
音符は増えるのに、会話は減る。
「ここ、指番号ちがうよ」
「リズムが走ってる」
「もう少し歌って」
言葉が機械みたいに口から出る。
夕方。
外が暗くなり始める。
最後の生徒が帰ったあと、
教室に残るのはピアノとすみれだけ。
静けさが戻る。
すみれは鍵盤に触れた。
自分のために弾こうとする。
でも指が動かない。
音が出る前に、疲れが出る。
すみれは椅子に座ったまま、ただ鍵盤を見つめた。
音楽が好きだった。
好きだったはずなのに。
好き、だけでは続かない日がある。
すみれは蓋を閉じる。
その音が、今日の終わりだった。
スマホが震える。
通知はない。
何もない。
それが一番疲れる。
携帯が震えた。
着信。妹のあざみ。
「あざみ」
すみれは少し迷ってから出た。
「……もしもし」
電話の向こうは明るい息づかいだった。
『すみれ、聞いたよ』
『大丈夫?』
「大丈夫じゃない」
あざみは間を置かずに言った。
『私ね、決まったの』
「……なにが」
『サントリーホール』
『来月の定期でソリスト』
すみれは言葉を失った。
その言葉は祝福ではなく、刃だった。
あざみが、ソリスト、あざみが舞台の中心に立つ。
「おめでとう」
心から言った。
それでも胸の奥が軋んだ。
あざみは少し声を落として続けた。
『お願いがあるの』
『本番まで、私の音を見てほしい』
『そばにいてほしい』
すみれは目を閉じた。
点滴の雫ではなく、教室の時計の針が、現実を刻んでいる。
(そばにいてほしい)
それは妹の甘えであり、才能の当然であり、姉への信頼だった。
でも同時に、残酷だった。
すみれは今、港の夜を越えて、
ようやく呼吸を取り戻したばかりなのに。
音楽は容赦なく、彼女を舞台へ引き戻す。
「……あざみ」
声がかすれる。
『うん』
「私、いま……」
言いかけて、止まる。
壊れたことを言えば、妹の光に影を落とす。
言わなければ、自分が影になる。
沈黙の中で、すみれは選ぶ。
「……分かった。見るよ」
その返事は優しさだった。
同時に、自分への刃だった。
電話の向こうで、あざみが息を弾ませる。
『ほんと?ありがとう!』
すみれは笑った。
音のない場所で。
電話の向こうが固まるのがわかる。
すみれは言葉を探しながら続けた。
「今のわたし、音楽を見られる状態じゃない」
「あなたの舞台を祝いたいのに」
「祝えない自分がいる」
『でも…』
「近くにいたら」
「たぶん、壊れる」
自分が。
嫉妬で、惨めさで、空っぽで。
すみれは声を低くした。
「わたし、今は…生活を立て直さないと」
「ピアノもない」
「弾けない」
あざみは何か言いかけて、止まった。
すみれは最後に、静かに言った。
「サントリーホール、頑張って」
「あなたは、あなたの音で立って」
それは突き放しではなく、
祈りに近かった。
電話が切れたあと、部屋の静けさが戻る。
すみれは携帯を握ったまま動けない。
断ったのに、胸の奥が痛い。
でも今のすみれには、
誰かの光のそばに立つ余裕がなかった。
深夜三時の救急外来は、嵐のあとのような静寂に包まれていた。
モニターが刻む規則的な電子音と、
空気清浄機の低い唸りだけが、
この場所が「生」の最前線であることを告げている。
柿沼信也は、医局のラウンジで一人、
冷めきったブラックコーヒーを口に含んだ。
三十歳という年齢が、
身体の芯に鉛のような疲労を蓄積させている。
「……先生、またそんな顔してる」
背後からかけられた声に、柿沼は振り返ることなく、
わずかに眉を寄せた。
荒川ひかるだった。
二年目の看護師、二十三歳。
白衣の袖を少しだけ余らせながら立っている。
まだ動きに硬さが残るが、表情には温かみがあった。
患者に向ける笑顔が、どこか初々しい。
作ろうとして作る笑顔ではなく、
相手を安心させたいという気持ちが、そのまま顔に出てしまうような笑顔だった。
声も柔らかい。
忙しい病棟の中でも、言葉の速度を落とすことを忘れない。
「大丈夫ですよ」
その一言が、患者の呼吸を少しだけ整える。
二年目らしい不安と、
それを隠そうとする真面目さが、動きの端々に見える。
ナースステーションでは先輩に叱られることも多いが、
言い返さずに「はい」と頷く。
その素直さが、かえって周囲に守られている。
性格もいい。




