14章 妹との再会
五月十四日。鹿島神宮駅から戻った午後の空気は、
すみれの肌にまとわりつくように重かった。
古いビルの三階にある音楽教室。鍵を開けると、
いつもと同じ匂いが鼻を突く。
乾燥した木の塵、埃、そして年月を経て酸えた楽譜の紙の匂い。
かつて芳醇な音楽の香りに満ちた世界にいた彼女にとって、
それは「生活」という名の緩やかな腐敗の臭いだった。
エアコンのスイッチを入れると、古い機械が呻き声を上げる。
冷気が吹き出すまでの数秒の沈黙。
それが、今の自分を断罪する法廷の静寂に思えて、
すみれは深く息を吐いた。
ピアノの蓋を開ける。
整然と横たわる八十八の鍵盤。
それはどこまでも正しく、美しく、
それゆえに不純な者を一切拒絶する「聖域」だった。
すみれは椅子に座り、震える指を鍵盤に置く。
下町のアパートは、古い。
玄関を開けると、すぐに生活の匂いがする。
湿気と、洗剤と、少し古い木の匂い。
贅沢が肌に染みたすみれには耐えられない。
かといって、金銭的に他を探すこともできない。
二階の部屋。
壁は薄く、隣の住人のテレビの音が聞こえる。
夜遅くにくしゃみをすると、気を使って息を殺す。
ピアノは電子だ。
ヘッドホンをつけなければ、音を出せない。
かつて、
ホールいっぱいに音を放っていた自分が、
今は音を外に出さない。
それだけで、何かが決定的に変わってしまった気がした。
音楽教室での仕事は、生活を支えてくれる。
だが、誇りまでは支えてくれない。
子どもにスケールを教え、
大人に「無理しなくていいですよ」と言う。
キャンセルが続く日もある。
月謝の計算をしながら、今月はいくら残るかを考える。
ソリストだったことを知る人は、ほとんどいない。
知っていても、それを口にする人はいない。
「先生、すごいですね」
その言葉を聞くたび、胸の奥が痛む。
本当にすごかったのは、いつの自分なのか。
夜、電子ピアノの前に座る。
ヘッドホン越しの音は、どうしても薄い。
協奏曲を弾くと、余計につらくなる。
オーケストラの音が、
頭の中でしか鳴らないからだ。
あざみは、いまもその音の中にいる。
妹は、壊れていない。
少なくとも、まだ。
それが、すみれには苦しかった。
自分は壊れたのだろうか。
それとも、ただ場所を変えただけなのか。
答えは出ない。
出ないから、やっかむ。
youtubeとかニュースで若手ソリストとして妹の名前を見ると、
画面を消す。
喜びと同時に、胸が詰まる。
「おめでとう」と言いたい。
本当に思っている。
でも、その言葉を口にした瞬間、
自分が完全に過去になる気がして、電話をかけられない。
姉として、祝福したい。
音楽家として、比べてしまう。
その両立が、できない。
妹は、悪くない。
それは分かっている。
妹あざみは努力している。
真面目で、無邪気で、音楽を信じている。
だからこそ、余計につらい。
同じ血。
同じ指。
同じ家で育った音感。
なのに、立っている場所が違う。
「どうして、わたしじゃなかったんだろう」
そんな考えが浮かぶ自分を、すみれは軽蔑する。
音楽は、才能だけではない。
努力だけでもない。
運だけでもない。
音に、情熱を乗せられるかどうか。
それが、才能なのだ。
どれほど正確でも、
どれほど訓練されていても、
情熱を失った音は、ただの作業になる。
逆に、拙くても、
不安定でも、
音に心が宿った瞬間、
それは音楽になる。
才能とは、
選ばれた者の資質ではない。
音を信じ続ける力のことだった。
「同じ夢を、同じ場所で見た者同士にしか、
やっかみは生まれない」
それでも、結果は残酷な数字となって突きつけられる。
「世界三位」
その称号が、姉妹の距離を剥き出しの断層として隔ててしまった。
あざみは、まだ眩いほどの「未来」を生きている。
対して、自分はもう「過去」の残滓に過ぎないのではないか。
それを確かめる勇気が持てず、
すみれは妹との接触を拒み続けている。
妹に会えば、必ず問われるだろう。
「最近、どう?」
その何気ない一言に、今の自分はどう応えればいいのか。
「音楽教室で教えているよ」
「生活には困っていないわ」
それは紛れもない事実だ。
けれど、すべてではない。
言葉にした瞬間、最も大切だったはずの「熱」が、
指の間からこぼれ落ちて消えてしまう気がした。
その先にある焦燥、虚無感、そして二度と取り戻せない時間――。
そんな泥濘のような感情を、
妹にまで背負わせたくはない。
だから、距離を置く。
それは逃避であり、同時に、
彼女に残された最後のプライドでもあった。
どんなに惨めな生活に追われても音楽を辞めなかったのは、
同じ理由だ。舞台を降りても、音だけは手放さなかった。
音を失ってしまえば、
妹と同じ夢を見ていた証までが、
この世から消えてしまう。姉として、
最低限の場所に踏みとどまるために、
彼女はまだ鍵盤に向かうのだ。
――やっかみは、才能の差から生まれるのではない。
**同じ夢を、同じ高さで見た者同士にしか、それは生まれない。**
すみれは、まだ夢を捨てきれていない。
だからこそ、妹を無邪気に祝福することができない。
それが一番現実的で、
一番情けなくて、何よりも人間らしい理由だった。
あざみは、今日もどこかの煌びやかなホールで、
オーケストラの一部として、
あるいはその頂点として音を鳴らしている。
すみれは、夜の静まり返ったアパートでヘッドホンをつけ、
同じ曲の鍵盤を叩く。
同じ音楽。違う人生。
それでも、私たちは姉妹だ。
だからこそ、すみれは今日も会えない。
会えないまま、世界の誰よりも妹の成功を、
一音の狂いもない平穏を願っている。
それが、今の自分にできる、精一杯の「姉」の形だった。
その日は、ひどく埃の舞う午後だった。
商店街の端にある古いビルの三階。
すみれが勤める音楽教室の床は、子供たちが持ち込む砂と、
長年蓄積されたワックスの剥げた匂いがした。
「はい、今日はここまで。お家でスケール、
三回ずつ練習してきてね」
「はーい。先生、さようなら!」
五歳の生徒を送り出し、
すみれが小さく息をついて鍵盤を拭き始めたときだった。
開け放たれたドアの向こうに、その「光」が立っていた。
「……お姉ちゃん」
あざみだった。
三十階のマンションで、
神山拓也という純度の高い音楽環境に守られているはずの妹が、
あろうことかこの湿った「生活」の真っ只中に立っていた。
スポンサーが好むという、あざみのシンプルな装い。
上質な素材のワンピース姿で、整いすぎた姿勢。
それは、安価な楽譜が散らばり、
蛍光灯の点滅が不安定なこの教室内では、
異物以外の何物でもなかった。
「……あざみ。どうしてここが」
すみれは、咄嗟に汚れた布巾を隠した。
「神山さんに聞いたの。お姉ちゃんがここで働いてるって」
あざみの瞳には、同情も蔑みもなかった。
ただ、痛ましいほどの「心配」が宿っていた。
それがすみれには、どんな罵倒よりも残酷に刺さった。
「見ての通りよ。今は次のレッスンまで時間がないの。……帰って」
「……お姉ちゃん。ここ、ピアノの調律が狂ってる」
あざみは歩み寄り、
すみれが座っていた椅子の隣で、中央の「ド」を一つだけ叩いた。
硬質な花梨の床で跳ね返る音ではない。
埃っぽい空間に吸い込まれ、どこか濁って消えていく音。
「……分かってるわよ。そんなこと」
すみれの声が、自分でも驚くほど震えた。
「でもね、あざみ。ここではこれでいいの。
『ド』が『ド』であれば、
それで十分なの。あなたが弾いているような、
何万分の一の狂いも許されない世界とは違うのよ」
「違うよ、お姉ちゃん」
あざみは、真っ直ぐに姉を見つめた。
二十歳の、迷いのない、正しい人間の目。
「音が狂っている場所で、
お姉ちゃんの耳まで狂っていくのが怖いの。
……お願い、もうこんなところはやめて、私のところに来て」
「あなたの、ところ?」
すみれは力なく笑った。
「三十階のマンションに? 神山さんの用意した
『環境可能論』の箱の中に?
私がそこに行って、何をするの。
あなたの譜面をめくる係でもやればいい?」
「そんなこと言ってない!」
「言ってるのと同じよ」
すみれは、あざみが叩いた鍵盤を、今度は力任せに叩きつけた。
濁った音が、狭い教室内に不協和音として響き渡る。
「私とあなたは、もう違う場所にいるの。
あざみ、あなたは『未来』へ行きなさい。
私は……ここで、自分の音を殺しながら、
生活をしていく。それが私の選んだ罰なんだから」
あざみは唇を噛み、
溢れそうになる涙を堪えるように視線を落とした。
足元の古いフローリングは、
あざみの存在を拒絶するように冷たく、沈黙している。
「……お姉ちゃんは、音楽を捨てたの?」
「捨ててないわ。……ただ、音を外に出すのをやめただけよ」
ヘッドホンの内側でしか鳴らせない自分の音。
誰にも届かず、自分だけを削り続けていく音楽。
あざみは、何も言わずに封筒を机に置こうとした。
おそらく、神山から預かったものか、彼女自身の貯金だろう。
「持って帰って」
すみれの拒絶は、氷のように鋭かった。
「妹から施しを受けてまで守る音楽なんて、
私には必要ない。……行って。生徒が来るわ」
あざみは、伸ばしかけた手をゆっくりと引っ込めた。
たった二人の姉妹。
けれど今、二人の間には、三十階の高さに等しい、
決して埋めることのできない垂直の壁がそびえ立っていた。
あざみが教室を出ていく。
その足音が階段の下へ消えていくまで、
すみれは一度も顔を上げなかった。
再び静まり返った教室で、
すみれはもう一度、中央の「ド」を叩いた。
狂った音。濁った響き。
それが、今の自分の心音にそっくりだと思った。




