12章 下町のアパート
段ボールが積まれていく。
ピアノは運べない。
あの部屋に置かれたまま、もう自分のものではない。
カーテンを半分だけ開けた朝も、
夜景が消えきらない時間も、全部、借り物だった。
引越し代は出た。
それだけは、きちんとしていた。
封筒に入った、わずかな餞別。
現金で、百三十万。
六年間、二十万ずつ。
二十万×六=百二十万。
それに、最後の十万。
計算してみれば、はっきりする。
おそらく、他のどのスポンサーよりも多い金額だった。
神山は、億単位の金を、すみれに投じてきた。
華やかなドレス代。
シャネルの香水。
生活費。
ビザカード。
それらに比べれば、この百三十万は、
切り捨てのための「清算」にすぎない。
封筒に書かれていたのは、
神山の字ではなかった。
整いすぎた、印刷された文字。
秘書が用意したのだろう。
感情も、迷いも、そこにはなかった。
封筒は軽かった。
六年という時間の重さに比べて、あまりにも軽い。
すみれはそれをしばらく手に持ったまま、動かなかった。
最後まで、
きれいな終わらせ方だった。
揉めることもなく、
恨みを残す言葉もなく、
音楽の話すら出なかった。
ただ契約が終わり、
生活が元に戻るだけだった。
窓の外では、いつも通り湾岸の朝が広がっている。
その景色だけが、
何も知らない顔をして続いていた。
言葉だけが添えられている。
「今まで、ありがとうございました」
そう書かれた言葉だけが、添えられていた。
すみれは、それを受け取るしかなかった。
拒否するほどの余裕も、
拒否できるだけの誇りも、もう残っていなかった。
移された先は、
湾岸から離れた、古い下町のアパートだった。
管理会社が淡々と提示してきた物件。
エレベーターはない。
壁は薄く、隣の生活音がそのまま流れ込む。
足音。テレビの音。水道の音。
人の生活が、遠慮なく近い。
ピアノは置けない。
電子ピアノでさえ、苦情が出るかもしれない。
ここでは、
音楽は生活の外に追い出されている。
すみれは部屋の中央に立ち、
その空気を聞いた。
音がないのではない。
音を出してはいけない場所だった。
部屋に入った瞬間、
すみれは立ち尽くした。
天井は低く、
窓は小さい。
光は届くが、広がらない。
音楽のために整えられていた世界が、
音楽を許さない場所に変わってしまった。
舞台だけじゃない。
生活ごと、切り離される。
すみれは段ボールの上に座り、手のひらを見た。
指はまだ動くのに、弾く場所がない。
指先を軽く握ってみる。
関節は柔らかく動く。
身体はまだ、音楽家のままだった。
終わりは、
涙ではなく、事務手続きとしてやってきた。
鍵の受け渡し。
住所変更。
電気と水道の契約。
音楽とは関係のない手続きだけが、
確実に進んでいく。
段ボールが積まれていく。
すみれは何度も部屋を見回した。
ピアノだけが残っている。
マホガニーの艶。花梨の床。
い赤茶色の木肌が、朝の光を吸い込むように鈍く光っていた。
指を置けば、まだ温度が残っている気がする。
世界コンクール三位の夜も、
眠れなかった朝も、
全部、このマホガニーのピアノに染みついている。
価値の分からない思い出だけが、そこに残っている。
でも運べない。
最初から神山側が用意したものだった。
部屋と同じで、所有ではない。
管理会社の担当者が淡々と言った。
「ピアノは備え付けですので」
備え付け。
その言葉が残酷だった。
すみれの人生の中心だったものが、
家具の一つに分類される。
カーテンを半分だけ開けた朝も、
夜景が消えきらない時間も、マホガニーの響きも、
全部、虚構だった。
借り物の生活。
借り物の音楽。
すみれはゆっくりと蓋に触れる。
最後に触るのだと、身体が理解していた。
音は出さない。
出せば、離れられなくなる気がした。
窓の外の湾岸の光は、もう朝の色に変わっている。
次の部屋の住所が書かれた紙も添えられていた。
湾岸ではない。
都心から少し外れた、聞き慣れない駅名。
その紙は、契約書よりも薄かった。
だが、現実はそこに書かれている。
3月31日、トラックは到着した。
積まれる荷物も少ない。
段ボールと衣類と、楽譜だけ。
神山の慈悲なのか、新品の白いドレッサーがあった。
この部屋には似合わないほど、表面が明るく光っている。
新しいアパートは二階だった。
外階段を上がると、錆びた手すりが冷たい。
廊下は狭く、洗濯物の匂いが混ざっている。
どこかの部屋からテレビの音が漏れていた。
部屋の鍵は管理会社の窓口で受け取った。
「よろしくお願いします」と言われても、
何をよろしくするのかわからなかった。
ドアを開ける。
カーテンもない窓から、午後の白い光が床に落ちていた。
光は強いのに、部屋は明るくならない。
部屋は、狭い。
狭いのに、妙に広く感じる。
家具がないからだ。
段ボールが隅に積まれている。
衣類の袋。
楽譜の束。
生活の最小単位。
すみれは靴を脱ぎ、部屋の中央に立った。
床は少し軋む。
その音だけが、この部屋の最初の音だった。
ピアノはない。
その事実が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
そして、白いドレッサー。六畳と、小さなキッチン。
壁は薄く、隣のテレビの音がもう聞こえる。
床は少し沈む。
窓の外にはビルの夜景ではなく、向かいの住宅のベランダが近い。
大物は業者で設置さけた。
ここにはピアノは置けない。
置いたとしても、弾けない。
すみれは部屋の真ん中に立ったまま、
しばらく動けなかった。
音楽のために整えられていた世界が、
音楽を許さない場所に変わってしまった。
スポンサーが席を立つとは、
こういうことだった。
舞台だけじゃない。
生活ごと、切り離される。
すみれは段ボールの上に座り、
手のひらを見た。
指はまだ動くのに、
マホガニーの重い響きは、
もう届かない場所に置き去りにされた。
神山から電話だった。
電話口で、穏やかな声だった。
「わたし、どうやって生きていくの?」
少しの沈黙のあと、
抑揚のない声が返ってくる。
「演奏家としては一区切りでも」
「教える道はあります」
都内の音楽教室。
神山の知人が運営している場所だという。
「子どもたちに基礎を教える仕事です」
「生活は安定しますよ」
優しい言葉。
逃げ道のような形。
でもすみれには、
それが救いなのか、
終わりの宣告なのか分からなかった。
教える。
それは音楽を続けることだ。
同時に、舞台から降りることでもある。
神山は怒鳴らない。
切り捨てるときも、声は冷静で、言葉は整っている。
「無理をしなくていい」
「現実的に考えましょう」
言葉も丁寧だった。
その現実の中で、
すみれは自分の名前が
少しずつ薄れていくのを感じた。
段ボールの上で、すみれは膝に手を置いた。
拍手を浴びた指。
マホガニーを鳴らした指。
その指で、
子どもにハノンを教えるのか。
それが悪いわけじゃない。
むしろ、多くの音楽家が選ぶ道だ。
それでも、胸の奥に小さな抵抗が残る。
舞台に立っていた時間が、
まだ体のどこかに残っている。
「……これが、わたしの未来なの?」
部屋は答えない。
神山の提案だけが、
静かに現実として残っていた。
電話の向こうで、神山は何も言わない。
すみれが理解するのを待っている。
それが、彼の優しさだった。
そして同時に、
決定が覆らないことの証明でもあった。




