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11章 回想 有明のマンション

三月も半ばを過ぎようとしていた。


契約の更新日は、年度の始まりである四月一日。例年であれば、とっくに更新の通知が届いていなければならない時期だった。


しかし、ポストにも、メールの受信トレイにも、待望の連絡は一向に届かない。

静まり返った部屋で、すみれは言いようのない不安に押しつぶされそうになっていた。


「……まだ、来ない」


カレンダーの「4」という数字が、

まるで彼女の居場所を奪いに来るカウントダウンのように見えた。

それが、社会的な沈黙という刃で断ち切られようとしている。


これまで当たり前だと思っていた。


「ピアニスト・早瀬すみれ」


を繋ぎ止めるための事務的な紙切れ一枚。


それが届かないという事実は、

彼女に突きつけられた冷酷な宣告のようでもあった。



有明の三十階のマンションの朝は、音から始まる。


花梨の無垢のフローリングは蜜のように艶めき、

足音ひとつさえ吸い込んでしまう。


贅の限りを尽くして用意された、すみれの住まいだった。



芸大二年の頃から住み続け、六年の歳月が、ここの心地よさが、

その空間の端々まで沁みついていた。


窓の向こうには湾岸の夜景がまだ薄く残り、

ガラス一面に広がる東京湾は、


銀色の霧をまとったように静かだった。

遠くの橋を渡る車の列が、細い光の川となって流れている。


室内には五つ星のホテルのスイートルームを思わせる、

自動調光付きの間接照明が静かに灯り、


壁面に埋め込まれたスピーカーからは、

ごく小さな音量でバッハの平均律が流れていた。


温度も湿度も、何もかもが整えられている。

空調は気配すら残さず、空気だけを入れ替えていく。


大理石のキッチンカウンター。

手入れの行き届いた観葉植物。


厚いガラスのローテーブル。

革張りのソファは身体を沈めるだけで形を変える。


音が断絶された空間だった。


いい流れなので、リズムを整えながら質感だけ少し深めてみます。



プール付きの共用施設。コンシェルジュのいるロビー。

サウナ付きのスポーツクラブも併設されている。


エレベーターは住人の階にしか止まらず、

カードキーがなければ夜景すら近づけない。


この高さでは、街の生活音はもう届かない。

聞こえるのは、ときおり遠くを渡る風の低い唸りだけだ。


すみれ体には、後戻りできない贅沢が、

呼吸の仕方にまで染みついていた。


静けさの中で目を覚まし、

温度の整った水で顔を洗い、

迷いなくピアノの前に座る。


それが、ここでの朝だった。


夜景が消えきらないうちに、すみれはピアノの前に座る。

カーテンは半分だけ開ける。


薄い朝の光が、黒いグランドピアノの蓋にゆっくりと滑り込む。

磨き上げられた漆黒の表面に、湾岸の空が淡く映り込んでいた。

高層の窓越しの光は、どこか現実味を失っている。


鍵盤に触れる前の、静かな数秒。

この部屋の空気は、その沈黙すら美しく保っていた。


音を出す前から、

ここではすべてが整いすぎている。




窓の向こうで、湾岸の光はまだ残っている。

けれど部屋の中は、もう逃げ場のない静謐な明るさだった。


鍵盤に指を置く。

最初の一音が鳴った瞬間、

すみれの胸の奥がきゅっと縮む。


音が怖い。

音はいつも、才能を暴いてしまう。



神山拓也は神山不動産の常務で、会長の息子だ。

売上高は100百億規模だが、従業員は30名で、


一人あたりの売上高が高く、少数精鋭。財務内容もよかった。


主要都市に自社ビルをいくつも持ち、

テナント収益で盤石に回っている会社だった。


小さく見えて、実態は資産と人脈で動く会社だった。



拓也自身も音楽界に顔が利く。

ホールの理事や評論家とも繋がりがある。


彼は音楽が好きで、才能に金を出す。

すみれのスポンサーであり、実質的なマネージャーでもある。


遠征費も演奏会の枠も、神山が整えてきた。

すみれの舞台は、彼の支援の上にある。


だからすみれは、

神山に見放されることを一番恐れている。



そして、その才能を見ているのが、神山拓也だった。


神山は指導者ではない。

ピアニストでもない。



スポンサーだ。


日本の音楽会は、決して多くないファン層が支えている。

ここのところ、その輪郭はますますはっきりしてきた。


ホールに足を運ぶのは、いつも同じ顔ぶれだ。


年配の裕福な夫婦、余裕のある単身者、文化を嗜む層。

拍手は丁寧で、アンコールは儀式のようで、

客席は静かに閉じている。


市場は小さい。


チケットは一枚、S席で**10,000円**。

地方公演でも**6,500円**。


学生が気軽に聴ける値段ではない。


それでも演奏家の取り分は驚くほど薄い。


一回のリサイタルで得られるギャラは、


若手なら**3万円から10万円**。

そこからホール使用料、調律費、スタッフ費が消えていく。


ピアノの調律だけで**2万円**。

スタジオ練習は一時間**3,000円**。

伴奏合わせを入れれば、月に**10万円**は簡単に溶ける。


衣装も必要だ。

ドレスは一着**15万円**。

靴は**3万円**。


「舞台に立つ」だけで生活費が削られていく。


音は空に消えるが、請求書は残る。




才能は尊い。

だが日本の音楽会は、尊さだけで回らない。


スポンサーがいなければ、

舞台は続かない。


すみれの演奏会のチラシの裏には、

いつも小さく名前が印刷されていた。


**神山拓也。**


表に出ない支え。

音にならない支援。


遠征費、ホールの確保、批評家への案内、

コンクール後の演奏機会。

それらはすべて、音楽とは別の力で動いていた。


音楽は純粋だが、舞台は純粋ではない。


すみれはそれを理解していた。

理解しながら、見ないふりをしていた。


支えられていることと、

支配されていることの境界は、

とても曖昧だったからだ。


美しい檻だった。


外から見れば成功者の住処。

中にいれば、逃げ方の分からない場所。


すみれはその世界を、美しい檻の中で生きてきた。


そして今、

その檻の扉が静かに開こうとしている。




音楽が好きで、才能に投資する男。


劇場の寄付名簿に名前が載り、

若い演奏家の背中を押すふりをして、

その未来を静かに選別する人間。


神山はいつも穏やかに笑う。

声を荒げることはない。

否定の言葉すら、ほとんど使わない。


「君の音は美しい」

「君には可能性がある」


そう言いながら、その可能性を数字のように見積もる。

目に見えない天秤で、静かに重さを測る。


彼にとって才能は、純粋な奇跡であると同時に、

自己満足の資産だった。


育てる喜び。

支える誇り。

そして、見切る権利。


それらは彼の中で矛盾なく同居していた。


すみれは26歳。芸大卒。


かつて世界コンクールで三位に入った。

拍手と花束とフラッシュ。

あの夜、自分は音楽に選ばれたと信じた。


神山もその客席にいた。


終演後、控室に現れて、静かな声で言った。


「君の音は、世界に出せる」

「支援しよう」


その言葉には熱がなかった。

だが確信があった。


それは救いに見えた。

実際、救いだった。


遠征費。マネジメント。高級なスタジオ。

演奏会の機会。

批評家との接点。


すみれの未来は、

神山の資金で滑らかに整えられていった。


努力だけでは届かない場所へ、

階段ではなくエレベーターで運ばれていくように。


でも同時に、首輪もついた。


それは重くはない。

見えもしない。

けれど確かに存在するものだった。


投資には期限がある。

成果がなければ撤退する。


それは音楽の話ではなく、

資本の話だった。


そして神山は、

音楽よりも資本の論理を信じる人間だった



契約書にサインした日のことを、すみれはよく覚えている。



神山は向かいに座り、穏やかな表情で書類をめくっていた。


「演奏活動の支援契約です」


低く落ち着いた声。


「遠征費、マネジメント、会場手配はこちらで行います。

活動に専念してください」




淡々とした説明だった。

熱も誇張もない。


机の上に置かれた契約書は、

ただの紙に見えた。


だがその紙が、未来の形を決める。


ペンが差し出される。


すみれはそれを受け取った。


ほんの一瞬だけ手が止まる。

理由は分からない。


だが次の瞬間、

自分の名前を書いていた。


ペン先が紙を滑る音だけが、会議室に残る。




神山が微笑んだ。


「これで始まりますね」


その言葉を聞いたとき、

未来が開けた気がした。


同時に、戻れない場所へ踏み出したことを、

身体のどこかが理解していた。


神山は続けて言った。


「住まいも用意します」


すみれは顔を上げる。


「練習と生活を一体にした方がいい。

音楽家にとって環境は重要ですから」


数日後、有明。


湾岸の高層マンション。

ガラス張りのエントランス。

磨き上げられた石の床。

静かに一礼するコンシェルジュ。


現実が少しずつ遠のく。


エレベーターは音もなく上昇し、三十階で止まる。


扉が開いた。


広いリビング。

天井まで届く窓。

湾岸の水平線。


そして中央に置かれた、黒いグランドピアノ。


すみれは動けなかった。


「部屋の響きに合わせてあります」


神山の声はいつも通り穏やかだった。


すみれはピアノに近づき、蓋に触れる。

冷たい表面が、現実の手触りを持っていた。


「家賃は気にしなくていい」


神山が言う。


「活動の一部です」


活動の一部。


その言葉は合理的で、

どこか境界を曖昧にした。


すみれは鍵盤に触れ、小さく音を鳴らす。


音が部屋に広がる。

壁に吸われ、天井で柔らかく返る。


完璧な環境だった。


「どうですか」


神山が尋ねる。


すみれは振り返り、小さく笑う。


「……夢みたいです」


それは本音だった。


窓の外には東京湾が広がっている。

高すぎる場所だった。


地面の匂いが届かない高さ。


神山は満足そうに頷いた。


「ここから始めましょう」


その日から、

すみれの生活は静かに変わった。


音楽だけに集中できる日々。

整えられた空間。

支えられた未来。


そして、

見えない首輪。


すみれはまだ、それに気づいていなかった。




すみれは、そのことも知っていた。


その哲学は、慈悲ではなく警告だ。


神山にとってすみれは、肉体の対象ではなく、

指一本振れたこともなかった。


リターンを望む金融商品でもない。


音楽の質、期待値を下回れば、即座に損切りされる。

神山拓也は音楽が好きだ。だから投資する。



そして好きだからこそ、恋愛もない、情は芸術をダメにする。

冷たく切り捨てることもできる。


投資した対価を、すみれの肉体にも求めてこなかった。


すみれは人間としての「生々しさ」を禁じられている。

神山は、すみれのわずかな肉体の変化を見ている。


恋愛禁止: 誰かを愛して心が乱れたり、


失恋して音が荒れたりすることは許されない。


生活苦の排除: 金銭的な苦労(ハングリー精神)すらも、

彼は「ノイズ」として排除している。


だから、すみれは金銭的に困ったことなかった。

ピアノを弾くだけで、何も考えないでいい。



すみれは知っている。


拍手よりも、

花束よりも、




一番怖いのは、

スポンサーが微笑んだまま席を立つ瞬間だ。


それは比喩ではなく、現実だった。


神山拓也は怒鳴らなかった。

声を荒げることもなく、ただ書類を一枚、静かに閉じただけだった。


「早瀬さん」


名前を呼ぶ声が、やけに丁寧だった。


「来季の契約は、更新しません」


一拍。


「今月末までにしましょう」


その理由は、神山は口にしなかった。


通夜のように静かな宣告だった。


拍手も、涙もない。

ただ数字が終わる。


このところ神山の態度がおかしかった。

その違和感は、すみれが一番恐れていた形で現実になった。


契約終了。


音楽ではなく、契約が彼女を支えていたことが、

今さら骨のように冷たく分かった。


---


すみれは、理解するのに時間がかかった。

世界コンクール三位だった自分が、

こんなふうに、あっさり切られるのか、と。


切られた人間の末路も、知っていた。

やがて音楽の世界から離れていく。

生活ができないから。


そして縁があれば結婚し、家庭に入る。

それはそれで、きっと「幸せな生き方」なのだろう――

そう言われれば、否定はできない。


だが現実は、もっと具体的だ。


宅配の運転手。

コンビニの店員。

コールセンターのオペレーター。


履歴書の資格欄に「ピアノ」と書いても、

採用にはほとんど関係がない。


そこでは、過去は一切参照されない。

世界三位も、喝采も、名前も、

誰の生活にも関係がない。


ただ時間を切り売りし、

番号を読み、荷物を運ぶ。

レジの音に合わせて体を動かす。


評価は拍手ではなく、時給になる。


音楽と無縁の世界が、

何事もなかった顔で待っている。


それは残酷というより、

単に普通の社会だった。


すみれはそれを恐れていた。


音楽を失うことよりも、

音楽がなくても世界が普通に回ることを。




すみれは、その静けさがいちばん怖かった。


切れるのだ。簡単に。


住んでいた有明の三十階のマンションも、

最初から神山側が用意したものだった。


「生活に集中できるように」

そう言われていた。


つまり、所有ではなかった。


借りていたのは部屋ではなく、環境だった。


退去日は早かった。





管理会社の担当者は事務的で、

同情も興味もない顔をしていた。


「今月末までにお引き渡しをお願いします」


丁寧な言葉。

だがそれ以上は何もない。


契約が終われば、関係も終わる。


それだけの話だった。


部屋に戻ると、

まだ何も変わっていない。


ソファも、カーテンも、

窓の外の湾岸の景色も、

三十階の静けさも、そのままだ。


だが、すみれには分かっていた。


ここはもう、自分の場所ではない。


リビングの中央に置かれた D-274 が、

やけに大きく見える。


この部屋の中心だったものが、

今はただの「撤去対象」に変わっていた。


すみれは床に座り込む。


何から片付ければいいのか、分からない。


六年間の生活は、

思っていたよりも軽かった。


持ち出せるものは少ない。

残るものは何もない。


静かな部屋の中で、

時間だけがゆっくり進んでいく。


それは敗北の時間というより、

生活が元の重さに戻っていく時間だった。



段ボールが積まれていく。

ピアノは運べない。

あの部屋に置かれたまま、もう自分のものではない。


カーテンを半分だけ開けた朝も、

夜景が消えきらない時間も、全部、借り物だった。


引越し代は出た。

それだけは、きちんとしていた。


封筒に入った、わずかな餞別。

現金で、百三十万。


六年間、二十万ずつ。

二十万×六=百二十万。

それに、最後の十万。


計算してみれば、はっきりする。

おそらく、他のどのスポンサーよりも多い金額だった。


神山は、億単位の金を、すみれに投じてきた。

華やかなドレス代。


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