10章 崩れ行く境界線
5章 回想 有明のマンション
3月のことだった。
契約の更新は、4月1日だった。
有明の三十階のマンションの朝は、音から始まる。
花梨の無垢のフローリングは蜜のように艶めき、
足音ひとつさえ吸い込んでしまう。
贅の限りを尽くして用意された、すみれの住まいだった。
芸大二年の頃から住み続け、六年の歳月が、ここの心地よさが、
その空間の端端まで沁みついていた。
窓の向こうには湾岸の夜景がまだ薄く残り、
室内には5星のホテルのような、自動調光付きの照明
音が断絶された空間だった。
プール付きの共用施設。コンシェルジュのいるロビー。
サウナ付きのスポーツクラブも併設されている。
その体には、後戻りできない贅沢が、
呼吸の仕方にまで染みついていた。
夜景が消えきらないうちに、すみれはピアノの前に座る。
カーテンは半分だけ開ける。
香ばしい沈黙
「先生、全部、冗談。……でも、お腹が空いたのは本当」
翌朝、潮来の街は雨上がりの澄んだ空気に包まれていた。
二人が向かったのは、
川沿いに佇む老舗の**鰻店**。
「いらっしいませ、奥の個室へ」
店内には、
甘辛い醤油と炭火の香ばしい匂いが立ち込めていた。
通されたのは、
雨に濡れる坪庭を望む静かな奥座敷の個室だった。
「……落ち着きますね。真っ白な病室とは、大違い」
すみれはしっとりと濡れた髪を指先で整え、
座布団に腰を下ろした。
もう三日も同じもの着ている。
そのワンピースの裾から覗く白い足首が、
薄暗い部屋の中でやけに鮮やかに見える。
昨夜の密室での、
あのRAMだの条件付けだのといった不穏な会話が嘘のように、
店内には香ばしい、甘辛いタレの匂いが立ち込めてた。
「失礼いたします」
控えめなノックの音とともに、襖が静かに開いた。
仲居が新しい茶器を盆に乗せて入ってくる。
柿沼は弾かれたように身を引き、
何事もなかったかのように湯呑みに手を伸ばした。
一方のすみれは、慌てる様子もなく、
ゆっくりと上体を戻して坪庭の雨を眺める。
「お味はいかがでしたか? 足元の悪い中、ありがとうございます」
仲居が穏やかな手つきで茶を差し替える。
香ばしいほうじ茶の香りが部屋に広がり、
先ほどまで立ち込めていた濃密な空気は、
一瞬にして日常の平穏に塗り替えられた。
「……ええ、美味しかったです」
柿沼の声はまだ少し硬い。
仲居が丁寧に一礼して部屋を去り、
再び襖が閉まると、静寂が以前よりも重く降りてきた。
「……ふふ。先生、顔が真っ赤」
すみれが、わざとらしく明るい声で沈黙を破った。
彼女は自分の湯呑みを両手で包み、
立ち昇る湯気の向こうから柿沼を盗み見る。
「……昨日あんなに深刻な顔をして
『名前がない』なんて言っていた人が、
特上のうな重を頼むんですか」
柿沼は、お茶を啜りながら呆れたように言った。
目の前のすみれは、運ばれてきた重箱の蓋を開け、
立ち上る湯気に目を輝かせていた。
店内には甘辛い醤油と炭火の香ばしい匂いが立ち込め、
雨に濡れる坪庭を望む静かな奥座敷の個室は、
真っ白な病室とはまるで別世界だった。
「先生、潮来に来て鰻を食べないなんて、
それこそパブロフの犬以下ですよ。この匂いを嗅いで、
涎が出ない人間がいます?」
艶やかに焼き上げられた鰻が、湯気を立てている。
柿沼は逃げるように割り箸を割った。
「しっかり食べてください。退院したばかりなんですから、
体力を戻さないと」
「ふふ、先生ってば。ここに来てまでお医者様なんですね」
すみれは自分の分には手をつけず、
頬杖をついて柿沼が鰻を口にするのをじっと見つめた。
「ねえ、先生。鰻って、精がつくんでしょう?」
「すみれさんも、意味不明で理解不能です」
「先生……滋養強壮です」
「先生もたくさん食べなきゃ。
午後の……『往診』、期待してますから」
「往診、ですか……」
「……先生、顔が赤いですよ。やっぱり滋養が強すぎましたか?」
すみれは、さも困ったような顔をしながら、
その実は楽しそうに柿沼の顔を覗き込んだ。
柿沼は逃げるように湯呑みに手を伸ばし、
熱い茶を喉に流し込む。
「……室内が暖房で温まりすぎているだけです。
それに、午後の予定はまだ決めていません。
往診など、勝手に決めないでください」
「緊張してたんですか? 仲居さんに聞かれちゃったかしら。
『夜の回診』の話」
「……からかうのは、やめてください」
柿沼は残った茶を一気に飲み干すと、
意を決したように立ち上がった。
「雨もひどくなってきました。……ここを出ましょう」
「どこへ? 私、泊まるところがないって言ったじゃない」
すみれは座ったまま、試すような瞳で彼を見上げる。
柿沼は彼女の視線を避けるように、窓の外の激しい雨を見つめた。
「……宿は、もう手配してあります。川沿いの静かなところです」
「そう。……先生が選んでくれたなら、文句はありません」
すみれは満足げに微笑み、
柿沼が差し出した手に自分の手を重ねた。
今度は、彼もその手を強く握り返した。
理性の防波堤
「……早瀬さん、離れてください。
あなたはまだ、退院したばかりの『病み上がり』だ」
柿沼の声は低く、自分自身に言い聞かせるような
冷徹さを帯びていた。
彼はすみれの肩をそっと、けれど確実に押し戻そうとする。
「動悸がするのは、雨の中を歩き回ったせいだ。
……体温も上がっている。今すぐ風呂に入って、
横になるべきです。
それが今の僕にできる、最善の『診断』だ」
「診断?」
すみれは、押し返された力に逆らうことなく、
ふっと力なく笑った。
その瞳には、彼への執着と、
拒絶されたことへの微かな愉悦が混じり合っていた。
「先生、まだそんな『見えない白衣』を着ているつもり?
ここには聴診器も、薬も、
あなたを守ってくれる看護師さんもいないのに」
「白衣を着ていようがいまいが、僕は医者だ」
柿沼はネクタイを整え直し、
震える手を隠すように背中で組んだ。
「患者に手を出すような真似は、僕のプライドが許さない。
……今夜は、隣の部屋にいます」
崩れゆく境界線
すみれはゆっくりと首を振った。
彼女は再び一歩踏み出し、
今度は彼の胸板に直接、手のひらを添えた。
「プライド、ね。……じゃあ、
その立派なプライドの下で、
こんなに激しく鳴っている音は何?
これも、ただの『不整脈』で片付けるつもり?」
彼女の指先が、ボタンの隙間から彼の肌に触れようとする。
「私を診て、先生。……病気じゃない私を、
一人の女として。……それとも、
私がここで倒れたら、
また『医者』として優しく抱き上げてくれるの?」
雨音が激しく窓を叩き、二人の逃げ場を奪っていく。
柿沼の理性の防波堤は、彼女の熱を帯びた言葉の波に、
今にも決壊しそうだった。
では、誤字・語感・リズムだけを整えて校閲します(内容や緊張感は変えていません)。
「……なら、いいですよ。立派な主治医様でいてください」
すみれは力なく笑い、彼から離れようと一歩、後ろへ下がった。
その時、彼女の膝ががくりと折れる。
「あ……っ」
短く息を呑む音。
すみれは視線を虚空に泳がせ、
糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちそうになった。
「早瀬さん!」
柿沼の身体は、思考よりも先に動いた。
医者としての本能が、
崩れゆく「患者」を放っておくことを許さない。
彼は瞬時に踏み出し、
床に伏す直前の彼女の細い身体を、両腕で強く抱き止めた。
「早瀬さん、しっかり! ……すみれさん!」
腕の中に収まった彼女は、驚くほど柔らかく、そして熱かった。
柿沼は彼女を抱きかかえたまま、
その青白い頬に手を添える。
しかし、次の瞬間、彼の指先が止まった。
閉じられていたはずのすみれの睫毛が、
ゆっくりと持ち上がる。
そこにあったのは、意識を失った者の虚ろな目ではなく、
獲物を罠にかけた悦びに濡れた、妖艶な瞳だった。
「……捕まえた」
彼女の声は、めまいを起こした者とは思えないほど、
はっきりと彼の鼓動に響いた。
すみれは逃がさないと言わんばかりに、
柿沼の首に腕を回し、その胸板に顔を寄せる。
「先生の勝ちね。……抱き上げるのは『医者』として。
でも、離さないのは『あなた』の意志でしょう?」
柿沼は息を詰めた。
抱き寄せた腕に力を込めてしまったのは、
もはや本能的な処置ではなかった。
外の雨音が、遠くの波音のように聞こえる。
「……卑怯ですよ、あなたは」
「知ってるわ。……でも、こうしないと、
あなたは一生その『白衣』を脱いでくれないもの」
すみれは彼の耳元に、熱い唇を寄せた。
「さあ、診察を続けて。
……心音を聴くのに、服は邪魔じゃない?」
白衣の剥落
「……卑怯だと言いましたね、先生」
すみれは囁きながら、柿沼のワイパーのような規則的な呼吸を乱すように、その胸元に指を潜り込ませました。
ボタンが一つ、指先で容易に外した。
柿沼はもう、彼女を押し戻すことができない。
医者としてのプライド、
倫理、積み上げてきたキャリア——それらすべてが、
雨音にかき消されるほど微々たるものに感じられた。
「分かりました……勝手にして下さい」
低く掠れた声。
それは降伏の宣言でした。
柿沼は彼女を抱き上げたまま、部屋の奥へと歩を進めた。
雨の静寂、ふたりの熱
「官能的」というオーダーを念頭に、これまでの静かな救済の物語から、一気に**「男と女」としての渇望**が爆発する瞬間をより鮮烈に、かつ品よく際立たせる形で校閲しました。
特に、柿沼の「理性の崩壊」と、すみれの「誘惑的な強さ」の対比を強調しています。
畳の上に彼女をそっと下ろしたとき
、外では一段と激しい雷鳴が轟いた。
一瞬、稲光が部屋を白く焼き、すみれの濡れた瞳と、
満足げに弧を描く唇を鮮烈に浮き彫りにする。
柿沼はひざまずき、彼女の頬を両手で包み込んだ。
その指先は、診察の時の冷徹な正確さを失い、
ひどく熱く、剥き出しの情動に任せて震えていた。
「……後悔しても、もう遅いですよ、すみれさん」
「後悔? ……そんな退屈な言葉、
この雨と一緒に流してしまったわ」
彼女は柿沼の首を強く引き寄せ、その唇を強引に奪った。
唇から伝わる熱は、
どんな高熱よりも劇的に柿沼の脳を焼き焦がした。
彼は今、ようやく「医者」であることを止めた。
目の前にいるのは患者ではなく、焦がれ続けた一人の女。
白衣を脱ぎ捨てた彼の腕は、もう診察する者のそれではない。
すみれの腰を折れんばかりに引き寄せると、
その肌の熱に突き動かされるように、
貪るような口づけを繰り返した。
「……っ、先生、苦しい……」
柿沼の理性の糸は完全に断ち切られ、
ただ本能のままにすみれの裸体をやさしくさわった。
「……っ、あ……先生、あつい、そこ……っ!」
すみれの蜜に濡れた太腿が、柿沼の腰に絡みつき、
さらに奥のほうへと彼を誘う。
柿沼は彼女の膝を力任せに割り、剥き出しになった秘部へと、
自身の猛り狂った熱を容赦なく叩きつけた。
一突きごとに、すみれの口からは形にならない嬌声が漏れ、
その肢体はシーツのない畳の上で激しくのけぞる。
柿沼の指は、彼女の汗ばんだ乳房を潰さんばかりに掴み、
荒々しくその尖りを弄んだ。
「君が求めたんだろう……。ここはもう男の本能だ」
柿沼の言葉は低く、獣の唸りに似ていた。
彼はすみれの首筋に深く歯を立て、
自らの印を刻みつけるように吸い上げる。
痛みに近い刺激に、すみれはさらに狂おしく腰を振り、
彼を受け入れた。
「んんっ、あ……っ! もっと、奥まで……
全部、ちょうだい……っ!」
絡み合う肢体から上がる水音と、
肉体のぶつかり合う生々しい官能が、静かな和室に響き渡る。
雨が窓を打つたびに、室内の熱気はさらに濃密になり、
むせ返るような男女の匂いがスクランブルしていった。
柿沼は、彼女の中の最も敏感な場所を逃さず、
執拗に、そして深く抉り続ける。
すみれの意識は、あまりの快感の強さにのけぞる、
ただ男の絶対的な質量に翻弄されるしかなかった。
「……あ、ああっ! 先生、い……いくっ、
もう……だめ……っ!」
絶頂を予感したすみれが激しく身悶えし、
柿沼の背に食い込む爪に、痛みが滲む。
だが彼は止まらない。
彼女の奥を突き破るほどの勢いで、
本能のままに腰を叩きつけ、
二人の境界を力任せに塗り潰していく。
「あ、ぁ……っ! 先生、もっと
……こわして……っ!」
すみれの声は、もはや男を惑わすための演技ではなかった。
繰り返し押し寄せる快感に震えた。
絶望と快楽が混濁した叫びが、殺風景な部屋に反響する。
信也は、彼女を壊したいのか、
それとも救いたいのかさえ判然としないまま、
ただ己の内に渦巻く熱を、彼女の最深部へと注ぎ込み続けた。
やがて、激しい火花が散るような衝撃が二人を貫き、
世界は一瞬の白光に包まれる。
重なり合ったままの身体に、夜の静寂がしんしんと降り積もる。
遠くで響く波の音と、風車のようなうなり声にあえいだ。
汗ばんだ肌が冷たい空気に触れ、
現実に引き戻される感覚だけが、ひどく鮮明だった。
「……先生、壊してくれた?」
すみれが、途切れ途切れの呼吸で耳元に囁く。
信也は答えず、ただ彼女の震える身体を抱き寄せた。
脱ぎ捨て、聖域を犯した男の腕は、
今や一人の女を繋ぎ止めるためだけの、血の通った「熱」
そのものだった。
--柿沼の背に食い込む爪に、痛みが滲む。
だが彼は止まらない。
彼女の奥を、突き破るほどの勢いで腰を叩きつけ、
二人は共に、底知れぬ快楽の奈落へと堕ちていった。
冬の雨に打たれる黒潮の青く澄んだ流れのように、
二人の情欲は、もう誰にも止められない泥沼へと沈んでいった。
### 夜の終わりへ
外の世界では、潮来の川が雨を飲み込み、
濁流となって流れていた。
しかし、この一室だけは時間が止まったかのように、
ただ二人のた心音だけが激しく呼応し合っていた。
柿沼は、彼女の肌に触れるたび、
自分が守ってきた「正しさ」が崩れ去る音を聞いた。
けれど、その崩壊の音こそが、
今の彼には何よりも心地よい音楽に聞こえた。
潮来→東京
雨上がりの朝、潮来の街は眩しいほどの陽光に包まれていた。
ふふ注ぐ陽ざしは、夏のような暑さだった。
「先生、わざわざ送らないでいいです。私、一人で帰ります」
柿沼の手が止まる。
「……一人で? 送っていくと言ったはずだ」
「いいんです。ここからは、一人で戻らないと」
すみれは振り返り、昨夜の情熱的な瞳とは対照的な、
涼やかな微笑を浮かべた。
その表情は、すでに「患者」でも「恋人」でもなく、
東京という日常に生きる一人の女性のものだった。
「明日は、音楽教室があるんです。久しぶりだから、
ちゃんと練習しておかなくちゃ。
……ショパンのノクターン、あの子たちに教える約束なんです」
音楽教室。柿沼の知らない彼女の日常。
白い病室で、あるいは雨の潮来で、
自分だけが見ていると思っていた彼女の世界は、
実はほんの一部に過ぎなかったのだと、柿沼は突きつけられた。
潮来駅、最後の手のひら
潮来駅のホーム。東京行きの特急が滑り込んでくる。
柿沼は彼女の荷物を持ち、扉の前まで付き添ったが、
すみれはそれを受け取ると、一歩引いて距離を置いた。
「先生。……昨夜のこと、忘れません。
潮来のアヤメ、本当に綺麗だった」
「……すみれさん。東京に戻ったら、すぐに連絡して下さい」
「ラーメン、よろしくお願いします」
「鹿島港で、作ります」
すみれ手をふった。
「ええ。……でも、明日はピアノを弾かなきゃいけないから。
指先が、昨夜の熱を覚えていたら困っちゃうわね」
彼女はいたずらっぽく笑うと、足早に車内へと消えた。
発車のベルが鳴り、窓越しに彼女の姿を探したが、
すみれは一度もこちらを見ようとはしなかった。
ただ、背筋を伸ばして座席に座り、
遠くを見つめている横顔だけが見えた。




