1章 青い海
五月十日、午後四時過ぎのことだった。
穏やかな春の鹿島灘は、どこまでも青く広がっていた。
それなのに世界は、
どこか現実から切り離されたように静まり返っていた。
鹿島南防波堤。
沖へ四キロ、海を裂くように突き出した堤防は、
人間の意志が海に刻んだ巨大な線だった。
人はそれを、
『死の防波堤』と呼ぶ。
死者行方不明、八十五人以上。
この十年で、自殺者は百人を超える。
それだけに、『別れを告げる』海は美しかった。
青は透き通り、どこまでも青い太平洋が広がっていいた。
ここにあるのは、
波の音ではなく、徹底的に管理された静寂だった。
その静寂を切り裂くように、一台のタクシーが急ブレーキをかけて
止まった。
アスファルトとタイヤが擦れる不吉な音が、波音を圧する。
柿沼信也は、腕時計を見た。
「もう夕方だというのに……」
その音に弾かれたように振り向いた。
「着きましたよ」
後部ドアが開き、一人の若い女が降り立った。
質のいいコートに整った身なり。
けれど白すぎる肌と、大きな瞳の奥の静かな絶望が、周囲の空気を冷やした。
目元が可愛らしいだけに、その危うさが際立っていた。
荷物の少なさがまた、
彼女がもう戻るつもりのない生活を置き去りにしてきたことを、
静かに物語っていた。
運転手の男が、ハンドルを握る手を微かに震わせた。
バックミラー越しに彼女の背中を見つめる顔が、引きつる。
――思い出したのだ。
この一帯では毎年、十人以上が消える。
自殺者も、行方不明者も。
正確な数など、誰も数えていない。
数えられるのは、
ニュースになる者だけだった。
女は止まらない。
砂にヒールが沈むのも構わず、
波打ち際へ向かっていく。
波の音だけが、
彼女の背中を押していた。
「……お客さん!」
十年前のあの日と同じだった、逃げ腰の臆病者の顔だ。
運転手はドアを開けて、女に歩み寄った。
「待って下さい」
女がようやく足を止めた。
波が、彼女の靴を容赦なく濡らす。
彼女はゆっくりと首だけを振り向けた。
その目元は、やはり可愛らしく、
けれど瞳の中には、鹿島の底よりも深い「無」が溜まっている。
「訳……ありですか?」
彼女の唇が、微かに、震えるように動いた。
風にかき消されそうなほど細い、けれどこの世の何よりも重い響き。
「……訳なんて、全部海に捨てに来たから-----」
風にのった声が、柿沼の耳に運んだ。
その瞬間、運転手の背筋に戦慄が走った。
十年前、大津港で見つかったあの女も、
死ぬ直前に同じように笑ったのではないか。
静寂を切り裂くように、一際大きな波が、
彼女の膝元まで這い上がってきた。
まるでお迎えが来たかのように、波が襲ってきた。
女は、とっさに下がった。
「しばらくしたら、帰るから」
「わかりました、気を付けて下さい」
初老の運転手は、それ以上、何も言えなかった。
唖然と立ちすくむしかなかった。
5分経過
タクシーのテールランプが、
闇に吸い込まれるように遠ざかり、完全に消えた。
その瞬間、あたりには以前よりも密度の濃い、
鉛のような重い静寂が降り積もった。
柿沼信也は、無意識に息を潜めて、見ていた。
若い女は、海に背を向けたまま、
しばらく道の端に立ち尽くしていた。
まるで、自分がこの世から消えるための
最終確認をしているかのような-----感じがした。
春の風が、女の細い身体を容赦なく揺らしている。
柿沼が思わず目を凝らした次の瞬間---、
彼女は祈るように僅かに頭を下げ、
足元に小さな荷物を、一つだけ置く位置をさがしていた。
それは、手提げ一つ分の、あまりに軽い旅支度。
人生を精算するには、あまりに軽すぎる荷物だった。
女は桟橋の突端、海との境界に立った。
足元ではどこまでも青く、白くうねっている。
迷いのない動作でバッグをコンクリートの上に置くと、
ゆっくりと両腕を水平に広げた。
両腕を広げ、鳥が飛び立つ翼のように拡げた。
海風が黒いコートをなびかせ、剥き出しの顔に吹き付けている。
一点を見つめたまま、
重心をわずかに爪先へと移した。
その細い身体が、
重力から解放される一瞬の静寂に向かって傾き始めた。
コバルトブルーの海面を凝視したまま、
つま先を浮かせた。
足跡が深く刻まれるたびに、周囲の沈黙がさらに深まり、
空気の温度が一段下がったように感じられた。
向かう先には、朽ちかけた、
沖へと伸びる桟橋があった。
柿沼の喉から絞り出された叫びは、
「あの」
強まった潮風に無残にかき消された。
女の靴が、桟橋の木板へと進んでいった。
ギィ、と嫌な軋み音が闇に響いた。
そこから先は、波濤がたつ、青い海の中だった。
重力に従い、細い身体がゆっくりと前方に倒れ込んでいく。
風が彼女の髪を激しく乱し、
水平に広げた両腕が風を掴もうとして数回、
巣立ちの鳥のように動かした。
やがて女は、歩調ゆっくりとして。桟橋の最先端にたどり着いた。
波飛が彼女の頬を濡らし、
コートの裾に、風に狂ったように吹き付ける。
彼女は、ゆっくりと両腕を広げた。
柿沼は夢中で桟橋を進んだ。
「待ちなさい!」
柿沼の脳裏に、新聞記事が鮮明にフラッシュバックする。
『若い女性、遺体で発見』。
あの時、タクシーの初老の運転手は、
「訳アリですか」と聞くだけで、彼女の手を掴まなかった。
自分もまた、ただの傍観者で終わるのか。
女の踵が、桟橋の端からわずか数センチのところで浮き上がる。
「待てと、言っているんだ!」
柿沼はなりふり構わず、崩れかけの桟橋に飛び乗り、
女の腕を掴んた。
「離して。……私は、透明になりに来ただけ」
「やめろ……死なせはしない!」
柿沼は、今にも闇に身を投げようとしていた女の身体を、
背後から力任せに引き戻した。
湿り、腐りかけた桟橋の板に、二人の身体が叩きつけられる。
鈍い音が静寂を打ち砕いた。
柿沼はなりふり構わず、折れそうなほど細い彼女の身体を、
桟橋の上に押さえ込んだ。
「離して! なんで……なんで邪魔をするの!」
女が狂ったように暴れる。
柿沼は痛みに眉をひそめながらも、その細い身体を離さなかった。
「離して! 離してよ!
なんで……なんで邪魔をするの!」
女が狂ったように暴れる。
そのとき、1台のパトカーがとまった。
冷え切った彼女の指先が、柿沼の腕を、顔を、必死に掻きむしった。
爪が食い込み、鋭い痛みが走る。
柿沼は痛みに眉をひそめながらも、その細い身体を離さなかった。
彼女の指先に残る冷たさが、掻きむしられた痕の熱さと混ざり合い、
剥き出しの現実として彼に突き刺さる。
「……落ち着いて下さい」
柿沼の声は、逆上する彼女の叫びを遮るように静かだった。
パトカーのドアが開く音が響く。
柿沼は女を抱きしめたまま離さなかった。




