絶対に足りない
気持ち悪い浮遊感が伊澄を支配した。心臓が浮く感覚に吐き気を催して、両手で口を抑える。
こんな所で吐いたりしたら目も当てられない。
伊澄は想像しかけたその光景を、頭から無理やり追い出した。
「てか、どんな高いところから落ちてんの!?!?」
びゅうびゅうと、風を切る音だけが耳に入る。伊澄の叫び声は、ほとんど聞こえない。
本当にこのままじゃ死ぬ。即死だろうが、どんな悲惨な姿になるか想像にかたくない。
痛くなさそうだが……その先は、嫌だ。
「やば、本当に想像しちゃった……」
──最悪な末路を辿った、自分を。
「眠りたいって言ったけど、こんな眠りは望んでなぁぁぁい!!!!」
既に空に浮かぶ島は小さく、セリオスに届くはずもない。
だが、伊澄はセリオスに向かって叫んでいた。
そうでもしなきゃ、行き場のないこの思いが伊澄の中で暴れだしてしまう気がしたのだ。
だんだんと近づいてくる地上を、伊澄はちらりと横目で見る。
乾いた瞳から、涙が滲む。
伊澄はそれを拭うことはせず、ただ身を縮込ませた。
無駄だとわかっても、地面に叩きつけられる衝撃から身を守ろうとしてしまった。
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「……ん、む…………」
ふと冷たいものに触れられて、伊澄は目を覚ました。
凍えるような寒さに、ぶるりと体が震えながら体を起こす。
「雨……? …………さむ…………」
どれくらい眠っていたのか、着ていたスーツはぐっしょりと濡れていた。
雨の雫が伊澄の髪を伝って、ぽたりぽたりと手の甲に落ちる。
寒さに震える体を、伊澄はきつく抱きしめた。
どうやら伊澄が落ちた先は、森の中らしい。
木々が幾分か雨を遮っているが、完全ではなかった。聞こえるのは、葉同士が擦れる音と雨音だけ。
辺りには誰の気配もなく、伊澄は目を閉じる。
「………………なんなのよ、もう………………!」
寒さで震える体に、わなわなと震える心が混じる。
頬が熱く、赤く染まる。考えれば考えるほど、伊澄の中に怒りの炎が燃える。
「……死んでるのは保証する? なら、静かに眠らせてくれればいいじゃない……なんで意識があるのよ!」
だけど、こうして寒さも感じて、鼓動も感じる。
力任せに握りしめた手のひらに、爪が刺さって血が滲んだ。
痛みも感じて、血が流れるのにこれが生きてないなんて冗談じゃない。
泥に塗れ、伊澄はずぶ濡れのまま立ち上がった。
絶対に許さないという気持ちが、伊澄を奮い立たせる。
「絶対、文句言ってやる……!!」
ぶつぶつと、伊澄は神様に対して呪いとも呼べる言葉を吐き出す。それがどれだけ罰当たりだろうとも、知ったこっちゃなかった。
見開かれた目は、復讐という名の炎に燃えていた。
雨粒が涙のように瞳に入っては、流れる。それを厭わず伊澄は大地に立ち、ふと足元に目線を下ろした。
「…………ん?」
なにやら伊澄の足元の様子がおかしい気がした。目を凝らして伊澄がじっと見つめていると、不自然に藪が溶けている。
それは文字通り、葉が溶解液をかけられたように紫色に変色して腐っているようだった。
「えっ…………? 何…………?」
辺りを見回すが、その現象は伊澄の周りにしか起こっていないようだった。それも、伊澄の手が届く範囲。
「まさか、ね…………」
伊澄は泥だらけの手を見る。何の変哲もない自分の汚い手があるだけだ。
まさか、という思いを振り切るために、伊澄は手近の木へと手を伸ばす。
木の幹が、焼けるような弾ける音と共に白い煙が上がる。溶けた幹が液体状となって、ロウソクのロウのようにしたたれ落ちた。
その様子を伊澄は口を開けて、唖然と見ていた。目の前で起きている状況が、飲み込めずただ立ちつくす。
「なによこれ、私……化け物じゃん……」
信じられないと、色んなものを触っては伊澄は
何度も確かめた。
しかし、どれも伊澄の手は全てを溶かす最悪な魔法の手を証明し続けた。
「どうすんのよ、これ……」
人間では手に入らない人ならざる力を持った伊澄は、途方に暮れた。
見上げた空は黒くどこまでも重苦しく広がる。
「何もかも、あのセリオスっていう神様のせい………………!!!」
脳裏に浮かぶのは、最後まで話を聞かないセリオスの顔だった。
にっこりと笑いながら空から突き落とし、ここへ無理矢理飛ばしたあの顔が、伊澄の視界にチラつく。
それが腹ただしくて、伊澄は堪らなくなる。
ガンッ、と力任せに伊澄は拳を木へと叩きつけた。
その時も、木は溶けだしやがてかれるように倒れた。耳を劈く木が裂ける音に、鳥たちが驚いたように飛び去っていく。
それでも、伊澄の心の怒りは収まらない。
「文句を言うだけじゃ足りない……一発殴るくらいじゃなきゃ……!!!!」
立ち上がった伊澄の前、泥濘む地面に獣道すらない。
伊澄が歩いた場所が道だった。




