絶対に逃がさない
「ごめん、つまらなかったよね。まずはここから逃げ出そう」
こんな話したって実りある自分の過去を話している場合ではない、と伊澄は考え直す。
面白い話でもないだろうに、聞いてくれたアルスには悪かったと素直に思った。
どうしようか、と窓からそっと外を伺うとぐっ、と袖口を引っ張られる。
声を上げる間もなく、後ろに引っ張られ尻もちを付いた。
「いてて……どうしたのよ……?」
背中から伝わる僅かな温もりに、伊澄は振り返った。
腰に回されたアルスの腕に力が籠る。まるで隙間を埋めるかのよう。
アルスの表情は伊澄の肩に埋められていて、読み取ることは出来ない。
ただ、静かに落ちる吐息がなんだか泣いている人みたいで、伊澄は言葉を失った。
慰めるとか、そういうのではない気がした。
(私のことを、少しでも思ってくれているのかな)
今まで伊澄に与えられていた、負の感情ではなくて──大事に思ってくれるような、温かいもの。
伊澄が受け取ってこなかった、そんなものを。
伊澄は目を閉じて、アルスの手に自分の手を重ねた。
温かい体温。いつまでも、触れていたい欲が出るもの。
けれど、伊澄は二度その手を軽く叩いた。
あくまでも、そっと離れてと言うように。
「…………なんだ」
アルスは不服そうに、顔を上げた。その腕は回されたままだ。
「なんだ、じゃないの。ここから逃げないといけないでしょ。多分、囲まれてる」
分かってるでしょう? と目だけで訴えるがアルスは子供のようにぐずって離れずにいた。
しかし、伊澄が囲まれていることを知るくらいの気配を、アルスが分からない訳ではない。
はぁ、と深くため息を吐いて目を閉じた。何かを唱えるように、つぶやく言葉は伊澄には聞こえない。
再び目を開く頃には、アルスの目には覚悟が浮かんでいた。
「俺から、離れるなよ」
行くぞ、と何気なく握られたその手に伊澄は声を上げた。
握られたその手は革手袋をしていない手だったから。
このままでは、伊澄の毒でアルスを溶かしてしまう。
そう思ったら、伊澄は気が気じゃなくて冷や汗が浮かぶ。
慌てて振り解こうとしたが、アルスの手は許しはしなかった。
温かい体温はずっと、伊澄を捉え続ける。
伊澄の手は、アルスの手を傷つけはしなかった。この世界に落ちて幾ばくも経っていない。その中で傷つけることは沢山あっても、傷つけないことはそうそう無かったのに。
初めて、伊澄は隣にいてくれる人を本当に見つけた気がした。
「離すものか。この手を離したら、イスミはどこかに行きそうだからな。そう簡単には離してやらない」
前を見据えたままアルスはそう言い切った。
その表情は、どんな顔をしていただろう?
見てみたい気もしたが、伊澄は無粋かもしれないと小さくうなづいた。
(私だって、離せないよ)
その手を柔く握り返す。伊澄の能力を、ものともしない人を、難なく伊澄の手を自ら握ってくれる人を離せる訳がなかった。
アルスの合図で崩壊しかかった建物を飛び出す。その手はお互いがお互い強く握りあったまま。
あちこちで、居たぞ、あそこだ! と叫ぶ声がする。
見つかるのは承知の上だった。どれだけ伊澄たちが足掻こうとも、数では勝てない。
ならば、ここから逃げ出す力に絞ったほうがいい。
伊澄はアルスに置いていかれないように、必死に足を動かした。
ここで殺される訳には……行かない。
道に散乱する窓ガラスの破片に炎が映る。ガラス片を焦りとともに踏み潰す。
廃墟と化した町を必死に走りながら、伊澄はふと後ろを見た。
そこには、猟銃を構えた人々。遠くに離れていても分かるギラついた目は、獲物を狩ろうとしている目だった。
読んでくださりありがとうございます!
段々と伊澄の過去も明らかに。
これからも面白くなるように頑張ります!




