どこかで聞いた声
黒い手が叩きつけられる度に、地面がひび割れる。その衝撃は凄まじく、踏ん張っていないと立っていられないほどだった。
その力を振るえる黒い塊にも驚くが、伊澄が驚いたのはアルスの方だ。
まるでなんとでもないと言わんばかりに、全ての手から身を翻し躱していた。
それがどれだけの猛追であろうと、全てが見えているかのようだった。
ふわりふわりと風を受けて舞い上がるように、力を抜いて躱す様は舞っているようだ。
(すごい…………)
騎士、とはあれほどまでの技術を得るものか。
いままでのアルスの生き方を見ているようだ。
どれくらい努力を重ねたら、出来るようになるのだろう。
「…………イスミ、何してる!」
あっ、と伊澄は気づく。
そうだ、呆けている場合ではない。邪念を振り払うように伊澄は強く頭を振ると、アルスの元へ駆け寄る。
アルスは身を翻しつつ、肉弾戦を仕掛けていた。黒い塊はアルスの打撃や蹴りを受けても、脅威の柔軟性を持って受け流していた。
衝撃を全て包み込むようにその身体を変化させちぎれない。
アルスの力が弱い訳じゃない。黒い塊が異常なのだ。
それはアルスも分かっているらしく、繰り出す攻撃がいなされる度に、納得が行かないように顔を顰めた。
(相手が悪すぎる……)
相性、と言うべきだろうか。
攻撃は躱せても、倒すことは出来ない。
しかし、アルスにとっては不利なことには変わらないが、隙は生み出せる。
いくつかの黒い手が、怒りに震えるように手をしならせていた。
現に、黒い塊がイライラしているのか、少し苛立った空気を伊澄は感じた。
(ここで私が触れたら!)
伊澄は黒い塊の背後であろう場所に回る。
アルスと退治しているのが前だとしたら、の前提だったが、それは正解だったと伊澄は思う。
アルスに集中していて、伊澄の姿をすぐ近くまで来て認識していないようだった。
「行け、イスミッ………………!!!」
塊越しにアルスの顔が見えた。
真っ直ぐに伊澄を見るその表情が、信じてる、と言っているようだった。
(それだけで……私は…………)
伊澄は足にぐっと力を込めて、地面を蹴る。精一杯伸ばした腕で、自ら黒い手に触れた。
「ぎぎ………………………………ぎゃぁぁぁぁあ!!!!!」
つんざくような悲鳴に、伊澄は耳を塞ぎたくなった。
悲鳴と呼ぶにはあまりにも甲高く、声帯から発せられるものとは呼べない。鼓膜が破れそうだ。
けれど、アルスが囮になって作ってくれたチャンスをみすみす手放す気なんてなかった。
このチャンスを逃したら、次はこの手は効かないだろう。
伊澄は一層、その手に力を込めた。風船が割れるように、黒い塊が弾ける。
伊澄の視界は黒で塗りつぶされた。
──どうして、あなたなの?
「だ、誰……?」
その問いかけが、自分にされているのを伊澄は一瞬理解出来なかった。
それは、視界が全て黒で塗りつぶされていて、目を開いているのか閉じているのか分からなかったからだ。
──どうして、私を選んでくれないの?
それを理解したのは、伊澄の目にその姿が映ったからだ。
自分はちゃんと目を開いているのだと、分かったから問いかける人物がいることに気づけた。
黒の世界でぼんやりと、不吉なほど黒いワンピースを着た少女と思わしき姿が浮かび上がっていた。
(この声、聞いたことがある……)
初めて黒い塊と遭遇した時に聞いた声。
いや、それ以前にずっと聞いていた、気がした。
改めて聞いて、伊澄はそう思った。
(だけど、思い出せない)
聞き覚えはあるのに、思い出せないことが歯痒い。
何か、ずっと前に落としてしまった、なくしてしまったものの気がする。
「ねぇ、誰、なの?」
教えて、と伊澄はその人物に目を凝らす。
姿ははっきり見えるのに、その顔は鉛筆で塗りつぶされたようで見えない。
その少女は、伊澄の答えを聞いてたじろいたよいに一歩下がった。
そして、伊澄の質問に答えることなく呟く。
──どうして、私を…………。
突如、黒い世界は音を立てて崩れた。
まるで花が散るように、一枚一枚剥がれ落ちていくその先に白い空間が見えた。
その光で少女の姿が薄まるように、消える。
「待って!」
伊澄がそう叫んでも、その声は届かず必死に伸ばした手もその姿を掴めなかった。
「おい、しっかりしろ、伊澄!」
「…………あるす…………?」
思った以上にたどたどしい声で、アルスを呼んでしまったと伊澄は思った。
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