別の標的
「………………まさか……!」
何か深く考えていたアルスが、慌てた様子で声を荒らげる。
その声をあげた瞬間、黒い何かは弾かれたように宙を飛んだ。
星の光を飲み込む圧倒的な黒が、夜空を駆ける。それはあっという間に伊澄とアルスの元を去っていった。
その先には───。
「あいつ、町へ行くつもりだ!」
まずい、とアルスは責め立てられるように走り出した。
慌てて伊澄はアルスの背中を追いかけた。
(早っ…………!)
思った以上にアルスの足は早く、距離がどんどん離れていく。
先行って、とか待ってとか、いろいろ言えたのだろうが、伊澄には喋る余裕はもうなかった。
背中を追いかけることで精一杯だったのだ。
「…………っ、仕方ない。失礼するぞ」
ひょいっと身を昼がしたかと思うと、伊澄はアルスに抱きかかえられていた。
これでアルスに抱きかかえられるのは、何度目だ、と伊澄は息切れした頭で考える。
「わた、わたし、のこと、いいから」
やっとのことで息を整えた伊澄が言うと、アルスは怪訝そうに眉根を寄せた。
「そんなこと出来るか、イスミとは約束したからな。離れる訳には行くか」
まるで伊澄など抱きかかえていないように、息も切らさない声ではっきりそう言った。
あぁ、なんて真っ直ぐな人なんだろう。伊澄はそう思った。
交わした約束のために、離れられるかなんて。
別にここで離れて、伊澄が死んだとしてもアルスには関係ないだろうに。
だから、こうも思ってしまった。
どうせ終わるなら、この人に終わらせて欲しいと。
そうしたら自分は、綺麗になって死ねる気がしたから。
────────────
「まずいことになったな……」
夜風を切りながら、アルスは呟いた。
町に近づくにつれて、流れてくる焦げた匂いに伊澄も気づいていた。
アルスの呟きに、伊澄は黙って頷く。
夜の闇で煙は見えにくいが、その下には赤黒い炎が見える。
火のないところに煙は立たない、とはこのことだろう。
あの黒い塊が、町を襲ったことは明白だった。
「これは……」
町に入ると目に付いたのは、黒いどろどろした液体のようなものだった。ヘドロのようなそれは、道や建物、植物を溶かしているみたいだった。
(まるで私の手と同じような……)
それに触れようと、伊澄は手を伸ばした。
これがなんなのか、触れたらわかる気がした。
「ばっ、何してる!」
じゅ、という小さな焦げる音と、アルスが伊澄の体を思いっきり引いたのはほぼ同時だった。
「え? …………あ、ごめんっ!」
伊澄はアルスに掴まれた手を見て、慌てて腕を振りほどく。
振りほどいた自分の手を胸に抱き、体が震えた。
焦げる音は、伊澄がしていた革手袋が溶ける音だった。
今、伊澄の手は空気に晒されている。この手で触れたら、アルスを傷つけてしまうだろう。
それが恐ろしかった。
震える手を胸に押し付ける。万が一アルスに素手で触ってしまわないように。
「…………」
アルスは何も言わなかった。何か言いたげに、口を薄く開き、すぐに閉じた。
数秒考えたあと、アルスは別の話題を切り出すことにしたようだった。
「………………これは、かなり厄介な置き土産だな。けど、これを辿ればあいつにたどり着けるかもしれない。行こう」
「…………分かった」
冷静な落ち着き払ったアルスがそう言って、前を歩き出した。
伊澄はそれに習って、歩き出す。
町は混乱を極めていた。未知の力で破壊された建物は傾き、半壊していた。
その影響で、燃えているものもある。
その惨状に、伊澄は目を逸らしたくなった。




