逃げた先に
「まぁ、見ていろ。こうすれば、お前を抱えて逃げられる」
まるで金色の月が雲で隠れるように、チロはその目を伏せた。
ふるりとチロの身体が震えると、その美しい毛並みが逆だっていた。伊澄は何が起こっているのか分からず、不安げにチロを見上げる。
雪原を思わせる灰色の毛並みは、人の長い髪に変わり、雪のようにふわりと舞う。獣の爪は鳴りを潜め、柔らかそうな人と寸分たがわない血の通っているみたいな肌。
伊澄の目の前で狼という獣の姿から人の形を成し、神々しく立っていた。
伊澄は狐にでもつままれているのかと思った。
この炎の中、涼しい顔をして立つ姿に。
「行くぞ」
「行くってどこに……?」
「外に決まっているだろう」
チロが伊澄の前に屈むとすくい上げるように、いとも簡単に抱き上げられた。
伊澄は落とされまいと、咄嗟にチロの首にしがみつく。
「そのまま振り落とされないように、掴まっていろ」
チロは焼けた床を思いっきり蹴ると、伊澄の視界が激しく揺れる。舌を噛まないように、強く閉じていると、浮遊感に今度は襲われた。
と同時に耳を劈くような爆発音と、ガラスの砕ける音。
「お前!! 誰だ!! 待て!!」
次々に聞こえる男たちの怒号が伊澄の耳を掠めた。冷たい空気が肺を満たしていき、何が起こったのかと伊澄は薄ら目を開いた。
「嘘……」
流れる景色に伊澄は目を完全に開いた。まるで風を切るかのように、木々たちが後ろへと通り過ぎていく。風を切る音はこの世界に落ちてきた時と変わらない。
チロの肩越しに振り返ると、伊澄が棲みついていた山小屋は既に見えなかった。
ただ立ち上る黒煙だけが、遠くの方で見えただけだ。
たった三ヶ月くらいを過ごしただけだったのに、何だか心に冷たい風が吹いた気がした。芯から冷えて凍えたみたいに、酷く寒い───。
それは居場所を失った、そんな感覚に近かった。
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夜。その晩はとても星がよく見えた。伊澄は川辺に座り、星空を眺めていた。
川辺はかなり冷え、伊澄は自分自身の肩を抱いた。
心底から忍び寄る冷えに耐えながら、焚き火の炎を見つめる。
逃げきれたのはいいものの、雨風を凌げる場所が簡単に見つかる訳もなかった。
チロと二人、さまよった挙句、川辺にたどり着いたのだ。
チロは手早く手馴れた様子で起こすと、食料を探してくる、と一人森へと行ってしまった。
どうやら、森の中での食料調達の経験があるらしい。心配する伊澄を他所に、軽く手を挙げて行ってしまった。
1人取り残された伊澄は、こうして火の番をしている
ぱちぱち、と静かに燃える火を見つめながら、適度に枯れた細枝をくべていく。
「同じ炎のはずなのになぁ……」
昼間燃え盛る炎の中にいたと言うのに、まるで違う暖かさを感じ、伊澄はため息をついた。
業火も過ぎれば暑さ忘れる、ということだろうか。
身を焼き付くさん勢いの炎も、伊澄を照らす焚き火の小さな炎も同じなのに。
少し震える体は、寒さに負けそうなだけじゃないのだろう。
抱えた膝に伊澄は額を預けて目を閉じた。
(これからどうしよう)
ぐるぐると、頭を巡るのは混乱と疲労だった。
考えなければいけないことは沢山ある。
伊澄の頭は考えれば考えるほど、泡のようになって思いが消えていく。
それほどまでに、伊澄の心は疲れていた。




