炎の中で
逃げる隙もないまま、伊澄は火と煙に巻かれた。あっという間に火の手が周り炎が辺りを包み混む。
ここまで一気に燃えるのか、と伊澄は思った。
が、チロがいる手前、既で踏ん張りを効かせる。ここで伊澄がパニックを起こしたら、誰もチロを助けられない。
小学生の頃していた避難訓練の経験を思い出して、咄嗟に身を屈める。
煙は上へ上へ向かって昇っていく。下の方には空気がまだあるが、一刻の猶予も許されない。
「まずい、このままじゃ……」
二人とも仲良く炎に焼かれるだろう。
迫り来る炎の熱が、伊澄の肌を撫でていく。滲む汗も直ぐに沸騰しそうな暑さがそこまで来ていた。
咄嗟に口を袖で覆って、チロを強く抱き締める。
(チロだけでも……逃がさないと……)
死ぬつもりは無いが、チロをここで殺すつもりはもっと無かった。
げほげほと咳き込みながら、伊澄が薄い酸素を吸い込んでいると、突然チロが暴れだした。
「まっ、て……! チロ!」
なだめようとする腕を振りほどき、チロは伊澄の体にのしかった。
チロの鋭い爪が服を突き破り、肩に食い込む。あまりの痛さに、伊澄は炎の熱を忘れてチロを押しのけようとした。
しかし、チロは更に爪を食い込ませる。
「やめて、チロ……!」
伊澄は何が何だか分からなかった。
怪我をしていたチロの何処にこんな力があったのか、どうして自分にのしかかり爪を立てたのか。
伊澄は……裏切られたような気がした。
(あぁ、そうか……私はチロを仲間だと思ってたのか)
炎に目を焼かれたから涙が出るのか、チロに裏切られて悲しいから涙が出るのか分からなかった。
ただ、ただ、涙が伊澄の頬を撫でる。
全てが熱かった。熱くて、身が焼かれそうだ。
ただ、血が流れるチロが触れている場所が、一番熱い。
「どうして、なの? 私のこと、嫌い……?」
チロの目に炎が映る。それは、チロの心の中を覗き込む、そんな気分だった。
伊澄が計り知れない得体の知れないなにかが、蠢いているようで、背中がぞくりとした。
「あぁ、人間。俺は、お前たち──お前のことが、嫌いだ」
地を這うような、低い低い声。
その声に伊澄の世界が静まり返った。炎が爆ぜる音も、その向こうで叫ぶ男たちの声も聞こえない。
聞こえるのは、チロから発せられる呼吸の音。
伊澄はチロから目が離せなくなってしまっていた。目を見開いた伊澄の目に、チロの鋭い牙が映る。
黄ばんだその歯で、どれくらいの獲物を狩ってきたのだろう。
口の端から垂れる涎が、獰猛さを際立たせた。
「こんなところまで来て、まさか今度は火に焼かれるとは思ってもみなかった」
やれやれだ、とチロは自分の運命を呪うかのような言葉を吐いた。
「それに、人間などにチロとか言うふざけた名前を付けられるとはな。本当に、不快極まりない」
今にもかぶりつかれそうな距離で、チロと伊澄の鼻先が触れ合う。
獣の匂いが、伊澄の鼻を刺激する。陽だまりのような優しい匂いはもうしない。
するのは、伊澄を食い殺さんとする匂いだけ。
伊澄は震える体を無理やり押さえつけながら、チロの顔を見あげた。
「貴方、ただの狼じゃないのね? 何者?」
涙を引っ込めて強く伊澄は下唇を噛んだ。痛みで打ち消さなければ、いつまでも泣いてしまいそうだった。
そんな弱い自分は、要らない。
そんな想いで、伊澄はチロを強く睨みつけた。
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