真っ暗な日常
静まり返った住宅街に、ヒールの音が無駄に大きく響いたような気がした。
腕時計を見ると、午前二時を指している。
仲島伊澄は、濃いクマを抱えたまま深いため息をついた。
朝適当に仕上げたメイクもすっかりくたびれて、肩まである髪には艶はない。
早く堅苦しいスーツも脱ぎたかった。
瞼は重く閉じかけている。何より、食事もまともに摂っていないせいで荒れに荒れ、血色は悪く真っ白だった。
今日も今日とて、残業三昧で帰宅時間はこの時間。寝る間を惜しんで仕事をしたいとは、とうに思えなくなっていた。
「疲れた……今日は四時間くらい眠れるかな……」
疲れた体を引き摺って、家路を急ぐ。
疲れすぎて体が動かないせいか、今日はやけに足取りが重くて伊澄は首を傾げた。
いつもだったら、もう少し早く歩ける。それに、早く帰ってとにかく寝たい。
明日も、六時過ぎには家を出ないと迫り来る納期に間に合わない。
「それに、遅刻なんてしたら、赤澤さんになんて言われるか……」
はぁ、と深い溜息をつきながら、頭の中で遅刻とはなんだ! と伊澄の上司──赤澤の顔が浮かぶ。
一度怒りに火がついたら、手が付けられない赤澤を伊澄は好きになれなかった。
──だから、何度言わせればわかるんだ!
──休み? 休みなんてあるか! 仕事しろ、仕事!
──これが終わらない限り、帰るなんて思うなよ!
伊澄の頭の中で、赤澤の声が何度となく繰り返される。反響する声は耳を塞いだって聞こえていた。
中年宜しくだらしなく腹が出た見た目。伊澄より年上と言うだけで、威張り散らす職場の厄介者。
何度、消えて居なくなればいいのにと思ったことか。
「まぁ、そんなこと、願っても仕方ないんだけど」
何度目かのため息をついて、馬鹿な考えを頭の隅に追いやっていると自宅が見えてきた。
駅から近い二階建てのアパート。オートロックはなく防犯には少し甘い。
けれど、伊澄の給料でも手が届く家賃だから決めた場所だ。
気休め程度に二階の角部屋を借りていたが、疲れた体には酷だった。
「ここを借りた昔の自分を呪いたい……」
手すりを掴む手に力を込めて、体を引き上げるようにして階段を上る。
あぁ、今日はなんて疲れる日だ。
鉛のように重い体と、耳鳴りさえしてくる耳を押さえた。
登りきったその先で伊澄は息を整えるため、深く息を吸っては吐く。
まずい、頭痛までしてきた。これはかなりやばい症状だと、玄関の鍵を急いで開ける。
お風呂や食事は後回しにして、ベットで寝てしまおう。
そうした方がいい、と自分に言い聞かせて部屋の中に倒れ込む。
「あ、れ……?」
次の瞬間、どさっ、と何かが倒れる音がした。その音が、自分が床に力無く倒れ込んだ音だと気づくのに、数秒かかった。
「ま、ずい」
伊澄の口から出た声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
このままでは、本当にまずい。何とかして立ち上がろうと四肢に力を入れる。
けれど、ぴくりとも伊澄の体は反応しなかった。
焦れば焦るほど、伊澄の視界が狭まって黒く侵食されていく。
とうとう声すらも出なくなって、伊澄は半ば諦めかけていた。
このまま誰にも見つけられなかったら、どうなるのだろう?
人知れず死んでいくのだろうか?
一人だから後のことは誰がするんだろう、と伊澄は冷静に考え始めていた。
普通の人だったなら、生きたいとか死にたくないとか思うのだろうが、伊澄は違う。
誰かに迷惑がかかろうが、眠れるならそれはそれで歓迎だ。
別段生きていたって、伊澄には楽しいことはなかったから。
そう思ったら、侵食される視界に抗う理由はなかった。
このまま暗闇の中で目を閉じられたら、ゆっくり眠れる。
それはそれでありかもしれない。
段々と、引きづり込まれるような、深い眠りに伊澄はただ身を任せた。




