長くて短い1日。
“気を付け!”
『コツッ(バフッ)。』
ブーツの踵がぶつかる音の中に異音が混じる。
サイズの合っていない為か、足を閉じるとズボンの余った部分の生地が擦れて音が出てしまったのだろう。ーそんなどうでも良い事に意識を向けたままでは居られない。”気を付け”は単に直立不動の姿勢を取るだけであるが、それでは解説としては50点。“気を付け”のもう半分の要素は、直立不動の姿勢を取ることではなく、全ての動作がこの姿勢から始まり、この姿勢へと戻ることにある。某漫画で会長が祈りの所作を挟んで攻撃をするように、気を付けを経由し身体を動かすのである。
そんな基点となる態勢を取らせたからには当然、次の号令が飛んでくる。
“回れ右!”
右足を足1つ分後ろに下げ、踵を基点に反転し、前に出た形となる右足を下げる。
言葉で説明をするのは難しいが、回れ右を説明するならばこんな感じであろうか。
動きとしてみれば後ろを向くだけなのであるが、実際には180度回転するのは意外と難しいし、踵の位置は殆ど動かない点など、細かなポイントが多く、やってみるとこれがまた難しい。いや、細かなポイントに注意するという点では、気を付けの時点で簡単ではないのだが。
“右向け右!”
くだらない事を考えている間に次の号令が飛んでくる。今度は右足の踵と左足先端を基点に右に90度回転、左足を右足に引き付ける。こちらも文字にすればこれだけ、簡単そうだ。左に向くのはこの逆。
これらは所謂、基本教練と呼ばれる物だがこんな物を行なう場所は限られるだろう。基本教練という名称はともかく、噂では一部の高校等では行われているとも聞くが、こんな軍隊じみた事を学校で行っているとは驚くばかりである。
ここは、その数少ない基本教練を仕事とする組織、陸上自衛隊である。
官民問わず、何事も、初めは基本基礎から学ぶ物であるが、ここ陸上自衛隊でも例に漏れず基本を初めに学習している。新入隊員が最初に取り組む事が基本教練なのだ。
何度も繰り返し、反復して動作する事で体に染み込ませるのが基本教練で重要なのだと仰る教官殿(教官呼びは一般的ではなく、氏階級呼びが主流である。班長や隊長等、役職で呼ぶ事もある)の言葉を聞き流しつつ、ひたすらに同じ動作に励む事、数十分。ある程度慣れて来たところで基本教練は終わり、訓練担当の教官殿から所見を貰い、本日の訓練は終了だ。
時刻は16:10 普段より30分くらい早く訓練が終了した。
ただし、訓練は終わったが、まだ課業(勤務)は終わっていない。終礼で解散を告げられるまでが課業なのだ。
訓練が終わる時間はマチマチなのだが、終礼が始まる時間は基本、固定である。つまり、訓練がどれだけ早く終了したとしても課業終了までの時間、何か別の事をするという事だ。
新隊員教育期間中に、時間が空いたら何をするのかと言えば『間稽古』である。
私の教育隊では、間稽古という言葉を隙間時間の稽古として使用しているらしく、5分程の空いた時間があれば間稽古が始まる。行なわれるのは専ら筋力トレーニングなのだが、本日の隙間時間は40~50分程もある。間稽古を実施すると告げられた同期諸君の中には絶望で目を曇らせる者も多かった。
私も極度のストレスからか、汗が流れ始めた。目に汗が入って視界がボヤけてしまっている。重要な事なので繰り返すが、『汗』である。
腕立て伏せ、腹筋だけでそれぞれ20分近く追い込み、更に“別の種目でも始めようか”なんて教官殿が宣うと同時、新隊員全員が待ち望んでいただろうラッパが聞こえてきた。
『ド・ソ・ド・ドミソ』
本日の課業が終了した合図である。
駐屯地によって多少違いがあるが、ここでは8:15~17:00の間を課業中、それ以外を課業外と呼ぶ。課業開始と終了の際に、国旗の掲揚と降下がなされ、併せてラッパの演奏が行われる。駐屯地内では国旗に対する礼を怠ってはならず、ラッパが流れると同時気を付けの号令が飛び交う。日の丸を背負って働く仕事柄、当然ではあるのだが、少しばかり厳しくも感じる。
本日も国旗の方角へ身体を向け、今日の稼業を終わらせてくれた国旗降下へ感謝の敬礼をする。
終礼では各教官からありがたいお言葉を聞き流しつつ、食事などを始めとしたこの後の流れについて脳内でシミュレーションを繰り返す。
課業が終了したとはいえ、新隊員である私たちの自由時間は少なく、限られている。その限られた時間というのも、やるべき事をこなし、自分で勝ち取らなければ享受する事はできない。
それ故、終礼が終わるなり速やかに、同じ班の仲間たちと食堂へ前進する事にした。
食堂では大変ありがたい事にお腹いっぱい食べる事ができる。例のコビットのお陰で各人がしゃもじで好きなだけ米を盛れる形式からは変わってしまったものの、食堂の方が大盛りの皿を用意してくれている。
高校を卒業したばかりでまだまだ食べ盛りな者が大半を占める新隊員は大喜びで大盛り皿を盆に乗せる。唐揚げを付け合せのサラダで胃に押し込み、汁に投入した米をかき込む。世間の皆さまには見せられないような汚い食べ方であるが、自衛隊の教育中では常に時間と戦う事になる為、これはマストである。
食事を終え、次に向かうは戦闘…ではなく銭湯である。
毎期数百人〜千人近くいる新入隊員だが、全員等しく入浴できる時間が決まっているため浴場は常に大混雑である。食堂も同様に混雑しがちではあるが、食堂に比べ浴場は入れる最大値が少ないためギッチギチになる。特に身体を洗うためのシャワーヘッドが熾烈な争奪戦となるのだ。ここは正しく戦闘と呼べるだろう。
浴場から帰還すれば待っているのは次なる戦場、洗浄である。洗濯機もまた奪い合いだ。1フロア毎に洗濯機が4~5台あるのだが、今期の新隊員は1フロアに1個区隊8班が生活している。1班6~10名(人数にバラつきがあるのは途中で退職した者がいる為)なので1人1台で洗濯機を使うと、最低でも10回転はしないと足りない。なので数人で共有する事が多いのだが、洗濯物が多すぎて3人分でどうかという状況になる。
苦労して洗濯機を確保し、洗濯物を投入すればその間に翌日の準備である。翌日の準備とは靴磨きとアイロン掛けだ。
自衛隊では使用するブーツを戦闘靴、半長靴。服を戦闘服、作業服と呼ぶのだが、これらは基本的には毎日手入れしなければならない。靴は土や砂を落とし、先端は鏡面磨きを行なう。服はシワを伸ばし、センタープレスなど、要所にアイロンで線を入れる。途中、終わった洗濯物を別の班の同期が持ってきてくれる(使用者が回収に来るのを待つと時間がかかるため次の使用者が洗濯物を届けてくれるのである)のでハンガーにかけ、乾燥室へ干す。
食事、入浴、洗濯、翌日の準備まで終わると漸く自由な時間である。日によって違うが、大体20時前後。我らが4班はここまで他班を圧倒する連携プレーで、様々な集団行動を迅速に行ってきたが、爾後は個人行動へと移る。
座学の復習を試みる者、スマホゲームに興じる者、雑談に盛り上がる者、筋トレに励む者、睡魔に負けいびきをかく者、様々だ。今日は班員同士でスマホアプリの麻雀をしながら雑談で盛り上がった。
21時頃にもなると他班の同期達も個々のタスクを終えて雑談に混じりだす。
21時25分、誰かのスマホからアラームが鳴ると同時、ため息が漏れる。掃除の時間だ。
本日の掃除、4班の担当は…事務室清掃か。居室を清掃する者と事務室を清掃する者とに別れ、事務室清掃となった4名は掃除道具を用意し事務室前に整列する。30分になると同時に代表者が扉をノックする。
“山田自候生、他3名入ります!”
““入れ””
“山田自候生、他3名の者は清掃に参りました!”
““清掃実施””
“実施します!”
掃除も決められた時間内に終わらせる必要があるため、実施を指示されたらテキパキと掃除にとりかかる。窓のサッシ、ドアの上から机の下まで細かく清掃を行なう。清掃の終わりが近づくとゴミを集め、道具を回収しまた整列する。
“点検お願いします!”
““着眼””
“着眼は掃き掃除です!”
着眼とは着眼点の事で、要は掃除をした時に重視したポイントを聞かれているのだ。人によってはもっと細かい部分を聞いてくる事もあるが、本日の点検担当の教官殿は突っ込んで聞いては来なかった。
幸い、指摘事項が挙がらなかったので部屋に戻ると、部屋に残った4名で腕立て伏せをしていた。どうやらお菓子の袋を出しっぱなしにして点検を受け、雷が落ちたらしい。事務室から帰ってきた4名も混ざり就寝前にも関わらず腕立て伏せをして汗を流す。
指定の回数を班員全員でこなし、漸く清掃を終了する。
全員で汗を拭きながら作業服の上を羽織り、帽子を被る。ジャージを履き戦闘服の上を羽織る。通称ジャー戦(戦闘服ではなく作業服ではあるが、ジャー戦と呼ぶ)である。
なぜジャー戦になったのかと言えば…
“点呼ーー!”
そう、点呼があるからである。
点呼とは基本的に1日2回朝と夜に行なわれ、逃亡者をあぶり出す為の管理術である。
当直と呼ばれる課業外における管理者の前で整列し、番号を発声する事で人数を掌握しやすくなり、迅速な人数確認を可能とするのだ。これがあるため、脱柵(脱走の事だ)を行なう難易度が若干上がっている。
ーーもっとも、強固な意思を持っていれば点呼の有無に関わらず逃げ出す事はできるが。
“番号!始め!”
各班が横一列に並び、係が号令をかける。もう22時を過ぎると言うのに、1~10の数が、近隣住民の皆さまの安眠を妨害するべく響き渡る。
“第○班!総員○名、現在員○名。事故なし健康状態異常なし!!”
数字の合唱が終わったかと思えば、今度は輪唱である。殆ど変わらぬ文言を班の数だけ繰り返した所で上下に迷彩服を着込み、腕章をつけた当直殿がコツコツと音を立てながらお見えになる。
“気を付け!”
先程までの喧騒が嘘のように一瞬で静まりかえる。
当直殿が正面に立つと然程大きくはない声でひと言告げる。
“点呼”
取締と呼ばれる生贄が各班から受けた人員数を半ば叫ぶ形で当直に伝え、健康状態に異常がある者を挙げる。
ここで小さな声で点呼を受けようものならば、健康状態に異常があるとして皆で仲良く健康診断(という名の筋力トレーニング)である。そのため、どれ程近所迷惑であっても小さな声で数を数えたり、報告する事はない。
とはいえここは広い駐屯地敷地内の、内側に位置している為、多少大きな声を出してもそこまで近隣住民の方へ大きな迷惑をかける事は少ないだろう。
取締からの報告を受けた当直は、新隊員に対し少しばかり小言を言う。新隊員の挨拶の声が小さいだとか、共用スペースでやかましいだとか。誰もがドキっとする様な事に対し、注意をする事で気の引き締めを図っているのだろう。それに対し、全員で都度
“はい!”
と返事を行なう事で、漸く完全に1日が終わるのである。
23時までの僅かな時間に歯磨き等の用事を済ませ、ラッパをBGMに眠りにつく。新隊員としての教育期間中は、各種訓練等が満載の為、睡眠不足によるパフォーマンスの低下を避けるため、決まった時間、しっかり眠る事を求められる。万一消灯後に隊舎をウロウロとしていようものならば当直殿の雷を受ける。
しかしながら、そうはいっても全員が眠りに付くわけではない。昨今のゲームの普及状況から見ても幾人かは夜更かしをしているし、彼女や大事な人がいる者はラッパが鳴り止み静寂に包まれた隊舎の中では、唯一音を響かせる乾燥室の中に篭り、電話越しの逢瀬を楽しむものだ。かく言う私もソシャゲをプレイするために夜更しはするし、こっそりトイレに向かうこともある。部屋から抜け出しその場面を目にした時には、嫉妬で怒り狂いそうになる。とはいえ私ももう大人である。スマホを耳に当てたまま、見られてはならない場面を見つかった事に慌てる彼らを安心させるため、満面の笑みを浮かべて口を開ける。
“消灯後に電話してる隊員がいます!”
奴らリア充を苦しめる為ならば喜んで雷を受けるとも。
誤字等は発見次第修正していきます。




