第5話 川の主との遭遇
「川底の口」
その日も、夏の暑さがまとわりつくような午後だった。
僕と石塚、芳賀の三人は、特に目的もなく車で郊外を走っていた。窓の外では蝉の声がけたたましく鳴いていたが、車内はエアコンの涼しさとともに、どこか静まり返っていた。
「悪い、ちょっとトイレ……」
そう言い出したのは芳賀だった。ちょうど目の前に「河原公園」の案内板が見えたので、僕らは車をその駐車スペースへ滑り込ませた。
トイレは古びていたが清掃されており、特に不快ではなかった。石塚と芳賀がそれぞれ用を足す間、僕はなんとなく車の外へ出て、川の方へとふらふら歩き出した。
コンクリートの段差を下りていくと、小道の先に広い河原が広がっていた。
そこは、まるで時間が止まっているかのような場所だった。
木々は風もないのに微かに葉を揺らし、川の流れは穏やかで、どこか“静かすぎる”。ふと視線を上げると、対岸の先──浅瀬のあたりに、何かがいた。
「……え?」
思わず目を凝らす。
それは、小学生低学年くらいの背丈の“何か”だった。
人のようで、そうではない。裸のように見えたが、皮膚はどこか濡れた粘膜のようで、全体がくすんだ灰色を帯びていた。四つん這いになって、浅瀬に顔を突っ込んでいる。
そして──口を開けて、川底の“何か”を食べている。
ぬるり、と伸びる舌が、石の隙間から川虫を器用に舐め取り、またゆっくりと口の中に引き込まれる。音は聞こえないのに、その動きだけがやけに生々しく見えた。
僕は息を呑んだ。
「妖怪……?」
そんな言葉が自然に浮かんだ。
背筋に冷たい汗が流れるのを感じた瞬間、ふいに後ろから声をかけられた。
「おい、なに見てんだ?」
石塚だった。
僕は慌てて振り向いたが、もう一度対岸を見ると、そこにはもう“それ”はいなかった。代わりに、川沿いに立つ古びた看板が目に入った。
《この川での遊泳は禁止されています。深み・流れに注意》
「……なんか、見えた気がしただけだ。ここ、遊泳禁止なんだな」
言いながら、何気なく足元を見ると、地面に古いロープのようなものが落ちていた。かつて船着き場だったのだろう。岸の石積みも一部残っていて、どこか“過去の記憶”がそのまま置き去りにされているような気配を漂わせていた。
僕たちは特に何事もなく車へ戻り、そのまま帰路についた。
それから約一年が経った。
蒸し暑い夏の夕方、僕は何気なくテレビのニュースを見ていた。画面には、あの日立ち寄ったあの川が映し出されていた。
《都内から訪れていた若者が、河原で遊泳中に溺れて死亡。地元では以前から水難事故が相次いでおり……》
僕は画面に釘付けになった。
場所は、あの“口を開けて川虫を食べていた存在”がいた浅瀬。そのすぐそばだった。
ぞわり、と背中を悪寒が走る。
あの時の“何か”が、彼らを……?
そう思わずにいられなかった。
けれど、さらに恐ろしいのは、それだけでは終わらなかったことだった。
翌年──また同じ場所で、また若者がひとり、命を落とした。
しかも今度は、その人の遺体が異様な状態で発見されたという噂も耳に入ってきた。顔が泥に突っ込まれ、口の中に小石や川虫が詰まっていたというのだ。
“食べさせられた”のか? “同じようにされた”のか?
僕にはわからない。
けれど、確信だけはある。
あの川には、何かがいる。
川底に口を開けて、川虫を食べるあの灰色の“何か”。
あれは、そこに棲んでいる。人が忘れてしまった古い記憶の底に、静かに、確かに生きている。普段は目に見えないが、誰かが無防備に近づいたとき、その口を、そっと開くのだ。
──だから、僕は決めている。
水深のある川では、絶対に泳がない。
遊泳禁止と書かれている場所には、必ず“理由”がある。見える者には見える。それが、警告であることが。
もう、あの口の中に、自分の腕や足を突っ込まれるような真似は──二度としたくない。