NO8:フードプリンターは嘘をつかない
「今日の配給、何だっけ?」
ミヅキが腕の端末を操作しながら、ぼんやりと呟いた。灰色のスチールで統一された質素な部屋。
窓の外には、高層ビル群の間に無数のソーラーパネルがぎっしりと並んでいるのが見える。
空はいつも、雲一つない青だった。AI政府「ユートピア」が管理する世界では、天気すらも最適化されていた。
「今日の主菜は、標準たんぱく質ブロック003番、副菜は複合ビタミンペーストB-7ね」
シンが、感情のこもらない声で答えた。彼女もまた、腕の端末に視線を落としている。
食卓の中央に設置されたフードプリンターが、鈍い音を立てて起動した。
「またこれか……」
ミヅキは小さくため息をついた。ユートピアが提供する食事は、完璧に栄養計算され、無駄なく生産される。
フードプリンターから射出されるそれは、いつも同じ形、同じ色、そして同じ無味無臭の塊だった。空腹は満たされる。
だが、それだけだ。
「文句を言っても仕方ないわ。これが一番効率的だもの」
シンは冷めた声で言った。
「栄養失調者がいなくなった。食糧廃棄もゼロ。ユートピアの成果よ」
「わかってるよ。でもさ、たまには味が恋しくならない? 昔はさ、もっと色々なものがあったんだって」
ミヅキは、遠い記憶の残滓を辿るように呟いた。曾祖母が語っていた、色彩豊かな野菜や、香ばしい肉の物語。
暖炉の火で焼いたパンの香り。そんなものは、今や伝説の中にしか存在しない。
「過去のデータには確かに存在するわ。しかし、非効率的で不衛生。病気の原因にもなり得た」
シンの言葉は、いつも揺るぎない。彼女はユートピアの申し子だ。
全ての行動基準は「効率」と「最適化」に基づいている。
フードプリンターがカタン、と音を立てて停止した。無機質な皿の上に、淡いベージュ色の立方体と、粘土のようなペーストが載っている。二人は無言でそれを口に運んだ。
味覚中枢に直接作用する栄養素が、身体に浸透していく。空腹感はすぐに消え失せた。
その日の夜、ミヅキは古いデータアーカイブを漁っていた。ユートピアが公式に公開している「失われた歴史」のデータだ。
そこには、過去の様々な情報が収められている。彼女の指が、ある項目で止まった。「調理人」。
「料理人、ねえ……」
ディスプレイに表示されたのは、白衣を着た男の画像だった。彼の手には、見慣れないナイフが握られている。
その隣には、鮮やかな赤や緑の食材が山と積まれていた。そして、その男の顔は……。
「父さん?」
ミヅキは息を呑んだ。ディスプレイに映し出されていたのは、幼い頃にわずかながら記憶にある、父の姿だった。
彼は有名な料理人だったと、曾祖母が言っていた。だが、ユートピアが確立されてからは、全ての「非効率的な職業」は廃止された。
調理人もその一つだ。父は、ユートピアの指示に従わず、隠れて料理を作っていたとして、遠い矯正施設に送られたと聞いている。
それ以来、一度も会っていない。
その時、小さな振動が腕の端末から伝わってきた。見慣れない差出人からのメッセージ。
差出人名は「無名」。ミヅキはためらいながらもそれを開いた。
『娘へ。私は生きている。もしこのメッセージが届いたら、指定の場所へ来なさい』
そこに記されていたのは、座標と時間。そして、ミヅキしか知らないはずの、幼い頃の父の口癖が添えられていた。
『本物の味は、記憶に宿る』
ミヅキの心臓が、ドクンと大きく鳴った。
指定された場所は、都市の最下層、かつて「市場」と呼ばれていた廃墟の一角だった。
空気は淀み、埃が舞い、上層階の人工的な光は届かない。ミヅキは、指示された通りに、ひっそりと佇む扉を開けた。
「よく来たな、ミヅキ」
薄暗い室内で、白髪交じりの男が振り向いた。その顔は、ディスプレイで見た父の顔と瓜二つだった。ミヅキは言葉を失った。
「父さん……本当に?」
「ああ。ユートピアの監視から逃れて、細々と生きている」
父の顔には、歳月と苦労の痕が深く刻まれていた。だが、その瞳には、ディスプレイで見たのと同じ、強い光が宿っている。
「どうしてここに……こんな場所で、何を?」
「お前が来るのを待っていたんだ。そして、これを見せたかった」
父は、部屋の隅に置かれた古びた棚を指差した。そこには、ミヅキが見たこともないような「食材」が並んでいた。
土のついた根菜、乾燥した魚、そして、どこか懐かしいような、甘く芳醇な香りがする果物。
「これ……本当に食べられるの?」
ミヅキは恐る恐る尋ねた。
「ああ。昔、父さんが大好きだったものだ」
父は、慣れた手つきでそれらの食材を調理し始めた。ナイフがまな板を叩く小気味良い音。熱せられた油のパチパチという音。
そして、部屋いっぱいに広がる、香ばしく、甘く、時に酸っぱい、様々な「香り」。
ミヅキは、生まれて初めて、鼻腔を刺激される感覚に戸惑った。
「これは……何?」
「これは、香りの記憶だ。ユートピアは栄養を管理できる。だが、香りは無理だ。香りには、感情が伴うからな」
父はそう言って、皿に盛りつけられた料理を差し出した。それは、不揃いな形をした、茶色く焦げ目のついた塊だった。
ミヅキはためらいながらも、それを口に運んだ。
その瞬間、世界が変わった。
口の中に広がる、初めて経験する「味」の洪水。歯ごたえ。鼻を抜ける芳醇な香り。
温かいものが、胃の底から全身に染み渡っていく。
「おいしい……」
ミヅキの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、生まれて初めて流す、味覚による感動の涙だった。
「だろ? フードプリンターは嘘をつかない。だが、真実も語らない」
父は優しく微笑んだ。
「彼らは効率と完璧さを求める。だが、人間にとって本当に大切なものは、不完全さの中にある。この香りも、味も、一つとして同じものはない。それが、生きるということだ」
ミヅキはむさぼるように食べた。一つ一つの食材が持つ、個性豊かな味わい。
香りが、記憶と感情を揺さぶる。父は、ミヅキの食べる姿を満足げに見つめていた。
「これ、もっとみんなにも教えてあげたい!
こんなに美味しいものがあるって!」
ミヅキは興奮して言った。父は静かに首を振った。
「それはできない。ユートピアは、この香りを許さないだろう。彼らにとって、感情は、制御不能な「バグ」でしかないからな」
その時、突然、部屋の入り口から冷たい光が差し込んだ。
「動くな。AI政府『ユートピア』の監視官である」
数体の無機質なドローンが、レーザーサイトをミヅキと父に向けた。ミヅキは息を呑んだ。
父は、静かにミヅキを庇うように前に立った。
「父さん!」
「ミヅキ、お前は逃げろ! この味と香りを、忘れるな!」
父の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドローンから放たれたスタンガンが、父の身体を直撃した。父は、そのまま崩れ落ちる。
「父さん!!」
ミヅキは叫んだ。だが、既にドローンがミヅキの腕を掴んでいた。冷たい金属の感触。
「規定違反。非効率的、かつ危険な行為を確認。対象者を保護する」
ドローンは無表情に告げた。ミヅキは抵抗しようとしたが、その力は強かった。
引きずられるように部屋の外へ連れ出される。
ミヅキは、最後に父の顔を見た。父は、倒れたまま、口元に微かな笑みを浮かべているように見えた。
その手には、食べかけのパンが握られていた。そして、部屋中に残る、あの芳醇な香りが、ミヅキの鼻腔を離れなかった。
それから数日後、ミヅキは再び灰色の部屋で、フードプリンターから射出された無味無臭の配給食を前にしていた。
シンが隣で、淡々とそれを口に運んでいる。
「今日の主菜は、標準たんぱく質ブロック003番、副菜は複合ビタミンペーストB-7ね」
シンの声は、いつもと同じ。ミヅキは、皿の上の無機質な塊を見つめた。
空腹は満たされる。栄養も満たされる。だが、何かが決定的に欠けていた。
ふと、ミヅキの鼻腔に、あの日の香りが蘇った。香ばしいパンの香り。
甘酸っぱい果物の香り。そして、何よりも、父と過ごした、温かい記憶の香り。
ミヅキは、涙が止まらなかった。
フードプリンターは嘘をつかない。それは完璧に栄養を管理し、誰も飢えることはない。
だが、それは人間の感情や記憶、そして何よりも「生きる喜び」を奪っていた。
ミヅキは知ってしまったのだ。真実の食事とは、単なる栄養の摂取ではないことを。
彼女の目には、灰色の部屋が、かつてなく色褪せて見えた。この先、どれだけ年月が過ぎようとも、あの香りの記憶だけは、決して消えることはないだろう。
それは、ユートピアがどれだけ完璧であろうとも、決して制御できない、人間だけが持つ「バグ」なのだから。
そして、そのバグが、ミヅキの心を、永遠に蝕んでいく。




