表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/60

NO55:野陣の干し飯


 夕闇が迫り、空には鈍色の帳が下りていた。遠くで、からからと木枯らしが吹き荒れる音が聞こえる。

 ここは敵陣からほど近い森の中。

 今夜の野営地だ。


 焚き火の煙が細くたなびき、パチパチと薪が爆ぜる音が、凍えるような静寂に時折亀裂を入れる。

 兵士たちはそれぞれ、持参した布にくるまれた干し飯を取り出していた。


 皆、無言でそれを口に運ぶ。乾いた米粒が、口の中の水分を容赦なく奪っていく。

 それでも、誰も文句一つ言わない。


 それが、この過酷な戦場で生き抜くための、ささやかな糧なのだから。


 「なあ、これ食ってると、いつも思い出すんだよな」


 沈黙を破ったのは、隣に座る新兵の清吉せいきちだった。

 まだ年端も行かぬ顔には、ひげもまばらだ。彼は手のひらの干し飯をじっと見つめている。


 「何をだ?」


 俺は短く答えた。

 俺もまた、自分の干し飯を黙々と噛み砕いていた。


 「母ちゃんの握ってくれた飯をさ。もっと柔らかくて、温かくて、塩加減もちょうど良くてさ…」


 清吉の声は、だんだんと小さくなっていった。

 その目は、遠い故郷を見つめているかのようだ。


 「そうか…お前もか」


 俺はぽつりと呟いた。

 俺だって同じだ。


 この干し飯を口にするたびに、妻が作ってくれた、あの熱々の味噌汁と炊きたてのご飯が頭をよぎる。


 娘の笑い声も、鮮明に思い出される。


 「俺はな、もう少しで五になる娘がいるんだ。あいつが生まれてから、一度もこんなに長く離れたことがない」


 気が付けば、俺は自分の家族の話をしていた。清吉は、少し驚いた顔で俺を見た。


 普段、俺は感情を表に出す方ではない。


 「へえ、そうなんすか…。俺、てっきり兄さんは、家族なんかいねえのかと…」


 「馬鹿言え。家族がいたから、ここにいるんだ。守るべきものがあるから、刀を握ってるんだ」


 俺は、清吉の言葉に少し笑ってしまった。

 同時に、胸の奥がきゅうと締め付けられる。家族のために、この命を懸けている。


 だが、もし、もしも俺がここで死んだら、家族はどうなるのだろう。

 そんな考えが、ふと頭をよぎる。


 「兄さんは、俺よりずっと年上なのに、なんでこんなとこにいるんすか?もっと楽な仕事もあったんじゃ…」


 清吉は、遠慮がちに尋ねてきた。


 「…楽な仕事ねえ。世の中、そんなに甘くねえんだよ。それに、これは俺の役目だ。俺がやらなきゃ、誰がやるんだ」


 俺はそう言って、再び干し飯を口に運んだ。

 ごつごつとした感触が、歯茎に当たる。


 故郷では、きっと家族が同じように食事をしているだろう。

 温かい囲炉裏を囲んで、たわいのない話をしているかもしれない。


 「俺、帰ったら、母ちゃんにいっぱい親孝行するんすよ。それから、ずっと好きだったあの娘に、思い切って…」


 清吉は、夢見るような目で夜空を見上げていた。

 

 その横顔は、まだあどけなさを残している。


 「そうだな。お前はまだ若い。希望に満ちてるな」


 俺は、清吉の言葉に胸が締め付けられる思いだった。希望。

 俺にも、かつてはそんなものがあったはずだ。


 だが、この戦の終わりなき日々の中で、それは少しずつすり減っていく。

 その時、遠くで、かすかに狼の遠吠えが聞こえた。


 ひゅう、と風が吹き荒れ、焚き火の炎が大きく揺れる。


 「…そういや、この間、村でこんな話を聞いたんですよ」


 清吉が、急に声をひそめて言った。


 「なんだ?」


 「戦場で死んだ兵士の魂は、故郷の家族の元には戻れないって。戦場を彷徨い続けて、いずれは獣になるって…」


 清吉の声は、恐怖に震えているようだった。  

 俺は、何も言わなかった。

 そんな迷信めいた話は、いくらでも聞いたことがある。


 だが、この不安と隣り合わせの日々の中では、どんな話も真実味を帯びてくる。


 「そんなこと、気にするな」


 俺は、清吉の肩を軽く叩いた。

 だが、その言葉は、俺自身に言い聞かせているようでもあった。


 夜は、更けていく。焚き火の炎も、やがては小さくなり、炭となっていく。

 兵士たちは、それぞれが布を被り、横になっていた。


 凍えるような寒さの中で、皆、故郷に残した家族を想いながら、静かに目を閉じていた。

 翌朝、夜が明けきらぬ薄明かりの中、斥候の報告が届いた。


 敵兵が、すぐそこまで迫っているという。


 「皆、起きろ!出陣の準備だ!」


 号令が飛び、兵士たちは一斉に立ち上がった。眠っていたはずの体が、緊張でぴんと張り詰める。

 清吉は、まだぼんやりとした目で、俺の方を見ていた。


 「兄さん…」


 「しっかりしろ。生き残って、家族の元へ帰るぞ」


 俺はそう言って、清吉の背中を強く叩いた。清吉は、小さく頷いた。


 その日の戦は、激しいものになった。

 敵は数に勝り、俺たちは必死で応戦した。


 刀と刀がぶつかり合う音、人の叫び声、血と土の匂い。


 混沌とした戦場の中で、俺はひたすら刀を振るった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。


 ふと、清吉の姿が見えなくなった。


 「清吉!清吉はどこだ!」


 俺は叫んだ。だが、返事はない。必死で周囲を見渡す。


 その時、俺の視界に、倒れ伏した清吉の姿が飛び込んできた。

 彼の脇腹からは、血が滲み出ていた。


 「清吉!」


 俺は駆け寄った。清吉は、俺の顔を見て、かすかに微笑んだ。


 その手には、まだあの干し飯が握られていた。


 「兄さん…俺、母ちゃんに…会えねえのかな…」


 清吉の声は、途切れ途切れだった。その瞳は、もう何も映していない。


 「馬鹿野郎!そんなこと言うな!まだ早い!」


 俺は清吉の傷口を押さえた。


 だが、血は止まらない。温かいものが、俺の手のひらに広がっていく。


 「俺…干し飯…全部…食べられなかった…」


 清吉は、そう呟くと、静かに息を引き取った。

 その手から、乾いた干し飯が、ぽろりと地面に落ちた。


 俺は、清吉の冷たくなった顔を見つめながら、その場に膝をついた。

 故郷に残した家族を思いながら、この干し飯を口にしていた清吉。


 彼は、もう二度と、家族の元へは帰れない。 

 温かいご飯を食べることも、愛しい娘に会うことも、もう叶わない。


 戦が終わった後、俺は清吉の遺体を、人里離れた場所に埋葬した。

 せめて、安らかに眠ってほしい。

 そして、彼の魂が、故郷の家族の元へ帰れるように。


 俺は、ポケットから自分の干し飯を取り出した。まだ残っている。


 清吉が残した分も、俺が背負っていかなければならない。

 この乾いた飯を噛み締めながら、俺は誓った。

 必ず生きて帰る。家族の元へ。


 そして、この戦場で散っていった者たちの想いを、忘れない。



 たとえ、どんなに辛くても、この乾いた飯が、俺たちの絆であり、生きる証なのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ