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NO54:幌馬車のビスケット


 西部の荒野を照らす夕陽が、幌馬車の車輪の轍を赤く染め上げていた。

 埃っぽい風が吹き荒れる中、ジョンは幌馬車の片隅で膝を抱え、乾いたビスケットをかじっていた。


 硬く、味気ないそれは、開拓者たちが長い旅路の間に口にする唯一の贅沢だった。


 「ジョン、またそのビスケットか? そればっかり食べてるな」


 相棒のトムが、焚き火の番をしながら声をかけた。

 トムの顔は煤で汚れ、無精髭が伸び放題だが、その目はいつも優しかった。


 「ああ、これしかねぇだろ。しかし、これは特別なんだ」


 ジョンはビスケットを大事そうに見つめる。   それは故郷、東部の片田舎で母親が焼いてくれたビスケットにそっくりだった。


 もちろん、味は全く違うが、形といい、その素朴な感じといい、ジョンには故郷そのものに見えた。


 「特別ねぇ。俺に言わせりゃ、ただの石ころだぜ」


 トムはからかうように笑った。

 ジョンはむっとした。


 「失礼な! これはな、おふくろの味を思い出すんだ。あの頃は、毎日焼きたてのパンがあったし、日曜には七面鳥の丸焼きも…」


 ジョンの話は止まらない。

 故郷の豊かな食卓の思い出が、彼の心を温める。


 トムはうんざりした顔で、薪をくべた。


 「わかった、わかったから、もうその話は勘弁してくれ。俺はもう、あんたの七面鳥の話は耳にタコだ」


 「なんだと! お前だって、故郷の思い出はあるだろ! オハイオのリンゴ畑とか、言ってただろ!」


 ジョンが反論すると、トムは顔をしかめた。


 「そりゃそうだが、毎日ビスケットを見ながらリンゴの話はしねぇよ。っていうか、あんた、そのビスケット、まだ食べんのか?」


 トムの視線がジョンの手元に釘付けになる。    

 ジョンはすでに半分以上を平らげていた。


 「ああ、もちろん。もう一枚、いや、あと二枚は食べたいな」


 「げぇっ! 嘘だろ、ジョン! それ、もう今日の配給分だぜ! 明日の分はどうするんだ!」


 トムは目を丸くして叫んだ。

 開拓者にとって、食料は命綱だ。

 ビスケット一枚といえど、貴重な栄養源である。


 「大丈夫だよ、トム。俺はビスケットがあれば生きていける」


 ジョンは胸を張って言った。

 トムは頭を抱えた。


 「いや、生きてはいけるだろうけどさ! なんかこう、もっとこう、肉とか、野菜とか、食べたいと思わないのかよ!」


 「たまには思うさ。でも、このビスケットを食べてると、なんだか心が満たされるんだ」


 ジョンは恍惚とした表情でビスケットを口に運んだ。

 トムは諦めたようにため息をついた。


 次の日も、その次の日も、ジョンはビスケットを食べ続けた。

 他の開拓者たちが、かろうじて手に入れた干し肉や豆を分け合って食べる中、ジョンだけはひたすらビスケットを貪った。


 「ジョン、そろそろ本当に食料が尽きるぞ。ビスケットもあと一枚だ」


 ある日の夜、トムが深刻な顔で言った。

 ジョンの手の中には、最後のビスケットが握られていた。


 「なんだ、たった一枚か…。しかし、これが最後の一枚なら、ゆっくり味わうとしよう」


 ジョンはビスケットを掲げ、月の光にかざした。

 それはまるで、故郷から届いた手紙のように、彼には輝いて見えた。


 「そうだな。あんたの故郷の思い出、ビスケットと共に、じっくり噛み締めろよ」


 トムは優しい目をしていた。

 ジョンは大きく頷き、一口、ビスケットをかじった。


 その瞬間、ジョンの顔色がサッと変わった。


 「…トム…」


 「どうした、ジョン。故郷の味がしたか?」


 トムが冗談めかして言う。

 しかし、ジョンの顔は真剣だった。


 「トム…これ…」


 ジョンは口の中のビスケットを吐き出しそうになりながら、絞り出すように言った。


 「このビスケット、カビてる…!」


 トムは絶句した。

 ジョンが大事に大事に食べていた「故郷の味」は、旅の湿気と時間の経過で、見事に緑色に変色していたのだ。


 「え、マジで? お前、ずっとカビたビスケット食ってたのかよ!」


 トムは信じられないといった表情で叫んだ。  ジョンは青い顔で、残りのビスケットを凝視していた。


 「う、嘘だろ…! おふくろの味が、カビ…だと…? いやだあああ! 俺の故郷がああああ!」


 ジョンは最後のビスケットを投げ捨て、荒野に響き渡る叫び声を上げた。

 トムはそんなジョンを見て、ただただ遠い目をするしかなかった。



 開拓の旅は、時に残酷な現実を突きつけるのである。そして、その日を境に、ジョンはビスケットを一切口にしなくなった。


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