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ポケット・リザーブ  作者: 緑茶
45/60

NO45:流浪の武士と一汁一菜


 乾いた風が吹き荒れる中、弥太郎は重い足を引きずっていた。

 主家は滅び、故郷は焼かれた。


 もはや己には、この痩せこけた体と錆びついた刀以外に何もない。

 諸国を彷徨うこと、はや三年。


 日々の糧を得ることさえままならず、武士としての誇りはとうに土埃にまみれていた。

 その日も、空腹に耐えかねて意識が朦朧としていた。


 草木がまばらな荒れた道を、ただひたすらに歩く。

 どれほど歩いたか、ふと、かすかに煙の匂いが鼻腔をくすぐった。


 生者の匂いだ。弥太郎の胸に、久しく忘れていた微かな希望が灯る。

 辿り着いたのは、わずかばかりの家々が寄り集まった小さな村だった。


 軒先からは、わずかながらも温かな灯りが漏れている。

 弥太郎は警戒しながらも、最も古びた家の戸口に立った。


 「ごめんくだされ……旅の者ですが、一夜の宿とわずかな恵みをいただけませぬか」


 震える声で呼びかけると、しばらくして戸がわずかに開いた。

 現れたのは、白髪交じりの老婆だった。


 皺深く刻まれた顔は疲労に満ちていたが、その瞳にはどこか慈悲の色が宿っていた。


 「まあ、お立ち寄りなされ。こんな寂れた村に、まさか旅の武士様が来られるとは」


 老婆は弥太郎の痩せこけた体を見つめ、痛ましげに目を伏せた。


 「ささ、中へ。粗末なものしかございませんが、冷えたお体を温めてくださいまし」


 弥太郎は恐縮しながらも、勧められるままに家の中へ入った。

 土間にはかまどがあり、そこからは優しい木の燃える匂いが漂っている。


 囲炉裏には小さな火が焚かれ、その上には土鍋がかけられていた。


 「この里では、ろくな物も採れませぬが……」


 老婆はそう言いながら、小さな膳を弥太郎の前に差し出した。

 そこにあったのは、湯気の立つひえの飯と、大根とわずかな野草が入った味噌汁だけだった。


 一汁一菜。質素を絵に描いたような食事だったが、弥太郎の目には、何よりも豪華な馳走に見えた。


 「これは……かたじけない」


 弥太郎は震える手で箸を取り、ゆっくりと飯を口に運んだ。

 素朴な味が、じわりと体に染み渡る。温かい味噌汁をすすれば、凍えきった体が芯から温まるのが分かった。


 「本当に、ありがたい……」


 弥太郎は何度も頭を下げた。老婆はにこやかにそれを見つめている。


 「お武家様は、一体どちらへ向かわれるのでございますか?」


 老婆の問いに、弥太郎は静かに答えた。


 「行くあてなど、もはやございませぬ。主を失い、ただこの身一つで彷徨っております」


 老婆は頷き、寂しげな表情を浮かべた。


 「さようでございますか。世は乱れておりますゆえ、お辛いことと存じます。しかし、生きている限り、希望はございます」


 その言葉が、弥太郎の胸に深く突き刺さった。希望、か。自分にそんなものがあるのだろうか。


 「婆様は、なぜこのような私めにまで、情けをかけてくださるのですか」


 弥太郎の問いに、老婆は静かに答えた。


 「この年まで生きておりますと、人の哀れというものが、ようく分かるのです。あなた様のお顔には、苦労が深く刻まれております。見ていられなかった。それだけでございますよ」


 その夜、弥太郎は久しぶりに安らかな眠りについた。

 土間にはむしろが敷かれ、冷たい夜風は遮られていた。


 温かい食事と、老婆の優しい言葉。それだけで、弥太郎の心は満たされていた。




 夜が更け、弥太郎がうとうとしていたその時、かすかな物音で目を覚ました。

 外が騒がしい。怒号と悲鳴が聞こえる。賊か!弥太郎は反射的に刀の柄に手をかけた。


 「婆様! 何事ですか!?」


 弥太郎が声を荒げると、老婆の顔が青ざめる。


 「まさか……この村が襲われるとは……!」


 戸の外から、複数の足音が近づいてくる。

 戸板が激しく打ち付けられる音。

 弥太郎は錆びた刀を鞘から抜き放った。

 月の光を受けて、刀身が鈍く輝く。


 「婆様、奥へ! 私が食い止めます!」


 弥太郎は老婆を奥へと押しやり、刀を構えて戸の前に立つ。

 戸が蹴破られ、闇の中から粗暴な男たちが姿を現した。


 三人の賊が、手に得物を持って弥太郎を取り囲む。


 「なんだ、武士か。こんな寂れた村にいたとはな」


 一人の賊が嘲るように言った。弥太郎は無言で構えを低くする。

 飢えと疲労で衰弱しきっていた弥太郎だが、この温かい情けをくれた老婆のため、命を賭して守る覚悟だった。


 賊の一人が、弥太郎めがけて斬りかかってきた。

 弥太郎は動かない。敵の刀が、まさに弥太郎の喉元に迫ったその瞬間、弥太郎の刀が閃光のように走った。


 シュンッ!


 甲高い風切り音と共に、弥太郎の刀が鞘から放たれる。

 目にも止まらぬ速さで、賊の喉を正確に捉えた。


 男は呻き声一つ上げることなく、その場に倒れ伏した。

 残りの二人の賊が、顔色を変える。


 彼らは弥太郎がただの落ちぶれた武士ではないと悟った。

 弥太郎は、抜き放った刀を鮮やかに鞘に納める。


 流れるような居合いの型は、武士としての鍛錬の証だった。


 「ひ、ひるむな! 二人掛かりで叩き斬れ!」


 もう一人の賊が叫び、仲間と共に同時に襲いかかってきた。

 弥太郎は冷静だった。一歩、踏み込む。


 サッ!


 弥太郎の体が、風のように賊の懐へと滑り込んだ。そして、再び刀が抜かれる。


 ザシュッ!


 一瞬の間に、二人の賊の体に、鮮血が舞った。

 弥太郎の刀は、正確無比に急所を捉えていた。


 二人の男は、驚愕の表情のまま、声もなく地面に倒れ伏した。

 弥太郎は、刀身についた血を払い、静かに鞘に納めた。息を切らすこともなく、まるで何事もなかったかのようにその場に立つ。


 弥太郎の目は、もうかつての虚ろな輝きではなかった。

 そこには、武士としての覚悟と、老婆への感謝が宿っていた。




 夜襲は、弥太郎の働きによって防がれた。村人たちは恐怖に震えながらも、弥太郎の武勇にひどく感謝した。

 老婆は弥太郎の手を取り、何度も頭を下げた。


 「お武家様……本当に、ありがとうございました。あなた様がいらっしゃらなければ、わしらはどうなっていたか……」


 弥太郎は首を横に振った。


 「いえ、婆様。この命、あなた様の温かい一汁一菜に救われたものです。恩返しができたこと、私こそ感謝いたします」


 弥太郎の胸には、再び確かな希望が灯っていた。

 かつては失いかけていた武士としての誇りも、この村を守ったことで取り戻せた気がした。


 夜が明け、村には静けさが戻った。

 弥太郎は朝日に照らされる村を見つめる。


 ここが、自分の新たな始まりになるのかもしれない。


 「婆様、もしよろしければ、しばらくこの村に留まらせていただくことはできますでしょうか」


 弥太郎の言葉に、老婆は目を細めてにこやかに頷いた。


 「もちろんでございますとも。この村は、あなた様を歓迎いたしますよ」


 弥太郎の心には、もう迷いはなかった。

 武士としての道は険しい。


 しかし、この一汁一菜の恩情を忘れず、この村のために、そして己のために、生きていこう。

 



 錆びついていた刀は、再び研ぎ澄まされ、弥太郎の新たな人生の始まりを告げるかのように、静かに光を放っていた。


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